南信州の旅・・・静岡県境に近い天龍村・・・平岡ダム。
堤高62.5m、戦前に着工された天龍川水系のダムでは最高(そのご1956年竣工した佐久間ダムは155.5m)。堤長258m。工事施工者熊谷組。1938着工~1951年竣工(途中1945年5月~1949年まで中断)。今から60年以上前に作られました。パワーシャベルもブルト-ザーも大型クレーンも大型ダンプカーもない時代です。トロッコとモッコ担ぎ、ほとんど人力で造られたダムです。
ダム堰堤のズームアップ。きょうは中央ゲートのみの放水です。放水していない越流部のコンクリートが痛々しい。赤石山脈から流れる中央構造線の崩落しやすい岩盤から流下してきた砂礫が削ったものでしょうか。この砂礫の堆積は上流の泰阜ダムとこの平岡ダムのダム湖の80%以上に及ぶそうです。
ダムの少し下流から平岡駅方面を。満島という地籍。平岡橋が見えます。右岸は松島、平岡発電所があります。
堰堤を横から見ています。右奥に水力発電所の取水口があります。
取水口のズームアップ。
ダム堰堤の横にある管理棟の脇、道の山側に約4mの碑文がありました。
「在日殉難中国烈士永垂不朽」
「何が・・どうして」という説明文はありません。
あとから調べてみました。そのほかに
共同火葬場跡に「中国人烈士火葬場跡」、
自慶院に「興亜建設中国殉職者の碑」、
天龍中学校の庭の一隅に「連合軍俘虜追悼碑」が、
平岡発電所構内に「工事殉職者の追悼碑」があるそうです。日本人38人の名前が刻まれ、中国人15人、韓国人13人の死亡者数のみ刻まれ、連合国俘虜の死亡者数はないようです。
どこにも「何が、どうして」の説明はないようです。あれから65年経っていまでは読んだ人は意味がわかりません。これから50年後、100年後読んだ人はなおさら意味がわかりません。
後藤総一郎「遠山物語」(ちくま学芸文庫1995年刊)のあるページからの写真です。後藤総一郎(1933~2003年)明治大学教授、思想史学者。平岡に程近い遠山郷の出身。平岡ダム建設のころは小学生であろうか。
美しい南信州。山も川も人もみんな美しい。こんなところに60数年前、何があったのでしょう。数年前、後藤総一郎の「遠山物語」のこの1ページを読むまでおぞましい加虐の歴史があったなんて知りませんでした。わたしの育ったのは伊那谷の天竜川のほとり、100kmちかい下流にこんなことがあったなんて聞かせてくれる人もいません。
少し調べてみました。そしてあるネット記事を見ました。市民団体人権平和浜松のHP「平岡発電工事への強制連行について→クリック。この記事がどういう意図を持って書かれたか知りません。ただ膨大な資料(文献38冊)から客観的な事実を拾っているように思いました。数字的資料・・・死者の人数などは曖昧です。都合の悪いことは消されているのでしょうか。この中の数字を拾ってみました。
●平岡発電所の工事に連行され朝鮮半島の人・・・2000人
●在日で雇用された朝鮮の人・・・・・・・・・・・・・・・・・・500人
●遠山川飯島発電所工事の朝鮮の人・・・・・1000人 計3500人、死者58人、詳細は不明。
●中国人俘虜、中国本土華北から連行・・・・・・・・・・880人 死者62人、失明など40人。
●連合軍俘虜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・440人 死者50人。
死因は飢餓、脚気、心臓病、肺炎、殴打。
ここでは日本兵数十人、監視人として退役した傷痍軍人が徴用された。
1945年9月16日閉所。
BC級戦犯裁判で絞首刑6人、終身刑4人、25年刑1人。
朝鮮人、中国の一般人の場合は募集、契約という形はとられたようです。実態はどうだったのでしょう。飯島発電所に送られた朝鮮人は厚生省報告書によれば938人、うち逃亡を企てたもの428人、死者1人と記されているそうです。いかに苛酷な労働であったか想像できます。脱走に成功したもの成功しなかったもの。成功した人もあったということは途中の山の中で助けた人がいるはず。日本の民家の人か在日の同胞かはわかりません。
BC級戦犯、俘虜に対する過酷な扱いから科せられました。日本の軍隊が「戦時国際法捕虜の扱い(ハーグ条約)」をすべての軍人に知らしめていればこういうことにはなりません。知らしめれば「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神に反し、玉砕より投降を選んでしまいます。俘虜収容所の軍人たちはこの法律を知りませんから俘虜になるような人間を徹底的にいたぶったのでしょうか。鬼のような監視員たちも軍人になる前は優しい青年、お父さんであったでしょう。彼らもまた戦争の犠牲者だったと思います。
わたしの友人の近くの村で農業を営む叔父は雇用されて通勤しており、握り飯を用意して行き監視の目を潜り米兵に渡したことがあったことを話されていたそうです。中国でも日本人の収容所に中国人の子どもがマントウを差し入れに来たことを聞きました。人間の優しさはどこの国の人にもあるのですね。
戦争遂行の国策として発電所造りは学徒動員でも行なわれ地元の旧制飯田中学校の4年生は1944年2学期飯島発電所へ動員され朝鮮人労働者とともに苛酷な労働を行い、ときには彼らから教わっ「アリランの歌」を唱和したという。
平岡ダムの美しい風景の影に、奴隷的労働があったことを決して封印してはならない。
戦争のない時代を生かさせてもらったわたしたちはそれを後世に語り継ぐ責任があります。
平岡ダムの地図→クリック
南信州の旅④に続きます。
堤高62.5m、戦前に着工された天龍川水系のダムでは最高(そのご1956年竣工した佐久間ダムは155.5m)。堤長258m。工事施工者熊谷組。1938着工~1951年竣工(途中1945年5月~1949年まで中断)。今から60年以上前に作られました。パワーシャベルもブルト-ザーも大型クレーンも大型ダンプカーもない時代です。トロッコとモッコ担ぎ、ほとんど人力で造られたダムです。
ダム堰堤のズームアップ。きょうは中央ゲートのみの放水です。放水していない越流部のコンクリートが痛々しい。赤石山脈から流れる中央構造線の崩落しやすい岩盤から流下してきた砂礫が削ったものでしょうか。この砂礫の堆積は上流の泰阜ダムとこの平岡ダムのダム湖の80%以上に及ぶそうです。
ダムの少し下流から平岡駅方面を。満島という地籍。平岡橋が見えます。右岸は松島、平岡発電所があります。
堰堤を横から見ています。右奥に水力発電所の取水口があります。
取水口のズームアップ。
ダム堰堤の横にある管理棟の脇、道の山側に約4mの碑文がありました。
「在日殉難中国烈士永垂不朽」
「何が・・どうして」という説明文はありません。
あとから調べてみました。そのほかに
共同火葬場跡に「中国人烈士火葬場跡」、
自慶院に「興亜建設中国殉職者の碑」、
天龍中学校の庭の一隅に「連合軍俘虜追悼碑」が、
平岡発電所構内に「工事殉職者の追悼碑」があるそうです。日本人38人の名前が刻まれ、中国人15人、韓国人13人の死亡者数のみ刻まれ、連合国俘虜の死亡者数はないようです。
どこにも「何が、どうして」の説明はないようです。あれから65年経っていまでは読んだ人は意味がわかりません。これから50年後、100年後読んだ人はなおさら意味がわかりません。
後藤総一郎「遠山物語」(ちくま学芸文庫1995年刊)のあるページからの写真です。後藤総一郎(1933~2003年)明治大学教授、思想史学者。平岡に程近い遠山郷の出身。平岡ダム建設のころは小学生であろうか。
美しい南信州。山も川も人もみんな美しい。こんなところに60数年前、何があったのでしょう。数年前、後藤総一郎の「遠山物語」のこの1ページを読むまでおぞましい加虐の歴史があったなんて知りませんでした。わたしの育ったのは伊那谷の天竜川のほとり、100kmちかい下流にこんなことがあったなんて聞かせてくれる人もいません。
少し調べてみました。そしてあるネット記事を見ました。市民団体人権平和浜松のHP「平岡発電工事への強制連行について→クリック。この記事がどういう意図を持って書かれたか知りません。ただ膨大な資料(文献38冊)から客観的な事実を拾っているように思いました。数字的資料・・・死者の人数などは曖昧です。都合の悪いことは消されているのでしょうか。この中の数字を拾ってみました。
●平岡発電所の工事に連行され朝鮮半島の人・・・2000人
●在日で雇用された朝鮮の人・・・・・・・・・・・・・・・・・・500人
●遠山川飯島発電所工事の朝鮮の人・・・・・1000人 計3500人、死者58人、詳細は不明。
●中国人俘虜、中国本土華北から連行・・・・・・・・・・880人 死者62人、失明など40人。
●連合軍俘虜・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・440人 死者50人。
死因は飢餓、脚気、心臓病、肺炎、殴打。
ここでは日本兵数十人、監視人として退役した傷痍軍人が徴用された。
1945年9月16日閉所。
BC級戦犯裁判で絞首刑6人、終身刑4人、25年刑1人。
朝鮮人、中国の一般人の場合は募集、契約という形はとられたようです。実態はどうだったのでしょう。飯島発電所に送られた朝鮮人は厚生省報告書によれば938人、うち逃亡を企てたもの428人、死者1人と記されているそうです。いかに苛酷な労働であったか想像できます。脱走に成功したもの成功しなかったもの。成功した人もあったということは途中の山の中で助けた人がいるはず。日本の民家の人か在日の同胞かはわかりません。
BC級戦犯、俘虜に対する過酷な扱いから科せられました。日本の軍隊が「戦時国際法捕虜の扱い(ハーグ条約)」をすべての軍人に知らしめていればこういうことにはなりません。知らしめれば「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神に反し、玉砕より投降を選んでしまいます。俘虜収容所の軍人たちはこの法律を知りませんから俘虜になるような人間を徹底的にいたぶったのでしょうか。鬼のような監視員たちも軍人になる前は優しい青年、お父さんであったでしょう。彼らもまた戦争の犠牲者だったと思います。
わたしの友人の近くの村で農業を営む叔父は雇用されて通勤しており、握り飯を用意して行き監視の目を潜り米兵に渡したことがあったことを話されていたそうです。中国でも日本人の収容所に中国人の子どもがマントウを差し入れに来たことを聞きました。人間の優しさはどこの国の人にもあるのですね。
戦争遂行の国策として発電所造りは学徒動員でも行なわれ地元の旧制飯田中学校の4年生は1944年2学期飯島発電所へ動員され朝鮮人労働者とともに苛酷な労働を行い、ときには彼らから教わっ「アリランの歌」を唱和したという。
平岡ダムの美しい風景の影に、奴隷的労働があったことを決して封印してはならない。
戦争のない時代を生かさせてもらったわたしたちはそれを後世に語り継ぐ責任があります。
平岡ダムの地図→クリック
南信州の旅④に続きます。
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