【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

スジを通す

2013-09-02 06:34:45 | Weblog

 ミュンヘン大学学長のアルベルト・レームは、反ナチスの態度によって1936年に学長職から追われました。9年後、ナチス抵抗の功績が認められて学長に復帰しますが「ドイツの教育で古典を学ぶことの重要性が軽視されている」と政府に噛みつき、46年には再び学長職から追われています。(出典は『アンティキトラ』ジョー・マーチャント)
 レームにとって、抵抗するべきは「誰に対して」ではなくて「教育(学生)にとって良くない思想」で一貫していたようです。

【ただいま読書中】『蝦夷の末裔 ──前九年・後三年の役の実像』高橋崇 著、 中公新書1041、1991年、602円(税別)

 前九年では安倍氏が、後三年では清原氏が滅亡しました。しかし著者は「滅亡」の前に「興」の歴史があったはず(だからこそ大合戦が起こせた)と考えます。
 平安時代、国守に任命されて現地に赴任するもの(受領)もいれば、代官を派遣するもの(遙任)もいました。国主が赴任するのは国府(陸奥国府は多賀城、出羽国府は不明)、鎮守府将軍は胆沢城(岩手県水沢市)、出羽城介は秋田軍秋田城が赴任先でした。赴任した者たちは、馬や砂金など、莫大な財産を持って帰ることになります。それを集めたのは、誰だったのでしょう? 詳しいことは記録が残されていないため、不明です。ただ、陸奥では安倍氏が、出羽では清原氏が、だんだん強大になってきました。
 源頼義は、安倍氏追討の宣旨を受けましたが、出羽守の非協力的な態度もあって戦争は膠着状態となりました。そこで頼義は清原氏に協力を求め、1万の援軍を得ました。なんと頼義軍の三倍の兵力です。これによって安倍氏は滅亡します。頼義は板東武士団のための恩賞を熱心に求めます。清原氏の総大将を勤めた武則は鎮守府将軍に任じられますが、清原氏全体に対する恩賞がどのようなものであったかは実は不明確です。著者は、前九年の役によって武則の清原氏内部での地位がどう変わったかがその恩賞の詳細でわかるのに、と残念そうです。20年の平和の後、清原氏の内紛から後三年の役が起こるので、そのためにもここのところをしっかり知りたい、と。
 後三年の役は、複雑です。内紛がやたらと面倒くさいし、そこに源義家がからんで、合戦の組み合わせがくるくる変わります。一体何が起こっているのだろう、と“外側”からは不思議に思えて仕方ありません。朝廷でも混乱していたらしく、義家の弟の義綱をやたらと呼びつけたりしています。
 世間一般では、頼義・義家父子は名将とされていますが、著者によると前九年・後三年での戦いぶりは凡将となります。戦術面でも戦略面でも。ただ、「勝てば官軍」ですから、最終的には勝てば良いのです。ただ、後三年の役では“漁夫の利”を得たのは藤原清衡だったのですが。
 史料が乏しい場合、歴史の解釈は難しいものになってしまいます。本書も乏しい史料を厳密に読み解こうとして、結局は小説と紙一重の世界に足を踏み入れてしまいました。ただ、小説でも良いのではないか、と私は無責任に思います。「歴史の真実」は、おそらく「ひとつだけ」ではない(各個人で少しずつその姿を変える)でしょうから。



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