比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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立山黒部アルペンルート物見遊山・・・黒部湖・・・針の木岳・・・佐々成政の針ノ木峠越えの道

2015-09-30 | 山が好き 北アルプス
9月22日、立山黒部アルペンルート物見遊山。
大町市扇沢から関電大町トンネルをトローリーバスで潜り黒四ダムへ、ケーブルカー、ロープウエイ、トローリーバスを乗り継ぎ室堂まで。

復路、室堂駅からトローリーバスで大観峰駅へ・・・展望台から黒部湖を俯瞰。
ロープウエイのケーブルを下のほうに辿って行くとゴンドラが小さく見えます。黒部平の駅も小さく見えます。
その左の道路のように見えるのは黒部湖駅の展望台あたりかな。
左から赤沢岳、中央にスバリ岳、ならんでいちばん高く見えるのが・・・針ノ木岳(2821m)、その右下の針ノ木谷を詰めるとかつての塩の道針ノ木峠(2536m)。遠くに餓鬼岳、船窪岳、唐沢岳、不動岳。

『佐々成政・・・針ノ木峠越えの謎』
400年以上むかしの話しですが》・・・針ノ木峠といえば戦国時代の越中富山の守護大名佐々成政の厳寒の針ノ木峠越え(さらさら越え)です。
戦国時代の越中富山城主佐々成政(1536~1588年)は豊臣秀吉と織田信男の政争でかつての主君織田方の再興を計り1584年の真冬に浜松の川家康を立ち上がらせようと針ノ木峠を越えて浜松に遠征します。ルートは芦峅寺の有峰。成願寺川を遡り立山温泉、ザラ峠、中谷、刈安峠、黒部川の平、針ノ木谷、針ノ木峠、扇沢といわれていますが、後世に残る記録が抹消されているようで定かではありません。針ノ木峠越えではなく七倉沢側に出たという説もあります。家康への出兵依頼工作は失敗、富山城の陥落、肥後熊本への配置転換、肥後での失政で切腹という結果になります。
真冬といってもいつごろか(気温-10℃~20℃のはずです)、豪雪地帯です(積雪10mを上回る)、何日かかったか(往復20日と想定したらしい)、何人ぐらいの手勢であったか、山岳ガイドは、大町へ出てから浜松への道は、帰路はどこを通ったか、当時の装備はどうであったか(今のような防寒服も防寒靴もありません)、野営はどのようにしたか(寝袋やテントなんか無かった時代です)、食料は・・・すべて謎です。

ナナカマドの実が赤く色づいて・・・後方の山は爺ヶ岳。


いつかは、ぜひ訪れてみてください。
 


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