比企の丘

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台湾・・・嘉義市・・・映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」・・・嘉義農林野球部の物語り

2020-06-17 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
・・・彩風人の写真帳・・・
台北からはじまる台湾の旅は・・・台南、そして嘉義に。
台湾中西部の中核都市「嘉義市」・・・いまから89年前の1931年、台湾全島を沸かせた大きな物語りがありました。

2014年公開映画(日本公開は2015年) 『KANO 1931海の向こうの甲子園』・・・

日本統治時代の1931年、甲子園の第17回全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)に初出場、準優勝に輝いた台湾州立嘉義農林学校の野球部の球児たちと教練(監督)近藤兵太郎の物語りです。


昭和6年の甲子園の夏、胸に「KANO」のマークの嘉義農林の先発メンバーは・・・日本人3人、中国系台湾人2人、先住台湾人4人からなる民族の壁を越えたチーム。初戦の神奈川商工戦は3-0、次の札幌商業戦は19-7、準決勝の小倉商工10-2と勝ち進み決勝戦へ。中京商業との決勝戦は0-4で破ぶれます、最初は新聞記者の好奇心に満ちた異民族の混成チームであることへの質問を受け、心なき観衆のヤジも浴びますが、日本人メンバーは「自分たちは友だちだ」、近藤教錬は「彼らは同じ球児だ」と答えます。決勝戦ではスタンドから「天下のKANO」の大合唱が沸き起こります.。

嘉義農林の球児たちのゆかりの地を訪ねました・・・



KANOのピッチャーで4番打者、主将・・・アキラと呼ばれた・・・
レジェンド・・・呉明捷・・・のブロンズが
・・・
町の中心部…中央ロータリー噴水池の中心に・・・1時間に1回転…朝から…ライトアップされ夜まで・・・


呉明捷(1911~1983年)・・・中国客家系台湾人、甲子園での全試合を一人で投げぬいた怪腕。早稲田大学に進み、首位打者、本塁打7本は21年ぶりに長嶋茂雄の8本に破られるまで東京六大学本塁打通算記録、卒業後は東京の台湾拓殖で社会人野球選手として活躍、1945年日本の敗戦で引退、台湾に戻らず中華民国国籍のまま日本に残り、毎日新聞記者、文化部長、千葉日報専務を勤めた。

嘉義市内檜意森活村・・・
林業に携った日本人の旧住宅10棟をを復元した公園施設。日本統治時代に戻ったようなテーマパーク。アイスクリームショップなど。



その中の1棟が映画では嘉義農林の野球部教練近藤平太郎の教員宿舎として撮影に使われました。
その後「KANO故事館」として当時のグローブやバット、ボール、ユニホーム、ゆかりの品などが展示されています。

近藤平太郎(1888~1966年)・・・松山商業学校卒、松山商業野球部コーチとして母校を甲子園初出場に導く。1925年嘉義商工学校の簿記教諭として渡台、嘉義商工に野球部がなかったため請われて嘉義農林学校野野球部の指導を行う。1931年正式に野球部総教錬(監督)就任、春夏計5回の甲子園出場に導いた。厳しいスパルタ練習であったが、日本内地人、中国系台湾人、現住台湾人を問わない教育で人材を育て社会におくっている。




嘉義農林の球児たちが汗を流した嘉義公園棒球場・・・・いまは嘉義市立棒球場、大きなスタジアムに・・・改修中。
※撮影日は2月22日。
★ゆかりの地はそのほかに、郊外の国立嘉義大学(嘉義農林の後身)のキャンパス内の庭園には甲子園の大観衆が合唱したという「天下の嘉農」の言葉を刻んだ大きな野球ボールのモニュメント、準優勝の記念碑、和服姿の近藤監督と甲子園の最奥のフェンスに三塁打を放ったという蘇正生選手の銅像が、校史室には嘉納農林野野球の記録、写真が展示してあります。時間で関係で断念。


近藤平太郎監督の言葉・・・『球(たま)は霊(たま)・・・霊(たま)正しからば、また球(たま)正し
★愛媛県松山市坊っちゃんスタジアムにこの言葉を刻んだ近藤平太郎の顕彰碑が2014年建立されている。


★映画の日本公開は2015年、DVD発売、ぜひ見てみたい映画です。


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