比企の丘

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新木場・・・夢の島で・・・負の世界遺産・・・第五福竜丸を見た

2011-09-12 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
8月27日、東京都江戸川区葛西臨海公園で遊んだあと隣の駅の東京都江東区新木場駅に降りました。ここでどうしても見て行きたいところがあったのです。

夢の島公園の一角にある第五福竜丸展示館
時間は4時過ぎ、閉館後でしたがまだドアを閉める前で何とか中に入れてもらい船の周りをひとまわりましました。

第五福竜丸ってご存知でしょうか・・・
今から50年以上むかしの1954年3月1日、南太平洋マーシャル群島ビキニ環礁でアメリカ軍の行った水爆実験の放射性降下物に被曝した漁船です。




船尾から見ると完全な木造船です。舵も木製です。
総トン数140.86t、全長28.5m、幅5.9m、250馬力。

米軍の通告していた海域外で操業していた日本漁船は数100隻、その想定外の海域で最も多くの放射能降下物を浴びたのが第五福竜丸の乗組員23名、延縄を撤収することに手間取り被曝量が多くなったともいわれます。

SOSを発することなく母港焼津に帰港したといわれます。
SOSを発信しなかったのは・・・??? 
このとき日本の漁船が捕獲した放射能汚染のマグロは築地市場で地中深く埋められ「マグロ塚」が築地市場の一角に(いまはこの展示館の敷地に)。

第五福竜丸の無線長久保山さんは6ヵ月後、「放射能症」(日本医師団発表)で死亡、米側では今もそれを否定。

第五福竜丸は放射能除去後、東京水産大学練習船に、1967年廃船、夢の島近くの15号埋立地にスクラップ業者により廃棄されていたものをある青年が見て1968年3月朝日新聞投書欄「声」に投書したのがきっかけで最初は江東区民から保存運動が起り地元有志が船体を30万円で買取り、全国各地に募金運動が広がっていったといいます。1973年財団法人第5福竜丸平和協会が設立、船体は東京都に寄贈、1976年夢の島に展示館が開館しました。


閉館時間後訪れたこともあり、照明もなく写真はぶれています。展示館の中にガイガーカウンターなど、外には久保山愛吉さんの記念碑、マグロ塚、福竜丸のエンジンなどありッもっとゆっくり見たかったのですが、次の予定のため時間がなくて打ち切り。

最近、読んだ本です。

佐野真一著津波と原発」(講談社・2011年6月18日刊) 
東日本大震災から3ヶ月後発刊のルポタージュですが際物という感じがしません。筆者は「巨怪伝─正力松太郎と影武者たちの一世紀」という書もあり原子力についての政財官の動きは前から綿密な取材があったようです。

津波については三陸の宮古まで足を運んで現地ルポをしています。現代の万里の長城といわれる田老町の高さ10.8m、長さ2.4kmの防潮堤が高さ38mの津波にいとも簡単に破壊されたことをルポしています。
原発・・・福島原発についてはかなり近くまで入っています。福島原発の立地した海のチベット(いってはいけないワードですが)といわれる浜通りの人文地理的な分析に始まり、原発のある長者ヶ原は元陸軍飛行場、西武の堤康次郎が戦後3万円で買取り塩田に。原発の計画が始まり3億円で売却までも追っています。

第五福竜丸の久保山愛吉さんが生死をさまよっているときアイゼンハワー米大統領は「アトム・フォー・ピース」と演説し、ダレス国防長官はビキニ患者は「血清肝炎だ、スパイの可能性もある」と語ったとも書き。1955年正力松太郎が初代原子力委員長になリその後の原子力利用の動きを書いています。消費電力の多い送電コストの安い人口稠密地になぜ原発を造らないのか。原発を原発三法という麻薬のような交付金漬けで受け入れさせる現実をついているような気がします。 

内容の評価はともかく、一つの見方として読んでみてもいい本かもしれません。それをどう判断するかはそれぞれの問題です。
 

ひろしま・ナガサキの被爆、そしてマグロ漁船団の被曝・・・日本は3度の核放射能汚染に曝されました。
そしていま、福島原発の核放射能汚染です。4度目のフクシマの被曝
鳥も空を飛ばなくなり、魚も水中から姿を消し、豊かな土が産み出す野菜・穀物からも不気味な発信音が発せられるような時代が来るかもしれません。
・・・「沈黙の春」です。

そしていまみんな沈黙を守っています。 




 


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