比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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中山道を行く・・・和田宿・・・皇女和宮下向の道

2010-08-25 | 旧街道・峠道・旧宿場
8月14日、上田の塩田平で昼飯を食べ、テレビも新聞もないところですから何もすることがなく、美ヶ原まで行きました。平地では何事もない天候でしたが標高2000mの高原ではなぜか大荒れ。小雨交じりの暴風、濃い霧で視界不良。しかたがないのでビーナスラインとよばれる道を和田峠に。

中山道和田峠。下諏訪宿と和田宿間(約22km)のほぼ中間点。旧和田峠の最高点は道中最高の1600m。
国道142号線。ビーナスライン(県道194号線、480号線の交叉するあたりです。和田トンネルは近くです。茶屋があります(標高1531m)。
茶屋のオバサンに和田峠頂上への旧道を聞きましたが要領を得ません。10分くらいで行けるらしいのですが、雨、風、霧で行くことを諦め和田宿方面に下りることにしました。

国道142号線を北に和田峠から下ってくると鍛冶足交叉点、左折すると旧道の旧中山道和田宿の町並み

中山道六十九次(135里2町・534km)、江戸から28番目の「和田宿」・・・標高850mの山深い谷間の宿場町です。

鍛冶足から中町へ。脇本陣の横にバス停、公衆トイレ。振り返って下町方面を。
画像クリック・・・よろずや・・・旧家の商店です。ウダツ(卯建)が上がっています。むかしからのスーパーマーケットです。

おなじフォトポイントから北の方面を。この200m先に本陣。
画像クリック・・・かなり痛んだ薬医門です。整備したくてもできない・・・のが実情?。こうした写真は撮らないほうがいいのかも。松の向うに本亭旅館の看板が見えます。

本亭旅館の玄関札です。煤けていてほとんど見えません。
画像クリックすると大きく見えます。
本亭旅館・・・現役の旅館です。旧名主屋敷だそうです。
道のすぐそばにこの家の女将さんらしいおばあちゃんが座っていてあれこれ問わず語りに話してくれました。後から考えたらもっと聞くことがあったのに。今度行ったきまた話しあいたい。

脇本陣翠川家・・・薬医門、母屋は切妻、妻入(個人宅であり見学は不可)、説明板がありました。脇本陣は上級武士の泊まるところ、文久元年(1861年)の大火により類焼。同年11月の和宮下向のため急遽新築。当時の上段の間、二の間、脇上段、次上段、風呂、厠などが当時のまま残されてるという。

本陣にやってきました。1861年3月の大火で消失、和宮降嫁の御行列が10月ということでその再建を近郷・近在、他県の大工、職人を集めて昼夜を問わずの工事でようやく10月の行列に間に合わせたという。
冠木門から見える(実は本陣長井家の居室棟)。皇女和宮が泊まられたという座敷棟は維新後丸子町龍願寺に移築、居室棟は明治以後、役場として1984年まで使用、その後、役場の新庁舎建築に際して解体・修復・復元。
画像クリック・・・居室棟の石置き板葺き屋根、なぜ板葺き屋根か・・・瓦の生産がこの地方に無かったのか。板葺きですから耐久性もないし火災にも弱い。いいことは無いはずです。不思議です。


玄関に入ると通し土間から裏に抜けるようになっています。高い上がり端、お勝手、台所です。

本陣長井家の居室棟ですがお侍も出入りしますから式台があります。
式台の前の長持ちは、今晩の宿場祭りの催しのために用意されたものです。
画像クリック・・・母屋の軒先からの写真。
間口12件、奥行き9間、108坪。切妻、平入、出桁造り。二階建てに見えますが二階の窓がありません。大名の座敷棟を見下ろさないためでしょう。問屋も兼ねていたといいますから二階は倉庫として使ったのか。

御入門(四脚門)。皇女和宮のためにわざわざ造ったのでしょうか。
明治維新後、御入門は丸子町向陽院に移築、平成元年に現存する向陽院の門から設計図を起こして完全復元。
座敷棟は道路改修などで土地がぜばめられ、復元できなかったようです。

中山道、江戸時代末期には町並みは1km弱、本陣1、脇本陣2、問屋2、旅籠28軒、伝馬50匹、馬士50人、宿にかかわる人すべてで522人、126軒、・・・たいへんな賑わいでした。儲かったでしょうね・・・ところがソウではないようです。公道ですから幕府直轄、道中奉行の管理下で宿場は地子(住民税のようなもの)免除ですが、道普請負担とか伝馬役とかの負担がそれ以上でたいへんだったらしい。宿場の人たちはほとんどが半農半宿の生活だった。また回りの農村地帯には幕府御用や参勤交代に荷役として奉仕する助郷(労働力提供)という制度がありました。これがたいへん負担になったようですがここでは省略。

中山道の旅・・・男子で1日9里15日間、女子で1日6里余20日間、すごい健脚です。お金もかかりました。1日約6000円×15日で約10万円(江戸中期のレートで2両余)。

中山道にかかわる話として有吉佐和子「和宮様御留」(講談社1978年刊)が有名です。わたしは平岩弓枝の「はやぶさ新八御用旅中山道六十九次」のほうが好き。

《蛇足》1861年孝明天皇の異母妹「和宮」(15歳)が徳川14代将軍家茂(15歳)に嫁ぎます。徳川も末期、長期政権で疲弊・弱体化していますから公武合体策とやらで梃子入れを画策、そのための政略結婚です。これを「降嫁」、江戸に嫁に行くわけですから「下向」といいました。ずいぶん馬鹿にしていますね。いまは天皇家の娘が庶民の嫁になってもそういいません。
この「和宮」下向の行列がすごい。ここの本陣のパネルによると・・・幕府方のお侍15000人。京都がた10000人、通し人足4000人、雇い人足7000人、各藩からの警固役10000人、馬2000匹、馬士2000人、助郷人足13000人。合計すると61000人ですがパネル合計は延べ80000人なんて書いてあります。「和宮」お泊りの宿の前後の計3宿が満室状態・・・実際はそんな収容キャパがありませんから、かわいそうに助郷人足たちは晩秋の信濃路で野宿だったそうです。
10月20日に京都を発った行列は11月15日、26日間で江戸に入ります。1日平均20km(5里)。
総経費を計算しようと思いましたがバカらしいのでやめました。
これだけの大事業での政略結婚、5年後の1866年7月家茂が京都で謎の死、12月兄孝明天皇が謎の死で終わりのときを迎え、1868年明治維新。1877年病を得た和宮は療養先の箱根塔の沢温泉で生涯を終えます(享年31歳)。


徒歩の時代、道は文化の通り道、栄華を誇ったかはともかくあれほど往来の激しかった街道も御維新を迎え鉄道の時代になると元の静かな農山村に戻っていきます。 
旧宿場町、観光地ではありません。むかしの文化を訪ねるひとときです。住んでる方に迷惑がかからぬように静かに訪れたい。


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