10月6日、飛騨高山をあとにする前に高山陣屋跡の門の前に佇みました。
1692年金森家に代わって飛騨国は徳川幕府の直轄領(天領)に。陣屋とは郡代様の行政執行の事務所です。高山郡代は初代伊奈忠篤から1868年(慶応4年)1月最後の郡代新見内膳まで25代177年つづきました。
明治後は陣屋は岐阜県の県政の庁舎として使われ1969年岐阜県教育委員会管理に。
以後、現存する唯一の江戸時代の郡代陣屋として保存するため16年の歳月と20億円を費やして修復、復元されました。
戦国時代、美濃多治見に生まれた金森長近という侍は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、1586年飛騨高山の領主に抜擢された。秀吉亡きあとは関が原の戦いで徳川家康に与し、1600年飛騨高山を改めて封ぜられ33000石で初代高山藩主に。石高は少ないが領国経営に励み銀・銅の鉱山、森林資源で国は大いに栄えたという。6代107年統治したあと、1692年出羽国上山藩に38700石で移封させられた。この国替えの中止を求めて百姓一同が嘆願書を出したいうからよほど善政をしていたと思われます。
金森家に代わって飛騨国は徳川幕府の直轄領に・・・天領です。こんな僻遠の地をなぜ? 銀の資源が狙いだったのでしょう。領地の横取りではありません。大企業の組織変更です。皮肉なことにこのころから銀の鉱脈が枯れ、銅・鉛になったといいます。
飛騨一国の経営ですから郡代という格上の代官(旗本ですが大名並み)があたります。初代郡代は関東郡代の伊奈半十郎忠篤が関東郡代と兼任。高山城の取り壊し、高山藩下屋敷を陣屋とします。敷地28000㎡だったそうですが、のちに1/3ほどに縮小。江戸詰め11人、高山詰め9人、地元採用(1代限り)の地役人32人。徹底した行政改革です。
伊奈忠篤から25代つづいた関東郡代、明治の時代に入る1968年1月(明治元年は9月)、最後の郡代新見内膳は自分の俸禄米を高山・古川の町民に与えて、陣屋の裏門から静かに江戸に去ったと伝えられています。
高山の街をのぞき見たとき、中央政権の江戸からは山が壁のように聳え立ち峠を超え川を渡らなければ辿り着けない僻遠の地でありながら、街は町民文化の発達した上品さを感じます。金森家、高山郡代の領国経営が花開いたという感じがします。
《ただし》善政ばかりではなかったようです。1771~1788年大原騒動という一揆が起こりました。第12代代官大原紹正のとき二度、紹正の子13代大原正純(世襲制ではないがそうなった?)のとき一度、計3度17年にわたるものです。1度目は御用元伐休山、2度目は新田検地の問題です。詳細は省略しますがいずれも百姓側の敗訴で終わって多くの農民が死罪となりました。3度目の大原正純のときの騒動は代官の私利私欲でまるで時代劇テレビの悪代官のように悪行三昧(年貢の過納金の不返金。天明の大飢饉の対策の年貢免除分を私腹に)、これには農民のみならず名主、役人も反抗し、駕籠訴に及んだ農民が出て、正純は八丈島に遠島。駕籠訴に及んだものは御定法で死罪。
高山を離れ、越中街道を富山方面に向かいます。
1692年金森家に代わって飛騨国は徳川幕府の直轄領(天領)に。陣屋とは郡代様の行政執行の事務所です。高山郡代は初代伊奈忠篤から1868年(慶応4年)1月最後の郡代新見内膳まで25代177年つづきました。
明治後は陣屋は岐阜県の県政の庁舎として使われ1969年岐阜県教育委員会管理に。
以後、現存する唯一の江戸時代の郡代陣屋として保存するため16年の歳月と20億円を費やして修復、復元されました。
戦国時代、美濃多治見に生まれた金森長近という侍は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、1586年飛騨高山の領主に抜擢された。秀吉亡きあとは関が原の戦いで徳川家康に与し、1600年飛騨高山を改めて封ぜられ33000石で初代高山藩主に。石高は少ないが領国経営に励み銀・銅の鉱山、森林資源で国は大いに栄えたという。6代107年統治したあと、1692年出羽国上山藩に38700石で移封させられた。この国替えの中止を求めて百姓一同が嘆願書を出したいうからよほど善政をしていたと思われます。
金森家に代わって飛騨国は徳川幕府の直轄領に・・・天領です。こんな僻遠の地をなぜ? 銀の資源が狙いだったのでしょう。領地の横取りではありません。大企業の組織変更です。皮肉なことにこのころから銀の鉱脈が枯れ、銅・鉛になったといいます。
飛騨一国の経営ですから郡代という格上の代官(旗本ですが大名並み)があたります。初代郡代は関東郡代の伊奈半十郎忠篤が関東郡代と兼任。高山城の取り壊し、高山藩下屋敷を陣屋とします。敷地28000㎡だったそうですが、のちに1/3ほどに縮小。江戸詰め11人、高山詰め9人、地元採用(1代限り)の地役人32人。徹底した行政改革です。
伊奈忠篤から25代つづいた関東郡代、明治の時代に入る1968年1月(明治元年は9月)、最後の郡代新見内膳は自分の俸禄米を高山・古川の町民に与えて、陣屋の裏門から静かに江戸に去ったと伝えられています。
高山の街をのぞき見たとき、中央政権の江戸からは山が壁のように聳え立ち峠を超え川を渡らなければ辿り着けない僻遠の地でありながら、街は町民文化の発達した上品さを感じます。金森家、高山郡代の領国経営が花開いたという感じがします。
《ただし》善政ばかりではなかったようです。1771~1788年大原騒動という一揆が起こりました。第12代代官大原紹正のとき二度、紹正の子13代大原正純(世襲制ではないがそうなった?)のとき一度、計3度17年にわたるものです。1度目は御用元伐休山、2度目は新田検地の問題です。詳細は省略しますがいずれも百姓側の敗訴で終わって多くの農民が死罪となりました。3度目の大原正純のときの騒動は代官の私利私欲でまるで時代劇テレビの悪代官のように悪行三昧(年貢の過納金の不返金。天明の大飢饉の対策の年貢免除分を私腹に)、これには農民のみならず名主、役人も反抗し、駕籠訴に及んだ農民が出て、正純は八丈島に遠島。駕籠訴に及んだものは御定法で死罪。
高山を離れ、越中街道を富山方面に向かいます。
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