【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

人間関係は難しい

2010-11-16 18:54:21 | Weblog
転倒事故で鎖骨を折ったのが1ヶ月前。経過は順調で右肩もだんだん動くようになってきました。バイクは結局廃車にしましたが、困るのが通勤です。今は家内に送り迎えをしてもらってますが、いつまでも“運転手つき”というわけにはいきません。で、車を物色し始めました。とんだ出費ですがしかたありません。通勤で動けばいいのだからできるだけ安いのを、と思って痛感したのが、自分の感覚が「昭和」のものだ、ということです。軽自動車は私にとっては「エンジンは360ccでボディの鉄板はぺこぺこ」なのですが、今は660ccで安全基準もしっかりしているんですね。で、お値段もしっかり、私の見当の1.5倍くらい。これだったら普通乗用車の中古が買えるじゃないか、と思ってしまいます。
ならば中古で程度の良いものを、と考えているのを親が聞いて「息子は中古しか買えないくらい貧乏なのか」と心配して「援助してやろう」と。いや、たしかに援助はありがたいのですが、この年になって親のすねをかじるのはやはり格好悪い。そう言うと「相続税を取られるくらいなら少しでも今のうちに……」 もしもし、お二人の財産、相続税の心配をするくらいの規模ではありませんよ。もちろん気持ちはとてもありがたいから、先方の面子を潰さないようにうまく気持ちだけをいただく手はないか、とこちらの夫婦で悪だくみ、もとい、相談中です。
骨肉の深刻な争いだったら嫌ですが、こういったことでもめるのは、楽しいことではあります。なかなか難しいものですが。

【ただいま読書中】『和算を教え歩いた男』佐藤健一 著、 東洋書店、2000年、1700円(税別)

江戸時代はじめ、算盤塾が各地で流行りました。その中で特に評判が良かったのが、算盤だけではなくて中国の数学も教えていた毛利重能(京都)です。その弟子に『塵劫記』の吉田光由、『堅亥録』の今村知商などがいました。そこからさまざまな流派が生まれます。その中で有名なのは関流ですが、その中の長谷川塾の俊才、山口和を本書では追います。
山口は文化十四年(1817)江戸から水戸街道に旅立ちました。本書ではその旅日記が紹介されます。
本書では折に触れ和算の問題が出題されます。たとえば「横二間半、縦六間、軒までの高さ二間の蔵がある。この蔵の中に米はいくら入るか」。容積を計算すると2.5×2×6で30坪(「坪」は「立方間」のこと)。これに当時の常識「一坪には米が36石」を当てはめると答えは「1080石」だそうです。そんな常識、知りへんがな。この旅の目的の筑波山詣でがすむと麓の村に腰を据えて弟子を取り数学を教授します。さらに東に向かい詣でた真鍋天王社で山口は算額を見つけます。
難しい問題が解けたことを神に感謝するため/研究発表として/宣伝のため/記録のため、各地の神社には和算の絵馬が奉納されました。最古の記録は寛文十三年(1673)武州目黒不動で算額を見た、という『算法勿憚改』の記述で、最古の現物は天和三年(1683)栃木県佐野市星宮神社のものです。結構高度な内容で、ピラゴラスの定理や高次方程式の解法などが扱われますが、実は実用目的もありました。酒屋が酒を仕込むとき「口の広さの直径が六尺三寸七分、底の直径が五尺八寸八分、深さが八尺一寸の酒樽の容積は?」という計算が必要になるのです。(ちなみに正解は、三七石五升一合だそうです)
山口は筑波山の次は鹿島神宮に参詣することにします。急ぎもせずぶらぶらと各所で弟子を取り教えながらの旅です。奥の細道の数学版といったところでしょうか。次々紹介されて弟子の所に泊まるから旅費はかかりません。謝礼でむしろ懐は豊かになる、という優雅な旅です。山口が江戸に帰ったのは一ヶ月後のことでした。
旅から帰って五ヶ月後の十一月、山口は再度旅立ちます。筑波山近くで正月を迎え、各所の弟子の面倒を見た後、山口は陸羽街道へ旅立ちます。目指すは奥州。ますます奥の細道風になってきます。芭蕉と違うのは、山口は各所で算額を眺めたり数学を教え、松島では絵を描いたこと。優秀な人間には江戸に出て長谷川塾で学ぶことを勧めたりしながら、山口は平泉から盛岡へ。さらに足を伸ばして八戸まで。そこでも弟子を取っているのですから“仕事熱心”なことです。恐山参詣後、奥州街道を西へ西へ。各所の温泉を楽しみながら、日本海側に出ます。「奥の細道」以後、東北の旅人が増えて街道が整備された、と聞いたことがありますが、それでも山口の旅路は大変なものだったのではないでしょうか。ともかく赤石村から日本海側を山口は南下します。芭蕉の時代には修業の場だった出羽三山(湯殿山、月山、羽黒山)は山口の時代には物見遊山の場になっていました。山寺から二口街道を通って仙台へ向かいます。山の測量や油分け算、絹糸の算法など、その土地その土地にふさわしい問題が紹介されて読者を退屈させません。結局山口が江戸に帰ったのは出立から十一ヶ月後のことです。
江戸時代の旅が、封建時代というわれわれの先入観からは信じられないくらい“自由”なものだったことはこれまでにもいろいろな本で読みましたが、こうして数学者までが自由に旅をして回ることができるのは、ある意味「文化」にとって幸福な時代と言えるのではないか、とも思えます。江戸時代が暗黒時代って、誰が言ったんでしたっけ?


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