【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

2013-08-29 07:01:09 | Weblog

 「間(ま)」は日本独特、なんて言い方があります。だけど、西洋音楽で重要な要素である「リズム」も「間の取り方」ではありません?

【ただいま読書中】『健康の社会史 ──養生、衛生から健康増進へ』新村拓 著、 法政大学出版局、2006年、2500円(税別)

 養生はもともと「健康増進」のためのものでした。貝原益軒は、良く死ぬためには良く生きなければならないと主張しました。そして、良く生きるためには若い頃からの養生が必要、という理屈です。
 運動は一定の人気がありました。昔の中国では「導引」という健康体操がありますし、たとえば松平定信は『老の教』で「武伎」を重視しています。これは要は武道を応用した健康体操です。今だったら、ボクササイズ?
 仙薬も人気がありますが、貝原益軒はそちらには慎重な態度です。副作用の問題とか、安易に簡単な解決法に頼る態度が気に入らなかったのかもしれません。そういえば「茶」も最初は「仙薬」だったんですよねえ。
 房中術も人気があります。いかにセックスをしたら(しなかったら)「養生」となるか。理屈は盛んですが、統計的な根拠はないようです。
 エクササイズ・サプリ・セックス、と言い換えたら、江戸時代に人気があったものって、今でもそのまま生き残っています。人の傾向は変わらないのかな。
 ところが近世後期に養生の概念が拡張され、立身・孝養・治家という大義を果たすための養生が言われるようになりました。「自分のための養生」から「他者から強要される養生」への変容です。しかし「強要」は嫌われますから、そこで「偽装」が行われます。「自発性」をもたらすための「養生がいかに“得”か」の「動機づけ(他人のためではなくて、家族のため・あなたのためなんですよ)」の強調です。
 さらに近代になると、「近世の否定」「科学の応用」から「国家の養生」が登場します。「公衆衛生」です。「健康」はもちろん「個人の利益」ですが、「健康な国民」は「国家の利益」でもあるのです。皆が健康で文句を言わずに労働をして税金を納め健康な兵隊になり、しかも医療費を使わない、というのは“理想的な社会”でしょうね。
 ここでも「近世の否定」「科学の応用」を「近代医学の否定」「科学の誤用」と言い換えたら、現代社会で一定の人気があるトな健康法がそのまま当てはまります。やっぱり人の傾向は……
 後藤新平は「衛生」の概念を輸入して日本で使おうとしました。森鴎外や北里柴三郎も“最新の医学(細菌学)”を日本に持ち込みます。そこで「細菌による病気の流行を防ぐための衛生学」が成立しますが、それは同時に「患者」と「非患者」の対立構造を生んでしまいました。疾病は個人のものですが、流行病は社会問題です。患者は「(ちゃんとすれば予防できたはずの)細菌を予防できなかった失敗者」で、だからこそ社会で差別されてもよい、となってしまったのです。流行病になるということは「国家の利益(富国強兵)」を損なう“行為”でした。だから「健康」は「国民の義務」となりました(「義務」と言ったら笑う人がいるかもしれませんが、現在の「健康増進法」でも「健康の増進」は「国民の責務」とされていることはお忘れなく)。
 僻目かもしれませんが、昭和末期~平成の日本政府の「衛生」は、「国民の健康」ではなくて「国家財政」が主眼に置かれているように私には見えます。だから健康増進が(医療費削減のために)必要。富国強兵よりは平和的とは言えますが、これで“健康的な国”と言えるのかな?



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