比企の丘

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今日は何の日・・・ソ連軍の満州進攻

2012-08-09 | 語るべき責任 満蒙開拓とは何だったのか
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今から67年前の1945年8月9日未明、満州国(現在の中国東北部)にソ連は「日ソ中立条約」を破棄して150万人の兵力で満州全体に襲いかかかります。これに対して日本軍の兵力は80万人、新京、大連のラインまで南下して迎撃戦をとるという作戦をとったといいます(進攻を察知して南に逃げたという人もいます)。・・・このためほとんどの開拓民は日本軍の範疇の外に置き去りにされました。

日ソ中立条約破棄の謎・・・1945年2月ウクライナのクリミア半島ヤルタで連合国の米・英・ソの三国首脳がドイツの降伏後の戦後処理を決め、併せて米・ソ首脳間(ルーズベルト・スターリン)でドイツ降伏90日後にソ連が対日参戦する秘密協定を結びます・・・千島・樺太の処遇つきのオイシイ話つき・・・ということになっています。世に言うヤルタ会談です。米ソ首脳の駆引きのように思えます。戦争というものは条約なんて糞喰らえなんです。
5月7日ドイツ降伏文書調印、5月8日降伏文書批准調印(ソ連時間9日)。ソ連軍はヨーロッパからソ満国境に兵力を着々と移動します。3ヶ月後が待ち遠しかったでしょうね。

それからあとのこと。
歴史にifはないけれど
・・もう少しソ連軍の参戦が早かったら・・・日本はどうなっていただろうか。南北朝鮮、東西ドイツの影が見えてきます。
・・・もう少し終戦の詔勅が早かったら・・・樺太、歯舞、色丹、国後はどうなっていただろうか。


敗戦直前の日本軍(関東軍)がなぜ開拓民の多いソ満国境から南下して新京、大連に防衛ライン作戦をとったのか。わかりません。いかなる理由があろうと自国民を守るという軍の本質を放棄したといわれても仕方がないことですしその罪は重い。敗戦後、無血武装解除を行いますが山田乙三司令長官以下全将兵はシベリア抑留生活を送ることになります。その兵のうち25万人は在満邦人を現地応召したものといいます。

敗戦当時、在満日本人155万人、シベリア抑留60万人。生きて日本に帰れなかったもの17万6千人・・・うち開拓農民27万人(死者8万人)。中国残留孤児8000人~10000人・・・13歳以上を残留婦人というのだそうです・・・詳しい数字はわかりません。

敗戦当時、ハルピンにいた731部隊はいち早くすべての資料を隠匿して特別列車で日本に帰国したといわれます。

ヤルタ協定》・・・ソ連の参戦を要請したルーズベルトとスターリンの密約・・・日本はこの情報を入手していなかったというのが定説だが、ヨーロッパ在住のの大使館付き武官からこの情報が入っていたという資料が最近になって判明しいているという。

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2 コメント

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もしかしたら・・・・・・ (こきおばさん)
2012-08-17 16:02:36
終戦当時9歳、もしかしたら、私も残留孤児だったかもしれません。たまたま運が良くて家族と帰れただけのことです。

親たちがどんな思いで子どもを中国人に預けたかと思うと・・・・・言葉になりません。
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敗戦後の (こきおばさんへ・・・)
2012-08-19 00:23:52
満州からの引揚者ですね。実家に帰っても次男三男ですから、辛かったようです。それでも田舎のことですから何とか助け合ってやっていたようです。
小学校時代、クラスに数人いました。
生きて帰った人たちは奥地ではなく新京とか大連に近かったのでしょうか。

残留婦人、残留孤児・・・いろいろいわれるようですが命さえあればという考えでわが子を中国に残した方がほとんどだったのではないでしょうか。
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