比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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南九州の旅・・・あの戦争の・・・特攻隊の飛び立った飛行基地・・・知覧

2019-08-26 | 語り継ぐ責任 あの戦争
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

南九州の旅・・・鹿児島市から薩摩半島を南に39㎞、南九州市知覧町・・・知覧特攻平和会館・・・平和公園。
知覧特攻平和会館・・・大日本帝国陸軍航空隊知覧基地の遺構、飛行機、特攻隊員の遺品などを展示する施設。1985年開館。
知覧基地・・・1941年知覧飛行場完成、福岡県陸軍大刀洗飛行学校知覧分教所、開所。1945年大刀洗航空学校は第51航空師団に、知覧は第7航空隊・・・特攻隊の基地となった。本土最南端の陸軍特攻隊の発進飛行場です。
特攻隊・・・第二次世界大戦の末期に敵艦船に戦闘機ごと体当たりする世界戦史上類を見ない青春の人命を消耗兵器にした外道の作戦。隊員は旧制中学4年生16歳から大学生、社会の中核になったであろう春秋に富む青年たちでした。

特攻航空兵の像「とこしえに」・・・


特攻機は帰ってこなかった。
特攻飛行兵はこの国や父母を愛していたのに違いない(might have loved)。
この銅像は全国の心ある人々によって建てられました。




母の像「やすらかに」・・・


この銅像は優しい母を表しています。
彼女は航空兵の像を見ています。彼女の服装は着物型の戦時中の国民服です。
銅像の裏には「母と子よ、永遠なれ」という碑文が刻まれています。
この銅像は熊本県芦北町前田勝さんの御厚志によって建てられました。



海軍零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の残骸です・・・
鹿児島県薩摩川内市の西に26㎞の甑島列島、下甑町手打港の沖500mの海底35mに沈んでいたものを1980年知覧町が引揚げたものです。

特攻隊員が出撃を前に起居していた兵舎です(復元)。

この兵舎の中で特攻隊員は何を思い出撃を待っていたでしょうか。
※撮影日は7月12日。

知覧特攻平和会館・・・尋ねる人は若き特攻隊員隊員の遺品、父母に送った手紙を見てその純粋さに涙するでしょう。どうか彼らを十死零生の飛行機に乗せて敵地に向かわせる作戦をとった指導者のことも考えてください。わたしはその無情さに涙が出ます。

あの戦争の数字です》 
特攻機は陸海軍合わせて2483機(命中244機、至近距離166機)、奏功率16.5%・・・戦死者4377人、出撃機数と戦死者の数が合いませんが掩護機もまた撃墜されています。
人間魚雷回天」で亡くなった人80人、出撃前の事故などで亡くなった人16人、自決2人、実験中の事故死など合わせると総計145人になるといいます。
奏効率はアメリカ機密公文書の公開によれば給油艦、駆逐艦、輸送艦など3隻撃沈。
ロケット滑空機桜花」・・・出撃56機、戦死者56人。搭載機の一式陸攻52機が撃墜され戦死者372名。擁護の戦闘機隊が同じ数くらい撃墜されているそうです。桜花を搭載して低速でしか飛行できない一式陸攻は攻撃目的点につく前に桜花もろともほとんど迎撃されて撃墜されました。これは作戦というより破れかぶれです。

ちなみに・・・太平洋戦争での日本軍の戦死者は陸軍165万人、海軍47万人、このうち飢餓による死者は60~70%、海歿者(輸送船撃沈のため)は陸軍18万人、海軍18万人といわれます。
数字はWikipedia、半藤一利著「あの戦争と日本人」ほかより)。

軍神・・・英霊・・・御霊・・・お国のために・・・犬死に・・・無駄死に・・・特攻隊は志願であったか命令であったか・・・
第二次大戦太平洋戦争で亡くなられた320万人の方々に軽々しく(might have)なんて言いたくない。死者は語ることはできないからだ
同じ戦場で日本以外の犠牲者2000万人の方々のためにも。
「終戦の詔勅」にも「非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク」とあります。
四分の三世紀も前の歴史を見つめ、「歴史に学び」・・・「平和に進む道しるべ」にすることこそ、死者に対する最大の鎮魂の心ではないだろうか。

★知覧のもう一つの顏・・・富屋食堂・・・若ものたちのしばしの憩いの場所だった。特攻兵の母といわれた鳥浜トメさん。兵営では歌えない生れ故郷の歌「アリラン」をこの店で歌って出撃していったという朝鮮半島出身の特攻兵。兵営内では特攻兵の故郷に宛てた手紙は開封検閲があった。町内の郵便ポストにも憲兵が見張りをしていた。彼らはホンネを記した手紙をトメさんに託したといわれます。
参考》2007年12月17日のブログ⇒クリック⇒「鹿児島の旅・・・知覧・・・ホタル


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8 コメント

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特攻兵の詠んだ歌 (縄文人・・・)
2019-08-27 13:55:21
・特攻隊の飛び立った飛行基地・・・知覧

小学校2年生であったか、実体験!?
教頭先生の弟さんが特攻隊に出兵し、その方が飛行機で飛行挨拶に来るという連絡で、
全校生徒校庭に集結、飛行機の来るのを待った。

決められた時間に飛行機が飛んできた。
みんなあらん限り手を振って答えた。飛行機は小学校の上空を2回旋回、町全体の1回旋回して飛び去って行った。
今考えれば、玉砕寸前の飛行機の姿であったことでしょう。

故郷を山や川を、町や里を、父母を、姉妹に別れを告げて、特攻機兵は目標めがけて突っ込んでいったのでしょう。

その後の消息は間もなく終戦、先生の弟さんの消息を聞くどころでなかった。自分たちの身の回りで大変でした。

玉音放送「日本は負けた」

そんなつたない思い出が「知覧」を見て思い出した。

特攻兵の詠んだ歌(検索)。

・砕けても戦の空にただよはんみなみの風を我が声ときけ
出典
井上 啓

・きみ想ふこころは常にかはらねどすべてをすてて大空に散らむ
出典
小城亜細亜

・若桜一人娘にくよくよするな俺は日本を抱いて寝る
出典
???
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特攻兵士のお別れ飛行 (縄文人さんへ・・・)
2019-08-27 14:18:13
情あるjの上官の許可であったのだろうか。
上空から「ふるさと」の山や川、畑、学び舎を見て、いかに思ったであろうか。
他人がその気持ちを推し量ることはできない。

戦後、飛行帽、絹のマフラー、つなぎの飛行服で歩いていた復員の特攻兵を見ました。暗い顔をしていました。
軍需工場から帰った兄の中学校には特攻帰りがいて、学級が荒れたそうです。
教師によってお国ために志願をさせられ、帰ってきたらその教師が民主主義を教えていた。
いったい俺たちはなんだったのか・・・

8月15日以後、浅間山に、赤石山脈に飛行機の残骸があったそうです。特攻兵の自害だったのでしょうか。

特攻兵の残した句・・・純心だったのですね。
ホンネはどうだったのでしょうか。

平和な時代をいただきました。
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Unknown (日々前向き)
2019-08-27 16:14:34
コメント投稿上手くいかず遅くなりました。
私の叔父(父の弟)の名前も他の殉職で犠牲になった方々と共に石碑に見ることができます。
両親が元気な頃、帰省の度に兄弟姉妹揃い、石碑の前で叔父の話聞かされました。
先人たちの犠牲の上に現在の平和な生活があることに感謝して毎日を過ごしたいものです。
両親とよく行った特攻会館、公園、
懐かしい思い出ありがとうございました・
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比企野村人さんへ (縄文人)
2019-08-27 20:30:33
◎◎◎≫教師によってお国ために志願をさせられ、帰ってきたらその教師が民主主義を教えていた。

戦後の混乱。
ここまでは、まだ幼少で、只やりなさい!、ハイそうですか、一生懸命にやります・・・・・・・・
此のくらいの返事であった事であろう、(縄文人小学2年生)

思えば 無理もなし、国の一声によって
軍国主義から、民主主ぎに変わり教科書が墨で塗り替えられた。
その後、奉安殿が壊された。
その奉安殿の画像を少しでも近く思えるものに探しました。
https://search.yahoo.co.jp/image/search?fr=top_ga1_sa&p=%E5%A5%89%E5%AE%89%E6%AE%BF&ei=UTF-8&b=1

何を言いたいかと言えば、
教育の本筋です。
「人間は、若きとき右、いや左…と言えばどのようにでも真直ぐに進んでいく。」
≪鉄は熱いうちに打て!!≫どのようにも如如何様にでも教育によって決められる。
「鉄は熱いうちに打て!!!」あらためて思い知らされました。教育は人を作り言われますが、間違った方向に・・・・・。時代

コメント不要。

考えを書かせていただいたことに感謝。

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知覧 (こきおばさん)
2019-08-28 06:43:08
 知覧には2回行きました。1回目はツアーでしたから、もう少し時間が欲しかったと思いましたし、2回目は同行した男性たちが、「もう戦争のことはいい」と時間をとってくれませんでした。戦争体験のある人たちでしたのに!

 特攻で命を落とした若者たちの写真や遺書、トメさんの語っているビデオなど、若い人たちにぜひ見てほしいと思います。
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若き特攻隊員の死に哀悼の意を表します (日々前向きに・さんへ・・・)
2019-08-28 16:42:02
青春を消耗兵器にした外道の作戦・・・を立案し実行した戦争指導者たちに怒りをこめながら・・・
純真な若者たちの死に・・・あらためて哀悼の意を表します。
生きていれば・・・恋もしただろうにと…つくづく思います。

コメントありがとうございました。
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知覧 (こきおばさんへ・・・)
2019-08-28 17:03:38
本文には書けませんが・・・ボランティアの語り部が丁寧に語り、みなさんが涙を流す・・・
若き青年たちが・・・なぜ死に赴かなければならなかったのか・・・なぜ、どうしてが欠けているのです。
語り部の人たちも語れないでしょう。

特攻隊の母鳥浜トメさんの娘さんの赤羽礼子さんの本では・・・トメさんは何度も憲兵隊に呼び出しを受け体にあざが残っていたそうです。兵たちに手紙の投函を頼まれたことからでしょうか。

ちひろさんの美術展いかがでしたか。お父さんが軍の設計将校、お母さんが軍国の母でちひろは教育者として満州に移住しますがお父さんの部下の手配で終戦前に帰国します。そのことが戦後、松本から上京して自立していく動機になったのでしょう。両親は隠棲して安曇の松川村で百姓をはじめます。
https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/307f8e5041377f70771cb93575d923a1

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先生 (縄文人さんへ・・・)
2019-08-28 17:30:08
国民学校1年生の時のオナゴ先生・・・モノスゴイ軍国教師であった。物差しでビシビシ体罰された、廊下に立たされた。そのことを今でも忘れない。
終戦後、教えていただいた先生はみんな人格的にいい人だった。
人は人の背中を見て育つ。

私の兄たち3人。長男は予科練年齢年齢であったが肺に影が出て入学を勧められなかった。体の頑丈な人は教師が長時間1対1で予科練志望を勧めたという。次男は予科練年齢前で岡谷の軍需工場集団勤務。予科練年齢になったら予科練志望をさせられたであろう。三男は農業勤労奉仕。ほとんど勉強しない時代であったらしい。
教師たちも心に深い傷を負ったであろう。戦後、教師を辞めた人もいると聞く。
「日教組」のはじまりは「教え子を二度と戦場に送るな」という思想からであるらしい。後年、恩師からの手紙にそんなことが書いてあった。
奉安殿の思い出・・・校長が白い手袋で鍵をあけ教育勅語を出して、読み上げたことを思い出した。取り壊されたことは思い出さない。
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