小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

吉田典史著 「震災死」(生き証人たちの真実の告白)を読む

2012年03月04日 | 書評・絵本
死という厳粛な事実と真正面から、立ち向かい、遺体を、科学的に、検視報告なり、医師・歯科医師・警察・消防団・自衛隊・潜水士・心理学者などの証言を、こまめに、検証・分析して、死因の究明(圧迫死、外圧死、凍死、窒息死、即時死後硬直などの事実)を通じて、そこから、見えてくる「防災」想定を設定すること自体の問題点、防災意識の油断の指摘と、今後の防災対策への提言へと、進んでゆく。PTSD(心的外傷後ストレス障害)に於ける能動的意思の有無の重要性や、心のフィルターのコントロールの説明や、突然の「暴力的死別」により、心の中に生まれた「自責の念や怒り」、「複雑性悲嘆」、「統合された悲嘆」、「悲嘆と受容の表裏一体性」、「開き直りの必要性」に関する科学的な説明と分析は、確かに、「千年に一度」、「未曾有の災害」とか、「想定外」という言葉だけで、「思考停止」を伴ってしまう議論に、対峙していて、貴重である。遺体を、暴力的に破壊されたモノとして、客観的にみることにより(報道、表現の在り方に対する疑問)、防災意識のオオカミ少年的教訓を、改めて、考え直そうとする視点は、全国紙のマス・メディア報道とは、一線を画していて、斬新な視点である。死臭で臭覚を麻痺してしまった災害救助犬(レイラ号)の実話、自衛隊員による「実弾を使わない戦争」、自衛隊の在り方(軍隊と災害救助派遣という便利屋)に関する問題提起、更には、消防団の待遇、組織の在るべき姿、又、犠牲となった団員への不十分な補償の問題、「職責を果たした」という美名の下での客観的な真実へ、迫ろうとする力への無言の圧力と無念さ、等、確かに、そこには、「備えあれば、憂いなし」ではなくて、「憂えないから、危機意識がなく、備えなし」という事実に、改めて、考えさせられる。「絆」とか、「がんばろうニッポン!」等という言葉とは裏腹に、この国には、無責任な風潮や無邪気さが、同居していて、「人と人とが支え合う意識が、すごい速さで、壊れて行きつつある」、そうした国の内部崩壊の危機を、著者は、敗戦や原爆の語り部の必要性と同時に、「記憶の風化」を恐れ、真摯に訴えている。石巻の大川小学校のように、何故、多くの死者が出たのか、未だに、多くの謎が残されており、それらの検証が、不十分であるとも、、、、、。そうした検証無くして、被災者を支えること無くして、今後の防災計画も復興もあり得ないし、国の再生もないと、著者は、犠牲者の遺体や多数の行方不明者に、替わって、訴えているように、感じられる。3月11日を前に、1年前と1年後は、自らの意識の中で、どのような変化が起こっていたのであろうかを、改めて、問われているようである。