,
7月18日、南信濃・・・伊那の谷・・・阿智村駒場・・・今年4月開館の満蒙開拓平和記念館を尋ねました。
これらの証言が小冊子になったことを同館のホームページで知り、メールで注文して送ってもらいました。
この内容について、抜粋して紹介します。
重く辛い内容です。
それぞれ、場所も状況も違い、現地の人に襲われた開拓団、現地の人に助けられた人・・・文字通り・・・それぞれの証言です。
どうか読んでもらいたい。
証言1
(前略) 8月15日までは普通に暮らしていました。それからが大変だったんですね。体ひとつで住んでる所を離れて本部に集結しました。ひと晩越してから、開拓団のうしろの丘に小さなお社を祀ってあって、そこに集まって、もうみんなでここで死んじゃおうってことになって、とても緊張した状態でいました。そしたら、一人の満服を着た男の人(現地の人)が高い所に立って、「みなさん、死んじゃだめですよ、生きて帰りましょう」って立派な日本語で言ってくれる人がいました。それで私たちはそこで死ぬことをあきらめて、それから住んでいる土地を離れたんです。(後略)
証言2
(前略) 生死を分けたのは・・・指導者だな、その開拓団の。みんな連れて帰るんだ、みんな生きて帰らなきゃいけないぞっていう考え方と啓蒙だな。もうだめだから死んだほうがいいって、これじゃどうしょうもねえ。団の方向性に基づいて死んだ人も多くあるだよ。指導者っていうのは、ひとつ間違えばとんでもねえことになっちまう。戦争っていうのは恐ろしいよ。指導者とそれを賄う人たちの考えかたでな。
証言3
(前略) 照明弾がいたるところに落ちて昼間のよう。団長さんが「もうみんなの命を預かることができねえから、ここで覚悟してもらおてえ」って、銃殺。 (中略) 小さい子どもなんかうさぎみたいなもんでぴょんととび上がって死んじゃった。三才になる子は頭打たれたらバーンと花火の筒みたいになって、それからドーッと血が出てきた。それで死んだ。あーあ、なんのために満州に来たんだろうって。今度おれの番だと思っても弾こねえから振り向いて見たら、おれを殺す人が死んでんの。だからな、これは弱ったことになってしまったな、みんな死んでおれっきり。死骸を馬小屋に放り投げてて、三ついっぱいになっちゃった。みんな殺されちゃてな。いかに戦争はむごいか。
証言4
(前略) 一つの部落、中和屯という部落は一人残っただけであと全員殺されちゃった。三十八人。棒で頭をなぐられたそうですけど。日本が旗色が悪くなったというのを見ていっぺんに暴動をおこしてきた。僕の目から見ると、本当の「五族協和」でやっていたら僕たちは犠牲を出さずに済んだ。あるいは中国に留まることもできたかもしれん。「五族協和」なんてとんでもねえ話で、日本人は一等国民、朝鮮人は二等国民、中国人は三等国民、もうあからさまの差別、そういう状態で土地を取りあげて、家屋を取りあげて、だまっとるわけないでしょう。 (中略)
中国人の家へ身を寄せた。日本人は「鬼の子」って呼ばれたけど、虐待を受けた人もいれば、かわいがってもらえた人たちもおるし、もし、中国人と日本人の立場が逆だったならば、僕たちは生き残って祖国の土を踏めなかったかもしれない。逆の立場だったら皆殺しにされたかもしれない。中国の人たちは非常に貧しい人たちだったね。学問の恩恵にあずかれる人はほんのひとにぎりだったね。だけど、その義理人情というのは日本人に負けないくらいだった。寛大さもあったしね。だから、日本人から受けた虐待だとか不利な条件があったにもかかわらず、僕たちは生きのびてきたって言えると思います。
証言5
とうもろこし畑の間から引っぱりだれてな、現地の若者たち数人に。持っとるこん棒で思いっきり暴力ふるわれて。結局団長も男だから引っぱりだされてすごく暴力ふるわれたわけだ。それで虫の息になっちゃった。もう年寄りだから体力がないし。「もう俺はダメだ、苦しい、早く楽にしてくれ。もうダメだ、ダメだ」って言い出して。。(中略)
続けておばさんたちが我が子の首を絞めだしたんです。このまま逃げたってどこまで逃げられるかわからんで、満人におもちゃにされてその挙げ句に殺されるよりはもう死んでしまおうと。 (中略)
一緒に死ぬことを考えようっちゅうことになってね。石で額を殴りあった。なんども殴り合ってできたのがこの傷なんだけど。そうしたら、でれでれでれでれ生ぬるい血が流れ出して。これで大丈夫(死ねる)だろうって、低いほうを頭にして二人で横たわって。何時間たったかわからんのだけど、スコールが来て、二人とも気がついちゃったわけね。。立ち上がることができんから見回しと、あたりは屍の山でなくて海っちゅうか、七十三人の死体が転がってるわけね。
証言6
(前略) 向こうでは散々現地の人痛めつけて、(日本人は)幸せな目してきたんじゃない。我々が行ったときだって穴倉生活しとったに、現地の人たちが。「こんなひどいことしていいのかな」って思ったもんな。(向こうの人たちは)「日本人は米を食うんだ」って米のご飯を渡してくれたんじゃないか。それを忘れちゃだめだと思うよ、おれは。絶対おれは忘れんぞと。それが本当の人間同士の愛情じゃない。
1931年から始まった「満蒙開拓」・・・1945年8月9日の太平洋戦争ソ連参戦により悲劇的な結末を迎えます。
満州開拓者は27万人、死者78000人。約28%。
青少年義勇軍は86500人、死者24200人、約28%。
希望を持って渡満した人たちがが信じた「五族協和」「王道楽土」だったらこんなに犠牲者が出るはずがありません。
五族(日本人・漢人・朝鮮人・満州族・蒙古族)が仲良くは一等国民、二等国民、三等国民と差別した現実、王道とは民のための政治ですが・・・日本からの入植者に与えられた土地は現地の人から一町歩10円で強制収用した土地でした。王道ではなく覇道・・・ナラズモノの政治です。
誰かが誰かを騙した・・・マインドコントロールの親玉がどこかにいたはずです。
わたくしたちのあとに続く世代がこんな悲惨なことにふたたびあうことことがないように・・・わたくしたちには語り継ぐ責任があります。
※満蒙開拓平和記念館・・・南信州の静かな谷あいの村、阿知川の畔・・・日本の山村の原点のような場所に静かに佇んでいます。
信州を旅するかた・・・どうかいちど訪れてみてください。
※上記の小冊子はホームページのメール欄からでも購入することができます。
※阿智村・・・飯田の西、古東山道阿智駅、清内路道を抜ければ木曽三留野、寒原峠に向えば三河道、阿智郷の由来は諸説あるようですが会い地、逢う地・・・それぞれの谷あいの道が合流する地・・・と読むのがぴったり来ます。
7月18日、南信濃・・・伊那の谷・・・阿智村駒場・・・今年4月開館の満蒙開拓平和記念館を尋ねました。
満蒙開拓平和記念館・・・長野県下伊那郡阿智村駒場・・・国道154号線(旧三州街道駒場宿)・・・阿知川の畔。
証言・・・それぞれの記憶・・・・・・の部屋です。
元開拓団、元義勇軍・・・13人のかたが語った言葉の聞き書きです。惹きこまれてすべて読みました。
静かな館内・・・の一隅・・・祈りの場所のよう・・・
証言・・・それぞれの記憶・・・・・・の部屋です。
元開拓団、元義勇軍・・・13人のかたが語った言葉の聞き書きです。惹きこまれてすべて読みました。
静かな館内・・・の一隅・・・祈りの場所のよう・・・
これらの証言が小冊子になったことを同館のホームページで知り、メールで注文して送ってもらいました。
この内容について、抜粋して紹介します。
重く辛い内容です。
それぞれ、場所も状況も違い、現地の人に襲われた開拓団、現地の人に助けられた人・・・文字通り・・・それぞれの証言です。
どうか読んでもらいたい。
証言1
(前略) 8月15日までは普通に暮らしていました。それからが大変だったんですね。体ひとつで住んでる所を離れて本部に集結しました。ひと晩越してから、開拓団のうしろの丘に小さなお社を祀ってあって、そこに集まって、もうみんなでここで死んじゃおうってことになって、とても緊張した状態でいました。そしたら、一人の満服を着た男の人(現地の人)が高い所に立って、「みなさん、死んじゃだめですよ、生きて帰りましょう」って立派な日本語で言ってくれる人がいました。それで私たちはそこで死ぬことをあきらめて、それから住んでいる土地を離れたんです。(後略)
証言2
(前略) 生死を分けたのは・・・指導者だな、その開拓団の。みんな連れて帰るんだ、みんな生きて帰らなきゃいけないぞっていう考え方と啓蒙だな。もうだめだから死んだほうがいいって、これじゃどうしょうもねえ。団の方向性に基づいて死んだ人も多くあるだよ。指導者っていうのは、ひとつ間違えばとんでもねえことになっちまう。戦争っていうのは恐ろしいよ。指導者とそれを賄う人たちの考えかたでな。
証言3
(前略) 照明弾がいたるところに落ちて昼間のよう。団長さんが「もうみんなの命を預かることができねえから、ここで覚悟してもらおてえ」って、銃殺。 (中略) 小さい子どもなんかうさぎみたいなもんでぴょんととび上がって死んじゃった。三才になる子は頭打たれたらバーンと花火の筒みたいになって、それからドーッと血が出てきた。それで死んだ。あーあ、なんのために満州に来たんだろうって。今度おれの番だと思っても弾こねえから振り向いて見たら、おれを殺す人が死んでんの。だからな、これは弱ったことになってしまったな、みんな死んでおれっきり。死骸を馬小屋に放り投げてて、三ついっぱいになっちゃった。みんな殺されちゃてな。いかに戦争はむごいか。
証言4
(前略) 一つの部落、中和屯という部落は一人残っただけであと全員殺されちゃった。三十八人。棒で頭をなぐられたそうですけど。日本が旗色が悪くなったというのを見ていっぺんに暴動をおこしてきた。僕の目から見ると、本当の「五族協和」でやっていたら僕たちは犠牲を出さずに済んだ。あるいは中国に留まることもできたかもしれん。「五族協和」なんてとんでもねえ話で、日本人は一等国民、朝鮮人は二等国民、中国人は三等国民、もうあからさまの差別、そういう状態で土地を取りあげて、家屋を取りあげて、だまっとるわけないでしょう。 (中略)
中国人の家へ身を寄せた。日本人は「鬼の子」って呼ばれたけど、虐待を受けた人もいれば、かわいがってもらえた人たちもおるし、もし、中国人と日本人の立場が逆だったならば、僕たちは生き残って祖国の土を踏めなかったかもしれない。逆の立場だったら皆殺しにされたかもしれない。中国の人たちは非常に貧しい人たちだったね。学問の恩恵にあずかれる人はほんのひとにぎりだったね。だけど、その義理人情というのは日本人に負けないくらいだった。寛大さもあったしね。だから、日本人から受けた虐待だとか不利な条件があったにもかかわらず、僕たちは生きのびてきたって言えると思います。
証言5
とうもろこし畑の間から引っぱりだれてな、現地の若者たち数人に。持っとるこん棒で思いっきり暴力ふるわれて。結局団長も男だから引っぱりだされてすごく暴力ふるわれたわけだ。それで虫の息になっちゃった。もう年寄りだから体力がないし。「もう俺はダメだ、苦しい、早く楽にしてくれ。もうダメだ、ダメだ」って言い出して。。(中略)
続けておばさんたちが我が子の首を絞めだしたんです。このまま逃げたってどこまで逃げられるかわからんで、満人におもちゃにされてその挙げ句に殺されるよりはもう死んでしまおうと。 (中略)
一緒に死ぬことを考えようっちゅうことになってね。石で額を殴りあった。なんども殴り合ってできたのがこの傷なんだけど。そうしたら、でれでれでれでれ生ぬるい血が流れ出して。これで大丈夫(死ねる)だろうって、低いほうを頭にして二人で横たわって。何時間たったかわからんのだけど、スコールが来て、二人とも気がついちゃったわけね。。立ち上がることができんから見回しと、あたりは屍の山でなくて海っちゅうか、七十三人の死体が転がってるわけね。
証言6
(前略) 向こうでは散々現地の人痛めつけて、(日本人は)幸せな目してきたんじゃない。我々が行ったときだって穴倉生活しとったに、現地の人たちが。「こんなひどいことしていいのかな」って思ったもんな。(向こうの人たちは)「日本人は米を食うんだ」って米のご飯を渡してくれたんじゃないか。それを忘れちゃだめだと思うよ、おれは。絶対おれは忘れんぞと。それが本当の人間同士の愛情じゃない。
1931年から始まった「満蒙開拓」・・・1945年8月9日の太平洋戦争ソ連参戦により悲劇的な結末を迎えます。
満州開拓者は27万人、死者78000人。約28%。
青少年義勇軍は86500人、死者24200人、約28%。
希望を持って渡満した人たちがが信じた「五族協和」「王道楽土」だったらこんなに犠牲者が出るはずがありません。
五族(日本人・漢人・朝鮮人・満州族・蒙古族)が仲良くは一等国民、二等国民、三等国民と差別した現実、王道とは民のための政治ですが・・・日本からの入植者に与えられた土地は現地の人から一町歩10円で強制収用した土地でした。王道ではなく覇道・・・ナラズモノの政治です。
誰かが誰かを騙した・・・マインドコントロールの親玉がどこかにいたはずです。
わたくしたちのあとに続く世代がこんな悲惨なことにふたたびあうことことがないように・・・わたくしたちには語り継ぐ責任があります。
※満蒙開拓平和記念館・・・南信州の静かな谷あいの村、阿知川の畔・・・日本の山村の原点のような場所に静かに佇んでいます。
信州を旅するかた・・・どうかいちど訪れてみてください。
※上記の小冊子はホームページのメール欄からでも購入することができます。
※阿智村・・・飯田の西、古東山道阿智駅、清内路道を抜ければ木曽三留野、寒原峠に向えば三河道、阿智郷の由来は諸説あるようですが会い地、逢う地・・・それぞれの谷あいの道が合流する地・・・と読むのがぴったり来ます。
※コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。
・URL無記入のコメントは削除します。
早速申し込みました。じっくり拝見したいと思っています。
山本慈昭氏の活動を伝える資料も展示されているそうですね。
辛い思いを少しでも、心に刻んでくるようにしたいと思っています。
記念館では意味が通じません。
誰かにお話ししてもらえればいいですね。
すぐ上の長岳寺は山本慈昭師が住職をしていたお寺、信玄ゆかりのお寺です。
秋の伊那路をお楽しみください。
・・語り継ぐ・・こと、比企さんの思いのタイトルのようでした。
中島さんというお婆さんが、飯田女子短大で、話をしている模様が映し出されていました。
背景の写真に、満蒙開拓平和記念館 が写っていました。
・・・・・今日の未明の頃のことです。
証言が始まったのはここ20年ぐらい、1990年代に入ってからのようです。実際に経験した人たちが呪縛が解けてからでしょう。
先日、秩父荒川の青雲寺に行ってきました。ここは幕末の1968年青雲寺事件というのがあったところです。ここに荒川村満蒙開拓殉難碑があります。613人中293人が犠牲になったそうです。その碑文を書いたのが満蒙開拓青年義勇軍を組織した加藤完治です。
ゴメンナサイ!満蒙開拓平和記念館がありますことを知りませんでした。
無言館もこの記念館(祈念館)も訪ねることができませんが犠牲になられました
多くの皆様のご冥福を遥かにお祈り申し上げております。合掌