【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

スパイと黄門

2017-04-23 07:00:14 | Weblog

 ジェームズ・ボンドがいつも女にもてるのは不思議だ、とも思いますが、あれは、水戸黄門がいつも事件をあっさり解決してしまうのと同じ、と思えば、その不思議さはなくなる、かな? そういえば「ジェームズ」はいろんな人がやってますが、「黄門様」もいろんな人がやってますね。

【ただいま読書中】『007のボスMと呼ばれた男』アンソニー・マスターズ 著、 井上一夫 訳、 サンケイ出版、1985年、1600円

 イアン・フレミングは海軍情報部に勤め、その経験を大きく膨らますことで「ジェームズ・ボンド」を生み出しました。そして、ボンドのボス「M」には実在のモデルがいました。MI5(敵の情報をつかみ破壊活動などをする部署であるMI6とは違って、敵の諜報員や内部の二重スパイを突き止める防諜部)のボスだった、マックス・ナイトがその人です。
 厳しい海軍の規律をたたき込まれ、第一次世界大戦では戰争の周囲をうろうろするだけで、アメリカのジャズに出会ったのが最大の収穫だったマックス・ナイトは、その人柄や多才ぶりを見込まれてMO5から改名したMI5にスカウトされます。そこは「人を使う」名人のマックス・ナイトにとって、「自分のための職場」でした。当時の組織の主目的は、ソ連のスパイを摘発するために英国共産党にスパイを送り込むことでした。これはそれだけで一冊の本になる題材ですが、“主人公(女性)”「週給50シリングのスパイ」の「大成功」と「その後のだらだらした悲劇」の対比には胸をつかれる思いがします。
 ナチスの台頭で、MI5は共産主義者だけではなくて極右も警戒の対象とします。同じ頃、マックス・ナイトの私生活は悲惨なことになっていました。結婚生活は破綻し、最初の妻は薬物中毒で死亡。次の妻は、責任が自分にあるのではなくて、ナイトの同性愛の性向にあることに気づいてしまいます(その性向は、寄宿学校で育てられた、と著者はほのめかしています)。
 マックス・ナイトは、多才で有能で陰謀が大好きで、人に好かれるタイプの人間でした。また、人の適性を見抜きスパイとして育てることが得意で、異常に勘が良いという長所を持っていました。つまり「スパイの親玉」として理想的。ところが脇が甘く、手紙で平気でMI5について言及する、という面も持っていました。この「脇の甘さ」からMI5は第二次世界大戦中にソ連のスパイの浸透を易々と許してしまうことになってしまいます。
 親ナチスの右派集団にもナイトは女性スパイを送り込み、ここでも「成功」が得られます。ナイトに育てられた女性スパイの多くは「ナイトのためなら何でもしよう」と思うようになってしまうようです。
 海軍情報部にいたイアン・フレミングも、MI5のマックス・ナイトに魅せられた一人でした。そのためか、後日「007」を書いたとき「M」の人物像を、マックス・ナイトと当時の自分の上司ジョン・ゴドフリー海軍少将をミックスして作ることになります。そういえば、マックス・ナイトも小説を書いて発表していますが(「小説家」という偽装が諜報活動に役立つ、とでも上司に説明していたのでしょうか?)、イアン・フレミングは「怠惰」と「奇行」という仮面の下に想像力と分析に長けた頭脳を隠していて、それを後にフル活用して小説を次々発表することになります。それはともかく、海軍情報部でイアン・フレミングは「ナチスの指導者の誰かをイギリスにおびき寄せる」という奇抜な計画を思いつき、その構想と実行にマックス・ナイトを巻き込んでしまいます。結局この計画は「ヘスの単独渡英と逮捕」という大成功を収めてしまいます。
 大失敗もあります。夢想家や虚言癖のある諜報員を起用したため、“冤罪”事件を次々引き起こしてしまったのです。ただし“冤罪”であることが明らかになったのはずいぶん後のことで、「機密保護」を隠れ蓑としてきちんとした裁判抜きで無実の人間を刑務所に入れることにマックス・ナイトは“成功”してしまいました。ただしこれは、刑務所に入れられた人だけではなくて、マックス・ナイトの信用も傷つけ、ひいては大英帝国も傷つけることになりました。信用を失ったナイトの進言をMI5長官は素直に受け入れなくなり、そのため防諜体制にひびが入って、ソ連のスパイがMI5そのものに浸透することも許してしまうことになってしまったのです。
 引退前には「妻より飼育している動物たちの方を愛する男」だったマックス・ナイトは、引退後には「ナチュラリスト」となりました。「人を愛すること」よりも別のことを愛し続けた人生、だったのかもしれません。もしかして「スパイ」って、そんな存在なんです?