いまから68年前の1945年、日本最南端の県・・・沖縄は第2次世界大戦の日米戦(太平洋戦争)の日本国土最初で最後の地上戦が行われ、6月23日朝、司令部のあった摩文仁の丘の壕の中で沖縄方面最高司令官牛島実中将が自決したことをもって沖縄戦の終わりと沖縄戦争史では位置づけています。
その3日後の6月26日、おなじ摩文仁の丘のあたりで消息を絶った沖縄県の官僚がいます。
その人の名は・・・沖縄県知事島田叡(あきら)、警察部長荒井退造。
沖縄南部、太平洋を望む摩文仁の丘・・・いまは「平和の礎」と50を超える慰霊塔が建てられていますが、その入口あたりに「島守之塔」という石碑、そしてその後ろに「戦歿 沖縄県知事島田叡、沖縄県庁職員(458柱)慰霊塔」、さらにその奥に「沖縄県知事島田叡、沖縄県警察部長荒井退造 終焉之地」という石碑が建っています。
これらの慰霊塔は沖縄戦終わった6年後の1951年、旧沖縄県庁の生存職員300人余とウチナンチュウ(当時は沖縄県ではなかった)の浄財を集めて建立された聞きます。
島田叡県知事・・・官選知事です・・・現行憲法前の地方自治は中央のエリート官僚が支配する体制でした。
非戦闘員のウチナンチュウを巻き込んだ過酷な地上戦を強いたヤマトンチュウの軍・官を憎んでいるはずのウチナンチュウが日本の中央から派遣された内務官僚の・・・しかもたった五ヶ月余の赴任期間の人の慰霊塔を建てる・・・?
このことについて2冊の本を読んで考えてみました。
中野好夫著「最後の沖縄県知事」(ちくま日本文学全集1993年刊、1956年初出)
田村洋三「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」(中央公論新社2003年刊)
※中野好夫(1903~1985年)・・・大学教授、英文学者、文芸評論家、護憲、沖縄問題、反核などに取り組んだ。島田叡とは旧制三高時代の野球部のチームメート。
※田村洋三(1931年~)・・・ジャーナリスト。
本の内容については省略。
島田叡(1901~1945年)・・・旧制神戸二中、旧制三高、旧東京帝大を卒業、内務省警察官僚。1945年1月、沖縄県知事就任の打診を受け即受諾、当時の外地赴任の高級官僚が内地に逃れようとするとき潔く赴任したという。敗色濃厚の沖縄で住民の北部疎開(児童の県外疎開はすでに荒井警察部長らの工作で始まっていた)、台湾からの食糧調達に奔走、戦況が悪化した5月、軍との会議で「軍が首里を死守せずに摩文仁に転出するのは、南部に避難している住民を道連れにすることになり、愚策である」と反対した。軍の摩文仁への転出に伴い県職員も移動、6月9日、同行の職員を集めて「どうか命を永らえてほしい」と訓示して県庁、警察組織の解散を命じた。
その20日後、消息を絶ったが遺体の確認は定かではないようだ。
牛島軍司令官は「生きて虜囚の辱めを受けることなく悠久の大義に生きるべし」という言葉を残したというが、島田知事の「どうか命を永らえてほしい」という言葉はその対極的な言葉です。
※牛島総司令官が島田と同じ言葉を残し武装解除を命じていたら、そのごの日本兵や沖縄民間人の命の散華が少しでも少なくすんだであろうと思う。残念で口惜しい。
最後の沖縄県知事・・・敗戦とともに沖縄は日本国に置き去りにされて琉球政府という米軍統治下の国になったためそうと呼ばれました。沖縄県知事が復活するのは1972年の沖縄復帰以後です。
沖縄の島守・・・慰霊之塔を建てるにあたり公募、寄せられた700余から。
島田杯・・・沖縄県高校野球の秋季大会(新人戦)で優勝チームに与えられる島田叡の名前を冠した優勝杯。島田叡の出身校旧制神戸二中の島田叡没後20周年記念事業(1964年)で作られ沖縄高校野球連盟に贈られたものだそうです。島田は神戸二中、三高、東大を通じて俊足巧打の1番バッター。学生野球の功労者として東京ドームの野球殿堂の戦没野球人モニュメントに名前を刻まれています。
海軍司令官大田実少将・・・6月6日、那覇市郊外小録地区で自決。自決の直前に海軍次官に送った有名な電文があります。
最後の有名な語句だけをここに記します。
「沖縄県民斯ク戦エリ、県民ニ対シテ後世格別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」
大田実海軍少審で将と島田県知事は親しい関係であったそうです。この電文は島田の気持ちを汲んで代弁したような気がしてなりません。
沖縄県民への格別の高配・・・日本はどう応えてきただろうか。
その3日後の6月26日、おなじ摩文仁の丘のあたりで消息を絶った沖縄県の官僚がいます。
その人の名は・・・沖縄県知事島田叡(あきら)、警察部長荒井退造。
沖縄南部、太平洋を望む摩文仁の丘・・・いまは「平和の礎」と50を超える慰霊塔が建てられていますが、その入口あたりに「島守之塔」という石碑、そしてその後ろに「戦歿 沖縄県知事島田叡、沖縄県庁職員(458柱)慰霊塔」、さらにその奥に「沖縄県知事島田叡、沖縄県警察部長荒井退造 終焉之地」という石碑が建っています。
これらの慰霊塔は沖縄戦終わった6年後の1951年、旧沖縄県庁の生存職員300人余とウチナンチュウ(当時は沖縄県ではなかった)の浄財を集めて建立された聞きます。
島田叡県知事・・・官選知事です・・・現行憲法前の地方自治は中央のエリート官僚が支配する体制でした。
非戦闘員のウチナンチュウを巻き込んだ過酷な地上戦を強いたヤマトンチュウの軍・官を憎んでいるはずのウチナンチュウが日本の中央から派遣された内務官僚の・・・しかもたった五ヶ月余の赴任期間の人の慰霊塔を建てる・・・?
このことについて2冊の本を読んで考えてみました。
中野好夫著「最後の沖縄県知事」(ちくま日本文学全集1993年刊、1956年初出)
田村洋三「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」(中央公論新社2003年刊)
※中野好夫(1903~1985年)・・・大学教授、英文学者、文芸評論家、護憲、沖縄問題、反核などに取り組んだ。島田叡とは旧制三高時代の野球部のチームメート。
※田村洋三(1931年~)・・・ジャーナリスト。
本の内容については省略。
島田叡(1901~1945年)・・・旧制神戸二中、旧制三高、旧東京帝大を卒業、内務省警察官僚。1945年1月、沖縄県知事就任の打診を受け即受諾、当時の外地赴任の高級官僚が内地に逃れようとするとき潔く赴任したという。敗色濃厚の沖縄で住民の北部疎開(児童の県外疎開はすでに荒井警察部長らの工作で始まっていた)、台湾からの食糧調達に奔走、戦況が悪化した5月、軍との会議で「軍が首里を死守せずに摩文仁に転出するのは、南部に避難している住民を道連れにすることになり、愚策である」と反対した。軍の摩文仁への転出に伴い県職員も移動、6月9日、同行の職員を集めて「どうか命を永らえてほしい」と訓示して県庁、警察組織の解散を命じた。
その20日後、消息を絶ったが遺体の確認は定かではないようだ。
《証言》2013年8月7日、TBS製作のテレビ未来遺産〝終戦”特別企画 報道ドラマ「生きろ ~戦場に残した伝言~」より。
「生きなさいよ」「捕虜になれと長官はおっしゃる」
「自分のお家に帰りなさい」「私につくことはない」
「むやみに死んじゃダメだ」
「ヌチ(命)どぅ宝って言葉が沖縄にはあるでしょ」って・・・
「生きなさいよ」「捕虜になれと長官はおっしゃる」
「自分のお家に帰りなさい」「私につくことはない」
「むやみに死んじゃダメだ」
「ヌチ(命)どぅ宝って言葉が沖縄にはあるでしょ」って・・・
牛島軍司令官は「生きて虜囚の辱めを受けることなく悠久の大義に生きるべし」という言葉を残したというが、島田知事の「どうか命を永らえてほしい」という言葉はその対極的な言葉です。
※牛島総司令官が島田と同じ言葉を残し武装解除を命じていたら、そのごの日本兵や沖縄民間人の命の散華が少しでも少なくすんだであろうと思う。残念で口惜しい。
最後の沖縄県知事・・・敗戦とともに沖縄は日本国に置き去りにされて琉球政府という米軍統治下の国になったためそうと呼ばれました。沖縄県知事が復活するのは1972年の沖縄復帰以後です。
沖縄の島守・・・慰霊之塔を建てるにあたり公募、寄せられた700余から。
島田杯・・・沖縄県高校野球の秋季大会(新人戦)で優勝チームに与えられる島田叡の名前を冠した優勝杯。島田叡の出身校旧制神戸二中の島田叡没後20周年記念事業(1964年)で作られ沖縄高校野球連盟に贈られたものだそうです。島田は神戸二中、三高、東大を通じて俊足巧打の1番バッター。学生野球の功労者として東京ドームの野球殿堂の戦没野球人モニュメントに名前を刻まれています。
海軍司令官大田実少将・・・6月6日、那覇市郊外小録地区で自決。自決の直前に海軍次官に送った有名な電文があります。
最後の有名な語句だけをここに記します。
「沖縄県民斯ク戦エリ、県民ニ対シテ後世格別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」
大田実海軍少審で将と島田県知事は親しい関係であったそうです。この電文は島田の気持ちを汲んで代弁したような気がしてなりません。
沖縄県民への格別の高配・・・日本はどう応えてきただろうか。
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