この前たまたまお役所で「本籍地は?」と聞かれるチャンスがありました。昔だったら運転免許に書いてあったのですが、現在は「そんなの不要な情報」ということでしょうか、表面からは見えないようになっています。幸い従兄弟が現在もそこに住んでいて携帯電話の住所録に住所を入れてあったので答えることができましたが、現代日本で「本籍地」って、一体どんな機能的意味を持っているんでしょうねえ。
【ただいま読書中】『旗本夫人が見た江戸のたそがれ ──井関隆子のエスプリ日記』深沢秋男 著、 文藝春秋、2007年、730円(税別)
鹿島神宮大宮司家六十七代・鹿島則文は天保十年(1839)生まれ、尊皇思想に感化され幕府に八丈島に流されましたが明治になって帰国、明治十七年には伊勢神宮の大宮司に抜擢されています。蔵書家として名高く、貴重書が多い彼の蔵書は「桜山文庫」として今に伝えられています。その中に、古書籍商から購入された一冊の「日記」が含まれていました。
書いたのは、旗本庄田家の四女、隆子(天明五年(1785)生まれ)。二十歳頃結婚しましたがすぐに離婚。それから学問三昧の生活だったようですが、文化十一年(1814)頃三十歳頃に再婚。井関隆子となります。日記は天保十一年(1840)から始まっています。この時夫はすでに亡く、息子の親経が広敷用人(広敷は「中奥(将軍の日常生活の場)」と「大奥」を連絡する部署。親経は将軍家斉の正妻松の殿の掛)、孫の親賢は家慶の小納戸、という役職にあり、家計の実権は息子の嫁に任せての悠々自適の生活だったようです。血縁ではありませんが、息子と孫は下城すると、酒好きの隆子に酒の肴として城内での事々を細かに語りました。それを隆子は、自らの批判精神を通してから日記に書き記しています。また、江戸の年中行事も最初の年の日記には細かく記録されています(2年目からは省略されました。ここにも隆子の合理精神を見ることができます)。
日記の開始は、天保の改革とほぼ同じ時期です。そのため、月見の宴を質素にするべきか、という議論が家内に登場します。もちろん旗本ですから、改革に異を唱えてはいけません。しかし、伝統(と楽しみ)は守りたい。そのため人びとはいろんな努力をして改革の“骨抜き”をします。
両国の花火大会のことも細かく書かれていますが、この当時、佃島でも花火大会があったそうです。両国は玉家と鍵屋ですが、佃島は、砲術関係の人が公儀の許可を得て「試験」として日中から夜まで盛大に花火を打ちあげていました。隆子の家(九段坂下の飯田町)でも皆が屋根に上って見物しています。けっこう距離があるはずですが、町の“背”が低かったんですね。
「人違いの心中事件」についても隆子は詳しく記録しています。旗本同士の結婚話で、ある若侍に一目惚れした娘にその家から縁談が来て、喜んで承知したらその若侍は弟の方で、縁談の相手は兄。承知した以上夫婦として過ごすがやがて恋心が弟の方にも知れ、弟も兄嫁を憎からず思うようになったことが周囲に知れ、とうとう二人は心中(当時の公式用語では相対死)を決行した、という事件です。ここで隆子は二人の心情にまで踏み込んで書いている、ということは、二人に同情していたということなんでしょうね。
落語の「品川心中」そっくりの筋立ての話も登場します。ただし男の方は町人ではなくて参勤交代で江戸に出てきた田舎武士です。もしかしたら「品川心中」の素材になった実話なのかもしれません。
政治の話もあります。何しろ江戸城内から“新鮮な素材(それも将軍に近い筋からのもの)”が毎日目の前にやって来るのですから、知性を持った人がそれを無駄にするわけがありません。天保十一年の「三方所替」事件では、隆子は「下々には節約を命じながら、水野忠邦は自分の所領は増やしているし、規制されている賄賂も自分は受け取っている」と批判的に述べています。そしてこの無理な施策は幕府の統治力の低下を示しているのではないか、と見ているようです。
天保の改革末期に登場した「上知令(江戸、京都、大阪で城に近い十里四方の土地を幕府直轄領とする政策)」についても隆子は旗本たちがどのように受け止めたのかを正確に記録しています。さらに「もともと領地を取り上げるのは、古来、刑罰だった。だから罪のない人たちは上知令を拒否的に見ている」という分析をしています。旗本たちだけではなくて城の近くに領地を持つ外様大名までもが異議を申し立て、結局幕府は上知令を発して三箇月で撤回します。その時の幕府内での事情を隆子は細かく記録しています。誰が文句を言い、誰が解任され、誰が病と称して引きこもった、とか。なかなかリアルな記録です。
十一代将軍家斉は五十年の治世で一度も日光に参りませんでしたが、十二代家慶は天保十四年に盛大に日光参詣を行いました。これは徳川軍団の一大デモンストレーションですから、隆子も詳しく記録します。驚くのは準備の荷物に「仮葬儀の道具」が大量にあったこと。参詣の道中でたくさん死者が出ることを想定していたのです。滅多に見られない大イベントですから、町人までもが予行演習の段階から大騒ぎです。幕府には「天保の改革」の中で行う参詣には、政治的な意味がありました。しかし隆子は、水野忠邦を(ということは天保の改革自体を)厳しく批判しています。
奥の情報も入ってきますが、その中で目を引くのが将軍家斉の命日です。世間には天保十二年閏一月晦日、と公表されましたが、実は閏一月七日だった、と隆子の日記に記述されているのです。重大な“国家機密”ではありませんか?
宗教に関しても隆子の舌鋒は鋭いままです。将軍家慶がひいきにしたため、江戸では日蓮宗が大流行しました。将軍の覚えが良くなる、という現世的事情がベースにあります。しかし、現世利益によって宗教が流行するのは良いのか?というのが隆子のスタンスです。私はこの意見に共感します。
天保十五年の江戸城本丸炎上も当然日記にありますが、非常に具体的で臨場感に満ちたものです。しかし「大奥では『火事だ』と言ってはならない」という禁令があったため、火事に気づいた女房たちは騒ぐだけで「火事」という情報が行き渡らなかったし、女性を隔離するために門が厳重に閉じられていたため犠牲者が多く出た、救いに入った武士たち(隆子の息子がその先頭でした)も初めて入った場所で地理不案内な上迷路のように仕切られていてすんなり救助活動ができなかった、と問題点を列挙し、改善策を挙げています(これは息子を通して城内に伝えられたはずです)。
隆子は「自分の日記は、今の時代には意味がないが、数百年後には貴重な記録になる」と意識していました。時代を超えた知性の持ち主だったようです。現在私がそれに匹敵するものを書けるかどうか、勝負する前から負けているような気もしますが、まだこれからいくらか頑張ることはできますよね。