終章は・・・
司馬遼太郎が少年の日に夢想した「モンゴル」・・・司馬さんと草原の人ツェベクマさんとの出会い・・・
ツェベクマさんと司馬さんとの別れで・・・司馬さんの人生の完結・・・
司馬遼太郎とモンゴルの話しです。
司馬遼太郎は少年の日、夢想の霧の中でモンゴルに憬れたそうです。大阪外語学校モンゴル語学科に進み、学徒動員で戦車学校を経て満州の戦車隊に、敗戦間際に何故か戦車隊は本土の栃木県佐野市に移動、終戦を迎えます。新聞記者を経て作家に、時がたちモンゴルと日本との国交が回復した1972年の翌年の1973年念願だった憧れのモンゴルを訪れます。そのとき通訳、ガイドを務めてくれたのが国営ウランバートルホテルのフロント主任ツェベクマさん。司馬さんは毅然とした態度のツェベクマさんに心惹かれたようです。1週間の旅行です。帰国後、週刊朝日に「街道をゆく モンゴル紀行」を連載。
旅の終りにツェベクマさんは司馬さんの奥さんのみどりさんにトルコ石のペンダントをプレゼントしてくれます。祖母から母に、母からツェベクマさんに伝えられた形見だそうです・・・一番大事なものを・・・です。司馬さんに心惹かれる何かを感じたのでしょう。
17年後の1990年、ツェベクマさんに知人の鯉渕信一さん(モンゴル語学者、モンゴル国立大学教授、亜細亜大学教授)から電話が入ります。「司馬さんが近夏、モンゴルを訪ねて、ツェベクマさんの半生についていろいろ聞きたいとおっしゃっていますが、いかがでしょうか」という内容でした。ソビエト連邦がペレストロイカで崩壊、衛星国のモンゴルに民主化の波が押し寄せているときです。
司馬さんの前で彼女は過ごしてきた人生を語ります。
1924年ソ連邦シベリヤのモンゴル人のブリヤード族の住む村で生まれ3歳のとき、内モンゴルのホロンバイルに移住、満州国時代に少女期、青年期を過ごします。ホロンバイルのハイラルで日本人の高塚シゲ子という先生の私塾で中等教育を受け、この先生との出会いがその後の人生の指針になります。「人に笑われない人間になりなさい」という言葉が高塚先生の教えだったそうです。ホロンバイルで父の知人の白系ロシア人にロシア語を、初等、中等教育で日本語を学びます。1945年日本敗戦、満州国は中国内モンゴル自治区に。内モンゴルの人プリンサインと結婚、ご主人は日本の東京高等師範学校に留学したインテリ。やがて共産党の躍進、「百家争鳴」「文化大革命」「紅衛兵」の嵐が吹きます。ご主人は高学歴、日本留学、日本語ができる・・・などで目の仇にされ吊るし上げの対照になります。ご主人は身の危険を感じてツェベクマさんと一人娘を生れ故郷のシベリアに脱出させ、そのあと投獄されます。ツェベクマさんはシベリアの従弟の家で世話になりモンゴル人民共和国に移動、ここでは短期滞在をくり返し、労働許可書を得て国営ウランバートルホテルに職を得ます。語学に通じていたのが役に立ちました。やがて国籍取得。母子家庭で一人娘を育て上げます。解放されましたがボロボロになったご主人をウランバートルに呼び、最後を看取りますした。
司馬さんの「あなたの人生は」という質問に「希望だけの人生でした」と答えます。
帰国する前日、司馬さんは「日本にぜひいらっしゃい」と誘います。
司馬さんは1991年雑誌「新潮45」に「草原の記」を発表。
1991年月ツェベクマさん、娘イミナさん(モンゴル国立工科大学教授)とご主人(芸術大学学長)、孫のアマルさんの4人は日本の土を踏みます。司馬さんは娘のイミナさんにいいます。
「明日の朝、お茶の水駅の聖橋の上を歩きなさい。お父さんの学んだ東京高等師範学校は聖橋の傍にありました。聖橋はお父さんの歩いた道です」
ツェベクマさんは後日、鯉渕さんにこう語ったそうです。
「もしも司馬先生に今、”あなたの人生は"と訊ねられたら、”実りある人生でした”と答えることができそうです」
1996年2月司馬さんが急死。3月10日「司馬さんを送る会」に出席するためツェベクマさんは再度来日します。3月9日、ツェベクマさんは東大阪の司馬邸を訪れました。みどり夫人は玄関から入ってこられるツェベクマさんを見て「ああ、これで司馬さんの人生は完結したなと思った」と語っていたそうです。
「星の草原に帰らん」(日本放送出版協会 1999年刊)・・・作家の工藤美代子さんから鯉渕信二さんのところにツェベクマさんが自分史を書いてみたいから手伝ってほしいという話が1997年ごろありました。鯉渕さんは1972年、モンゴルに日本大使館ができるときお手伝いをしていて、そのときからツェベクマさんとの付き合いが始まった間柄です。ツェベクマさんの記述、お話しを鯉渕さんが整理、構成するという形で見事な本に仕上がっています。
ツェベクマさんの人生は、ロシア領ブリヤード族居住地の、満州国内蒙古の、新中国の文化大革命当時の、モンゴル人民共和国の、民主化後のモンゴル国の・・・近代から現代までの歴史と重なって見えます。
満州国時代の多感な少女期、徳のある日本人女性教師との出会いによって人格が形成されました。
そのことで人生のターニングポイントごとに素晴らしい人に会うことができました。
司馬さんとの出会いは3度、合わせて10数日だろうと思います。
4度目の出会いは東大阪の司馬邸の遺影の前でした。
この三冊の本・・・モンゴルを憧憬した「司馬少年のモンゴル三部作」と呼びたい。
・・・草原の国モンゴル・・・終章・・・終り
※ツェベクマさんは2002年「星の草原」に帰っていきました。
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