比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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鹿児島から熊本への旅・・・水俣

2007-12-20 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
鹿児島から熊本への旅です。鹿児島市を出て薩摩焼きのふるさと美山、これから天草の本渡まで行く予定です。鹿児島方面から熊本方面派のルートは美山から鹿児島に戻って九州自動車道を北上する道がたぶん時間的にはいちばん早いと思いましたが、薩摩街道3号線を海岸沿いを行くことにしました。急ぐことはないんです。
美山を後にして串木野、川内、阿久根、出水、水俣と続きます。東シナ海と柑橘類が実る山を見ながらのドライブです。

水俣市、人口28000人。港です。港の外は不知火海。何か静かです。
ここから天草の本渡までフェリーがありますが間に合いませんでした。
一休みして陸路を八代、松橋、そして天草五橋を渡って本渡に行くことにしました。

港の写真の右側に沿って進むと水俣病資料館があります。
さらに北側にはチッソグループの煙突が見えます。
ここはチッソ関係の企業城下町だったんです。今もそうなのでしょうか。

豊饒の海といわれた不知火海が苦海と化してから60有余年になります。

1908年日本窒素肥料(株)水俣工場が操業を開始します。1942年(昭和17年)発症例。1953年発症が顕在化(猫踊病などと)、1956年チッソ付属病院長が5例を保健所に。1959年熊大が有機水銀説を。厚生省調査会が大臣に答申。1960年4省庁からなる連絡協議会(1年で消滅)。1965年新潟大が新潟水俣病を発表。1968年政府が因果関係を認める。1959年チッソは被害者側と見舞金協定を結んで見舞金を支払いますが責任については認めていません。その後訴訟が続いて1995年村山内閣のとき政治調停も行われていますが、その後も新たな認定を求める申請があり今日に至りました。(以上の経過、Wikipedia参考)。

石牟礼道子著>「苦海浄土」(講談社1968年刊)。
1965年から雑誌「熊本風土記」に「空と海のあいだに」という題で連載していたものを改題して出版したものです。
何回も読み返しましたがどう考えていいかわかりません。この本について語ることはわたしには難しすぎます。

この本の解説者の最後の言葉・・・
「学問は何のために、誰のためにするのか」「行政は何のためにあるのか」「専門家とは何か」「私たちの生きざまは何か」

わたしは化学者でもなければ医学者でもありません。なに一つわかりません。
実は科学者も医学者もなに一つわからなかったのです。原因を作った企業もわからなかったでしょう。近代科学の進歩の影の部分といえます。

こういう問題はどこにでも起こることです。そのとき市民はどう係わるのでしょうか。



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