比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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春の三陸海岸の旅・・・田老町・・・世界一といわれた・・・防潮堤のいま

2019-05-22 | 2011東日本大震災
信州上田の・・・六文銭の写真帳

早春の三陸海岸の旅です。岩手県下閉伊郡岩泉町神成の龍泉洞、田野畑村の三陸リアス式海岸北山崎絶壁を見て、二日目は三陸海岸を南に。

岩手県宮古市田老・・・にやってきました。
万里の長城」といわれた世界一の防波堤の説明看板です。


高さ10.7m、長さ2.4㎞にわたって築かれた田老の防波堤のいま
津波襲来時、この防波堤の500mが崩壊、市街地に面していたため町は壊滅、町内の人口4400名、死者、行方不明者200名。
津波の高さは17m・・・防波堤の倍の高さに吹き上がり、底幅25mの防波堤が持ち上がったといわれます。
田老町(現宮古市)・・・田老川、養呂地川、神田川、長内川の河口の小さな平地、広い湾に面した漁村。1889年田老村ほか3ヶ村が合併、田老村に、1944年町制に。2005年宮古市に合併、合併時の町の人口4579人。
★1896年高さ14.6mの津波が襲い死者1859人、1933年津波により死者911人、このとき高所住宅移住案と巨大防波堤案が論議され村長ら村当局の推進する防波堤の計画に決定。漁港に山が遠いということ。山が急で造成が容易でなかったこともあった。1979年防波堤の長さ2.4㎞に。1960年チリ地震では死者0人。このことが今回の地震で避難を遅らせたとも。
★古くは最盛期4000人を擁する硫化鉱のラサ工業田老鉱山(1971年閉山)があった。
★「田老」の地名由来は・・・①「垂れる=山の崖地」が迫っている。②津波で若者がいなくなり老人ばかり残った→「多老」。③津波の襲来で「田が老いた」。④「平・・・たいら」河口が平地。などなど諸説あって定説がない。


復興が進んでいます。



震災の跡も痛々しい建物が見えます。津波は4階まで達し、2階までは鉄骨を残しすべて流失・・・

田老観光ホテル・です。3.11大震災遺構として・・2013年に保存決定。
※撮影日は3月25日。


2011年3月16日のブログ・・・「東日本大震災・・・津波・・・TUNAMI」より

3月9日午前、宮城県沖でM7.3の地震があり、震度5弱の揺れ。大船渡60cm、久慈50cm、釜石で40cmの津波を観測。関東地区でも震度3弱ぐらいを体感。
3月10日、知人との会話の中で前日の地震と陸中海岸の防潮堤の話が出ました。
翌3月11日、東北地方、太平洋沖大地震。

城壁でもなければ要塞でもありません。
全長2433m、高さ10.7m、世界一の防潮堤が田老町(現宮古市)にありました。

津波観測システムタワー、町の高所に人を導く避難通路標識も完備、結果はどうだったでしょう。
陸中海岸の町々はこのような防潮堤に囲まれていました。

TUNAMI」は世界語になっています。
三陸海岸の津波の歴史は枚挙に暇がありません。近代に入っての大きな津波の歴史。
1896年明治三陸地震、M7.6、津波の高さ最大38m。
1933年昭和三陸地震、M8.3、津波の高さ最大28m。
1960年チリ地震の津波被害。津波の高さ最大6.3m。

天災は忘れなくても来る」。津波常襲地帯、地震=津波と考えられている三陸地域、津波の歴史の中にいて十分な設備、心の備えがあっても、自然の力は時に想定をはるかに超えたものになるのですね。

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2 コメント

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三陸の海 (縄文人さんへ・・・)
2019-05-23 19:26:32
若いとき、仕事でちょくちょく行きました。それから20年くらい前に行きました。そして震災のあとに行きました。行くたびに変わった姿を見ます。
街と海を隔てて高い防潮堤があちらこちらの町にできていました。そのすべてがダメでした。
持って逃げるのは命だけ。一瞬の躊躇が命を落す。そんなこともあったと思います。
縄文人さんのコメントで、町の公式ブログやYOUTUBEを見ることができました。
先祖が選んで決めた住むべき土地。人々はそれを守って生きてきました。200mの断崖の迫る海岸。その間に川があって山を削り谷を作り湾を作り、土砂を流して狭い湾内に小平地を作る。人々はそこで生きてきた。海の幸の宝庫です。
地震が南米で起きる、太平洋を渡り何時間後に津波が来る。賢い指導者は人々を山に導いたであろう。今回はごく近い宮城県沖、それでも賢き指導者は人々を誘導したであろう。それでも犠牲者が出た。
歴史に学び生きていかねばならない。
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三陸海岸、そして万里の長城(田老町) (縄文人)
2019-05-23 06:12:54

  比企野さんの名撮による、三陸海岸を見せて貰いました。
行ったことはありませんが写真で見る限り、素晴らしい景観です。

これも詳細なレポートと、大きな過去の歴史にの居る津波で、
1896年明治三陸地震、M7.6、
1933年昭和三陸地震、M8.3、
1960年チリ地震の津波被害。
のようですが、太平洋から押し寄せる波の数々!!

「三陸」と言えば、波、津波によ段丘崖が波の侵食によって変化に富んだ海蝕崖となっている場所、これが景勝地が多い。段丘面は侵食によって既に深い谷が形成されているところが多いようです。

・「東日本大震災・・・津波・・・TUNAMI」を見せて貰いましたが、津波・・・TUNAMIが三陸海岸を作り上げたと言っても過言ではないでしょう。
比企野さんのレポート
田野畑牟田の津波被害公式サイトを検証しましたが文面では言い尽くせない数々が有る様な気がしました。

田老町・・・世界一といわれた・・・防潮堤
此処にはY婦が旅行(万歩クラブ)で行って来ましたので旅の土産話で聴きましたが、筆舌では言い尽くせないと言っていました。

いつもヒキノさんの
目を見張るレポート有難うございます。

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