比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

ナガサキ忌2012・・・爆心地のモニュメント・・・黙祷

2012-08-09 | 語り継ぐ責任 ひろしま ナガサキ
1945年8月9日11時02分、長崎市松山町9番地上空500m。米軍戦略爆撃機の落としたプルトニューム爆弾「ファットマン」・・・爆発。

長崎市松山町9番地・・・爆心地公園、正しくは平和祈念像のある広場も含めて長崎平和公園。
ここは原爆落下中心地・祈りのゾーンといいます。

                ※写真は2008年4月3日撮影。

長崎・・・平和祈念像、グラバー邸、大浦天主堂、眼鏡橋・・・など有名です。
ここ爆心地は訪れる人は平和祈念像の広場に比べて少ないかもしれません。
爆心地公園にある記念碑も彫像も平和祈念像をはじめとする彫像も原爆ドームのような具体的な原爆被害遺構そのものではなく、モニュメントの作り手の心象を伝えるものです。偶像という論議もあるようです。
それでも長崎を訪れる人がそれを見て何か心に残して帰ればいいのじゃないかと思うのです。

爆心地公園の一隅に浦上天主堂の煉瓦壁の遺構が移されて建っています。

ここを訪れたのは2008年4月です。
平和祈念像の広場から永井隆博士の終焉の住居(如己堂)、浦上天主堂・・・爆心地公園まで歩きました。

永井博士が原爆病に苦しみながら数々の著書を遺したバラック建てのアバラヤ(如己堂)から坂道の下の浦上天主堂に歩いています。

                              ※写真は2008年4月3日撮影。画像クリックで別写真。

1945年8月9日、天主堂ではミサが行われていたが原爆投下により司祭はじめ多数の信徒は一瞬のうちに全員死亡。

浦上天主堂》・・・1879年小聖堂建設、1914年煉瓦造りの天主堂完成、1945年瓦礫と化す。1946年瓦礫撤去、一部の外壁は原爆保存委員会の要請で仮保存。1958年長崎市議会は「保存に関する決議案」可決。教会側に移転して再建を要請。教会側は理解を示しながら江戸時代からの迫害の歴史的背景、隠れキリシタン発見の地としての信仰的な理由で受け入れられないという意思を決定、また核兵器保有国アメリカに配慮があったという理由も考えられ、1958年全面取壊しが開始。1959年現在の形の0天主堂が完成。1980年改修。
浦上天主堂が・・・広島の原爆ドームのような形で保存されていたら後世に伝える非人道的科学兵器の証しとしてのモニュメントになったであろう。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿