信州上田の・・・六文銭の写真帳
旧北国街道の街道集落・・・信州上田の西のはずれの上塩尻・・・(1954年まで小県郡塩尻村)。
国道18号線から旧道に入ると宿場でもなく間の宿でもなく、街村ですが普通の街村と違った大壁の家、土蔵、小屋根の家などの風景が広がります。
江戸期以来、この村は養蚕、蚕種生産、製糸、絹織り、上田紬織り、木綿織り、生産物の問屋、紺屋、鍛冶屋など・・・農商工業の街。
輪郭が猫面(ねこづら)の鬼瓦です。
かつて養蚕農家の天敵は火事と鼠でした。鼠は蚕の幼虫、蛹、卵まですべてを食害するため養蚕農家では必ず猫を飼っていました。
猫面の鬼瓦は鼠除けの呪いとしてつけられました。中に家紋などを入れますが、「水」の文字を書いて「火除け」を願ったものもあります。。
安曇野市堀金、千曲市桑原で見かけるそうですが・・・ここ上田塩尻でもかなり多く見かけます。全国のかなり広い範囲で残っているそうです。。
かつて養蚕農家の天敵は火事と鼠でした。鼠は蚕の幼虫、蛹、卵まですべてを食害するため養蚕農家では必ず猫を飼っていました。
猫面の鬼瓦は鼠除けの呪いとしてつけられました。中に家紋などを入れますが、「水」の文字を書いて「火除け」を願ったものもあります。。
安曇野市堀金、千曲市桑原で見かけるそうですが・・・ここ上田塩尻でもかなり多く見かけます。全国のかなり広い範囲で残っているそうです。。
※撮影日は2017年12月18日。
江戸後期から。明治、大正、昭和の日本の農業経済を支えた蚕業・・・その産業遺産として遺しておきたい風景です。※コメント欄開いています。
熊谷蚕業試験場に講習で2年間寮生活、
此処で蚕の事みっちに修行、
しかし蚕業は中国に押され、化学繊維が世を覆い、ついついこの世の中から葬らされることに相成った。
熊谷石原に、広大な試験場、そして広い桑畑、はてさてどこに行ったやら、その影すらなくなった。
世の移り変わりは、厳しいです。
あれから50有余年よ・・・・・。
比企野さん長野、やはり上田、塩尻などで蚕のことについて記事にする懐かしい限り。
*蚕ではオマンマ食えぬ東京に
、
冬鳥の様子やビオトープがどのようになっているのか
週に1回は来ていますがここ数か月では記録が残せたのは初めてかな。
蒸気機関車も相変わらずで撮り鉄にも力を入れられておられるようですね。
家内の家は細々と昭和50年代まで養蚕をやっていました。百姓の貴重な収入源でした。わたしに住んでる高坂でも時期になると繭を農協に運びこむ風景が見られました。
上田市塩尻は古くからの蚕の種紙の生産地でした。秩父鉄道の明戸駅あたりも蚕紙の産地らしいですね。
塩尻は時代に取り残されたような街並みですが、昔は富裕で立派な家が並び、そのため蚕業遺産が残されているようです。
小屋根は島村の田島弥平の考案と聞いています。大壁造りの蚕室は寒冷地対策のものであると思います。
猫面の鬼瓦は初めて見ました。
石原の桑畑、たぶん熊谷ゴルフコース、大麻生運動公園あたりでしょうか。
蚕業遺産・・・遺しておきたいですね。