萩の街です。笠山(海抜112m)の上から見ています。
笠山は萩市の北東に位置する陸繋島、頂上に直径30m(深さ30m)の噴火口のある活火山(お休み中)。
萩の街は中国山地から流れ出る阿武川の分流、松本川と橋本川に挟まれた中の島にあります。
津和野から萩へ・・・中国山地のなだらかな峠をいくつか越え萩にやってきました。萩市郊外、松本川の支流の貝見川の傍に松下村塾があります。むかしの松本村の塾、看板は松下邨塾(そんじゅく)。納屋を改造したあばら屋、建て増しをしてるようだ。
松陰神社あたり⇒Yahoo地図
吉田松陰(寅次)(郎1830~1859年)長州萩藩26石の杉家次男、57石吉田家の養子。波乱万丈、儒学、兵学、洋学、蘭学を修め脱藩して東北ほか各地を見て歩き、政治学、経済学、歴史学、文学など多彩な知識を得る。好奇心の塊のような人だ。ペリー2度目の来航のおり密航を頼むがぺりー側が問題になるのを恐れてか拒否。入獄。許されて幽閉の身に。尊皇攘夷の思想的リーダー。
IF・・・密航・留学が成功していたら西欧思想・科学の啓蒙家になったであろう。
1855年叔父のやっていた松下村塾を引継ぎ開講。1858年日米通商条約に反対して老中暗殺計画を立てるが頓挫、伊井大老の安政の大獄によって1859年死罪。塾長であったのは3年間、弟子の身分を問わず純粋・情熱の人らしかったようで、幕末・維新の英傑が育った。
松陰神社、松下村塾を開いた杉家の邸内に松陰の遺物を納めた祠を建て後に伊藤博文らが神社として創建。東京世田谷の松陰神社は処刑された松陰の亡がらを高杉晋作らが毛利別邸の敷地に改葬したもの。
松陰神社の少し奥の伊藤博文の実家。
伊藤博文(1841~1909年)山口県熊毛郡束荷村(現光市)の農家の林家の長男。父が萩市の吉田松陰伊藤家(萩藩中間・・・足軽より下の位)に作男奉公し後に養子縁組。家屋は15坪くらいか。兼業農家士分(末端の下士)。利助といったが俊助、俊輔と勝手に改名していく。吉田松陰の弟子。文武とも並以下であったが天性の周旋家(まとめ役)と松陰に言われる。桂小五郎の従者のような立場で頭角を現して行く。
かつては千円札の顔であった人。この人についてはよく知らない。いま本を読んでいる。
萩市中央公園に駐車、菊屋横丁、木戸孝允、高杉晋作旧邸などのある小路を歩きます⇒yahoo地図
武家屋敷の並ぶ小路。袴を穿いて大小を腰に差したお侍が歩いていても違和感のない街だ。
御城下は二つの川に挟まれた中の島、萩城は海に面した突端。備後・安芸120万石の大大名から37万石の周防・長州の萩藩に減封された毛利家は1604年萩城を築いて1863年山口に藩庁を移すまで、この山陰の僻遠地で過ごした。
木戸孝允の実家の旧邸。 高杉晋作の実家旧邸。
木戸孝允(1833~1877年)藩医和田家の長男、150石桂家の養子となり士分を得る。「逃げの小五郎」といわれ幕末動乱の京都で生き延び、薩長同盟の長州代表、維新後は病もあったがパッとせずに44歳で没。
高杉晋作(1839~1867年)200石の上士。松下村塾の秀才。身分制に頼らない奇兵隊という軍隊組織を作る。優れた人材であったらしいが肺結核のため28歳で没。
長州萩の武家屋敷街、いまなら高級官僚住宅団地であろうか。維新の英傑を生んだ街。それにしても維新後には非凡の天才は残らず消えた。維新の元勲とは動乱の時代に生き残った人。もし坂本竜馬、高杉晋作、村田蔵六が生きていたら・・・。
ここ萩で語られなかった井上聞太こと井上馨について語ってみたい。
井上馨・・・伊藤博文の盟友、周防湯田村(現山口市)100石取り井上家の次男、文武いずれもパッとしなかったらしいが殿の小姓役として頭角を現す。尊皇攘夷派であったが1863年イギリスの密航のおり上海で外国というものを見て早くも開国派に変わったというから判断力は確かで早い。
維新後は外務卿、大蔵相、農商務相、内務省など歴任。
海音寺潮五郎著「悪人列伝四」(文春文庫1976年刊)は井上の「尾去沢銅山事件」「藤田組偽札事件」などを詳しく書いています。政商と組んだ蓄財の腕は抜群。西郷隆盛は「三井の番頭さん」と井上のことをいってたらしい。
政商・・・最近では規制改革会議議長をつとめ郵政民営化の議論を行い、その議長の会社が郵政民営化のために郵政事業の一つ、かんぽの宿を一括譲渡を受けるという自作自演劇がありました。
笠山は萩市の北東に位置する陸繋島、頂上に直径30m(深さ30m)の噴火口のある活火山(お休み中)。
萩の街は中国山地から流れ出る阿武川の分流、松本川と橋本川に挟まれた中の島にあります。
津和野から萩へ・・・中国山地のなだらかな峠をいくつか越え萩にやってきました。萩市郊外、松本川の支流の貝見川の傍に松下村塾があります。むかしの松本村の塾、看板は松下邨塾(そんじゅく)。納屋を改造したあばら屋、建て増しをしてるようだ。
松陰神社あたり⇒Yahoo地図
吉田松陰(寅次)(郎1830~1859年)長州萩藩26石の杉家次男、57石吉田家の養子。波乱万丈、儒学、兵学、洋学、蘭学を修め脱藩して東北ほか各地を見て歩き、政治学、経済学、歴史学、文学など多彩な知識を得る。好奇心の塊のような人だ。ペリー2度目の来航のおり密航を頼むがぺりー側が問題になるのを恐れてか拒否。入獄。許されて幽閉の身に。尊皇攘夷の思想的リーダー。
IF・・・密航・留学が成功していたら西欧思想・科学の啓蒙家になったであろう。
1855年叔父のやっていた松下村塾を引継ぎ開講。1858年日米通商条約に反対して老中暗殺計画を立てるが頓挫、伊井大老の安政の大獄によって1859年死罪。塾長であったのは3年間、弟子の身分を問わず純粋・情熱の人らしかったようで、幕末・維新の英傑が育った。
松陰神社、松下村塾を開いた杉家の邸内に松陰の遺物を納めた祠を建て後に伊藤博文らが神社として創建。東京世田谷の松陰神社は処刑された松陰の亡がらを高杉晋作らが毛利別邸の敷地に改葬したもの。
松陰神社の少し奥の伊藤博文の実家。
伊藤博文(1841~1909年)山口県熊毛郡束荷村(現光市)の農家の林家の長男。父が萩市の吉田松陰伊藤家(萩藩中間・・・足軽より下の位)に作男奉公し後に養子縁組。家屋は15坪くらいか。兼業農家士分(末端の下士)。利助といったが俊助、俊輔と勝手に改名していく。吉田松陰の弟子。文武とも並以下であったが天性の周旋家(まとめ役)と松陰に言われる。桂小五郎の従者のような立場で頭角を現して行く。
かつては千円札の顔であった人。この人についてはよく知らない。いま本を読んでいる。
萩市中央公園に駐車、菊屋横丁、木戸孝允、高杉晋作旧邸などのある小路を歩きます⇒yahoo地図
武家屋敷の並ぶ小路。袴を穿いて大小を腰に差したお侍が歩いていても違和感のない街だ。
御城下は二つの川に挟まれた中の島、萩城は海に面した突端。備後・安芸120万石の大大名から37万石の周防・長州の萩藩に減封された毛利家は1604年萩城を築いて1863年山口に藩庁を移すまで、この山陰の僻遠地で過ごした。
木戸孝允の実家の旧邸。 高杉晋作の実家旧邸。
木戸孝允(1833~1877年)藩医和田家の長男、150石桂家の養子となり士分を得る。「逃げの小五郎」といわれ幕末動乱の京都で生き延び、薩長同盟の長州代表、維新後は病もあったがパッとせずに44歳で没。
高杉晋作(1839~1867年)200石の上士。松下村塾の秀才。身分制に頼らない奇兵隊という軍隊組織を作る。優れた人材であったらしいが肺結核のため28歳で没。
長州萩の武家屋敷街、いまなら高級官僚住宅団地であろうか。維新の英傑を生んだ街。それにしても維新後には非凡の天才は残らず消えた。維新の元勲とは動乱の時代に生き残った人。もし坂本竜馬、高杉晋作、村田蔵六が生きていたら・・・。
ここ萩で語られなかった井上聞太こと井上馨について語ってみたい。
井上馨・・・伊藤博文の盟友、周防湯田村(現山口市)100石取り井上家の次男、文武いずれもパッとしなかったらしいが殿の小姓役として頭角を現す。尊皇攘夷派であったが1863年イギリスの密航のおり上海で外国というものを見て早くも開国派に変わったというから判断力は確かで早い。
維新後は外務卿、大蔵相、農商務相、内務省など歴任。
海音寺潮五郎著「悪人列伝四」(文春文庫1976年刊)は井上の「尾去沢銅山事件」「藤田組偽札事件」などを詳しく書いています。政商と組んだ蓄財の腕は抜群。西郷隆盛は「三井の番頭さん」と井上のことをいってたらしい。
政商・・・最近では規制改革会議議長をつとめ郵政民営化の議論を行い、その議長の会社が郵政民営化のために郵政事業の一つ、かんぽの宿を一括譲渡を受けるという自作自演劇がありました。
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