地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳
南九州の旅・・・旅の3日目は大隅半島へ。
「海上自衛隊鹿屋航空基地」の基地内にある「鹿屋航空基地資料館」(1973年開館、1993年リニューアル)にやってきました。
ここはかつての大日本帝国鹿屋海軍航空基地。1941年12月8日開戦のあの太平洋戦争、日本軍が最初に攻撃したハワイ諸島オアフ島真珠湾米軍基地、その攻撃艦載機はここで訓練したといわれています。大戦末期の特攻隊攻撃の最前線基地。特攻兵士たちはここから「十死零生」の攻撃に飛び立っていきました。
鹿屋航空基地資料館の2Fです。「ゼロ戦」の静態保存展示をメインに、大日本帝国海軍時代の写真、資料などを展示しています。
★展示機は1992年鹿屋市浜平で引揚げた零式21型と加世田市(現南さつま市)池上浜で引揚げた零式52形を合体して復元したもの。
「ゼロ戦」の保存展示は日本で10数ヶ所、アメリカ、オーストラリア、英国、南太平洋の諸島で10数ヶ所あります。
★零式艦上戦闘機・・・「零式」名称由来、紀元(皇紀)の下二桁をつけることから・・・紀元2600年(1940年)に運行開始。三菱重工業開発。三菱重工業、中島飛行機で生産した。1939年初飛行、1940年運行開始、総生産機数10430機。長さ9m、幅12m、高さ3.5m、重量2150㎏、速度570㎞/h、降下速度740㎞/h、上昇6000m7分、大戦初期は永米軍御戦闘機を上回る戦闘能力であったが、大戦の中期から末期にかけては後継機の開発が進まず、米軍の戦闘機の開発が進み劣勢になった。
資料館の1Fは海上自衛隊航空隊の写真、文献、軍装などの展示、操縦ピットのシュミレーションなど、屋外に退役になった自衛隊機の静態保存展示があります、
※撮影日は7月13日。
「鹿屋航空基地資料館」を見て・・・どう考えるかは・・・見たものの心の問題です。
ただ兵器は殺傷のための道具であることは否定できません。
ただ兵器は殺傷のための道具であることは否定できません。
《あの戦争の数字です》
★特攻機は陸海軍合わせて2483機(命中244機、至近距離166機)、奏功率16.5%・・・戦死者4377人、出撃機数と戦死者の数が合いませんが掩護機もまた撃墜されています。
★人間魚雷「回天」で亡くなった人80人、出撃前の事故などで亡くなった人16人、自決2人、実験中の事故死など合わせると総計145人になるといいます。
奏効率はアメリカ機密公文書の公開によれば給油艦、駆逐艦、輸送艦など3隻撃沈。
★ロケット滑空機「桜花」・・・出撃56機、戦死者56人。搭載機の一式陸攻52機が撃墜され戦死者372名。擁護の戦闘機隊が同じ数くらい撃墜されているそうです。桜花を搭載して低速でしか飛行できない一式陸攻は攻撃目的点につく前に桜花もろともほとんど迎撃されて撃墜されました。これは作戦というより破れかぶれです。
ちなみに・・・太平洋戦争での日本軍の戦死者は陸軍165万人、海軍47万人、このうち飢餓による死者は60~70%、海歿者(輸送船撃沈のため)は陸軍18万人、海軍18万人といわれます。
(数字はWikipedia、半藤一利著「あの戦争と日本人」ほかより)。
軍神・・・英霊・・・御霊・・・お国のために・・散華・・・・犬死・・・無駄死・・・特攻隊は志願であったか命令であったか・・・
第二次大戦太平洋戦争で亡くなられた320万人の方々に軽々しく(might have)なんて言いたくない。死者は語ることはできないからだ。
同じ戦場で日本以外の犠牲者2000万人の方々のためにも。
ただ、「黙祷」・・・するのみ。
「終戦の詔勅」にも「非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク」とあります。
四分の三世紀も前の歴史を見つめ、「歴史に学び」・・・「平和に進む道しるべ」にすることこそ、死者に対する最大の鎮魂の心ではないだろうか。
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