【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

背中の傷

2018-10-28 08:14:29 | Weblog

 武士が負傷した場合「背中の刀傷」は逃げようとした証拠で「武士の恥」とされたそうです。
 なんで?
 本当に逃げていたら相手の刀は背中に届かないでしょう。
 乱戦で取り囲まれていて後ろから攻撃を受けたのだったら、後ろから攻撃する方が卑怯です、というか、乱戦だったら卑怯もへったくれもないでしょう。
 そもそも、かなわないときにはいったん逃げてあとからきちんと復讐するのが武士の嗜みというか義務だと思うんですけどね。

【ただいま読書中】『幕末の海軍 ──明治維新への航跡』神谷大介 著、 吉川弘文館、2018年、1800円(税別)

 「たった4杯の蒸気船」で日本人を驚かしたペリー提督ですが、実際には蒸気船は2隻であとの2隻は帆船でした。ペリー提督は当時の最新テクノロジーの蒸気船をいち早く海軍に導入して「蒸気海軍の父」と呼ばれているそうです。日本人はただ驚くだけではありませんでした。そのメカニズムに興味を示し、サスケハナ号に乗り込んだ与力の中には質問ばかりしたため「根掘り葉掘り調べて、好感が持てない」とペリー側の人間に感じさせた者もいたそうです。
 老中阿部正弘は海防体制についてパブコメを募り、800通も集まった意見書の中で目を引いたのが勝海舟の「オランダに限定せず広く外国と交易をしてその利潤で軍艦を建造する」というものでした。これで勝は「幕府海軍」と緣ができます。浦賀奉行も砲台を建設し軍艦を建造して江戸湾防衛、という構想を示します。
 安政東海地震の津波で破損したロシア船「ディアナ」は結局沈没し、その代わりの洋式帆船が戸田村で建造されました。幕府はそれも実地検分して洋式船の建造法を学びます。幕府は「鳳凰」という船を試作しましたが、その現場を訪問して熱心に学んだ一人が長州藩の桂小五郎でした。のちに第二次薩長戦争で両者が洋式海軍で対決することをまだ誰も知りません。
 軍艦購入・留学生受け入れ・教官派遣などを依頼されたオランダは大喜びでした。最初は浦賀に学校を作ることが構想されましたが、江戸に近すぎる(他国の軍艦が入港しようとする恐れがある)と却下され長崎に海軍伝習所が作られます。各藩から集まった伝習生たちは、蒸気機関の構造や操作・操船・造船・数学・オランダ語・砲術の知識と実習・歴史学や地理学・軍楽隊などに熱心に取り組み、外輪船「観光」を伝習生だけで江戸まで回航することに成功します。
 伝習開始から2年の安政四年(1857)幕府がオランダに注文していた100馬力のスクリュー式蒸気船「ヤパン」が長崎に到着、「咸臨」と命名され、第二次伝習の練習船となります。充実した教授陣によって、講義・実習・練習航海が繰り返され、伝習生の実力は上がっていきます。最初期から伝習生の監督を務めている勝海舟についてオランダ人は「人望や交渉能力の高さ」を評価していますが、「万事すこぶる怜悧」でもあったそうです。頭がよすぎた、ということなのでしょうか。榎本武揚も優れた品性と熱心さが教官の目を引く存在でした。
 長崎は遠いため、幕府は築地軍艦操練所に「海軍」を集中させることにします。オランダ人教官は「学ぶだけ学んだら、お払い箱か」と不快に感じていたようですが、幕府は長崎伝習所をあっさり閉鎖します。次の目標はアメリカへの使節派遣。そこで正使が乗るのとは別の船を派遣することが提案され、「咸臨」がその候補となります。乗組員の主力は伝習所出身者。船が座礁して帰れなくなったアメリカ人11名も同乗することになりました。難破しそうになったり飲料水が不足したりの危機を乗り越え、サンフランシスコに一行は無事到着。咸臨の戦隊を修理するために浮ドック(一度ドック本体を沈めて船を入れてから排水して一緒に浮かび上がらせて修理する)が使われましたが、乗組員はその構造にも興味津々で情報収集をしています。帰りの航海もやり遂げた乗組員を迎えたのは「桜田門外の変」の知らせでした。それでも幕府は「海軍」を進めます。軍艦奉行の下に軍艦頭取・軍艦組という指揮系統を作り、制度としての「海軍」が成立します。問題は、実力主義と家格制度の調整でした。さらに攘夷の志士による外国人襲撃が続いたため、横浜開港地警備の一環として、軍艦奉行は交代制で常に二隻の船が横浜沖の警備をするようにします。
 将軍家茂の2回目の上洛は海路でした。幕府の艦船だけではなくて、松江藩・薩摩藩・福岡藩の船も艦隊に参加しています。陸路だと20日くらいかかるのが海路だと数日ですから、メリットは大きかったでしょう。難破したらえらいことですが。
 各藩も続々洋式艦船を購入します。本書には4ページもの購入リストがありますが、この100隻以上の艦船にどのくらいの支払いがされたのか、私は一瞬「もったいない」と思ってしまいます。「死の商人」たちは大喜びだったでしょうね。幕府は艦船の修理基地として浦賀を整備し、石炭の供給体制も整えます。人も育てなければなりません。「海軍」を持つのは大変ですが「機械文明」に直に触れることで、「日本」は確実に変容していったはずです。
 幕長戦争では海戦がありましたが、戊辰戦争では指揮官の榎本武揚が幕府と政府の間で二重の対応をしたため、「海」では奇妙なバランスが保たれてしまいました。榎本武揚は「幕府への忠義」と「新しい時代の日本への忠誠」との間で“バランス"を取っていたのかもしれません。だからこそ五稜郭での戦いのあとでも許されて明治政府に参画できたのかな。