天皇の公務を軽くすればまだ天皇は仕事ができるだろう、というのが有識者会議の結論になりそうだそうです。つまりは「死ぬまで扱き使ってやる」ということ? 天皇にそんな命令ができるとは、ずいぶんエラい人が日本には多いんだなあ、と私には感じられます。国民や天皇のため、じゃなくて、安倍政権のため、に仕事をしている「有識者」が多い、ということなのかな?
「おためごかし」という言葉がありますが、「おためごまかし」という言葉を普及させたくなりました。
【ただいま読書中】『エンダーのゲーム』オースン・スコット・カード 著、 野口幸夫 訳、 早川書房、1987年(90年4刷)、680円(税別)
この本については5年前に読書日記を書いていますが、「エンダーのゲーム」短篇版を読んだのでついでに長篇版も再読することにしました。
短篇では、エンダーが宇宙空間でのバトルスクールですでにチームリーダーとしての“地位”を確立しているところから話が始まりましたが、長篇は6歳でバトルスクールに入る前、家族とともに過ごしているところから話が始まります。ちょっとした変更ですが、エンダーの人生に大きな厚みが加わりました。
バトルスクールでの書き込みも分厚くなっています。エンダーが戦争の“切り札”であると確信している大人たちは、自分が二流であることを自覚しつつそれに耐え、エンダーが「子供としての生活」が許されないこと(自分たちが許していないこと)にも苦しみながらそれにも耐えなければなりません。エンダーに解決困難な課題を与え、やっとこさエンダーがそれを解決したらすぐに次の状況に彼の身柄を移し次の難題を与えます。フェアじゃありません。だけどフェアな戦争なんてものはないのです。
エンダーの兄と姉の描写が平行して描かれることによって、エンダーが「隔離」されていることがさらに強調されます。ここの発想は『無伴奏ソナタ』と通底するものがあります。そして、本書が半分を少し過ぎたときにやっと(短篇のオープニングに登場した印象的な)「敵のゲートは『下』だ」が登場します。
エンダーは「敵の行動からその意図を理解すること」によって敵の裏をかき続けます。しかし「理解する」ことは「愛する過程」の一部にも含まれています。エンダーは「敵を理解し、その上で(愛するかわりに)敵を破滅させなければならない」のです。それは自分の部下に対しても同じです。彼らの性格や能力を理解し、その上で「最大効率で利用」しなければなりません。それが戦争なのです。