ホーソーンは『ファンシーさんの覗きカラクリ』で「罪とは、魂に付着した汚れのことである」と言いました。ところで、「自分の行為は(褒められたことではないかもしれないが)法律に違反はしていない。だから問題はない」と主張する人たちは「自分の魂」については言及していませんね。
【ただいま読書中】『新訳ナサニエル・ホーソーン珠玉短編集』ナサニエル・ホーソーン 著、 清水武雄 訳、 東京図書出版、2014年、2400円(税別)
目次:「ロジャー・マルヴィンの埋葬」「ぼくの親類 モリヌー少佐」「ウェイクフィールド」「鉄心石腸の男──教訓譚」「デイヴィッド・スワン──夢幻の物語」「ファンシーさんの覗きカラクリ──寓話」「ハイデガー博士の実験」「雪舞い」「《往く年の姉》と《来る年の妹》」「母斑」「美の芸術家」「ラパチーニの娘──オベピーヌ氏の著作から」「雪少女──あどけなき子どもの奇跡」
訳者が新訳を起したのは、著者の生誕210周年・没後150周年の記念と同時に、最近の翻訳の文章が「軽快」すぎて、著者本来の文体の重厚さが等閑視されているのが気に入らないからだそうです。
ホーソーンは19世紀前半に活躍した人ですが、これはつまり日本だったら江戸時代末期。文体以前にすでに「古文の領域」ですからどう翻訳するかは訳者の自由と言えそうです。私はホーソーンより少し後の時代の“ビター”ビアスの作品を英語で読んだことならありますが、たとえば彼の「空飛ぶ騎兵」で感じた雰囲気が、本書の「ロジャー・マルヴィンの埋葬」を読んでいてちょっと蘇ってきたような気がしました。「森林に覆われた大陸」と「戦い」という共通点からの連想かもしれませんが、19世紀の文章作法、というものでもあるのかもしれません。
ただ、文体が重厚なら良い、というものではないでしょう。たとえば「ハイデガー博士の実験」なんか、完全にユーモア小説の口調の方が似合います。日本の昔話に「若返りの水」をおじいさんとおばあさんが飲む話がありますが、こちらでも「若返りの水」が登場します。で、それを飲んだ人たちは、赤ちゃんに返るのではなくて…… ここで面白いのは、若返りの水を提供したハイデガー博士が、自分ではそれを飲まないことです。この皮肉な視線(シニカルなユーモア)を「軽快な文体」でも的確に表現するのはなかなか大変そうです。
「《往く年の姉》と《来る年の妹》」は、大晦日に引き継ぎをする《往く年の姉》と《来る年の妹》の会話です。「各月」が語り手になるのは「十月の集まり」(ニール・ゲイマン)ですが、こちらは「年」です。しかし《往く年の姉》の口調はシビアです。鋭い社会批判と人間批判が続きますが、そこに諦念の裏打ちがされているのがなんとも堪りません。
「母斑」……優れた科学者のエイルマーは、自分の妻ジョージアーナの美貌の唯一の欠点である左頬の小さな斑点を取り除くことを計画します。化粧水、強い薬品、さらには魔術の世界にまでヒントを求め、ついにエイルマーは「究極の薬」を完成させます。薬は効果を発揮し、あざは少しずつ薄れ、ジョージアーナはついに「完全無欠の存在」になります。しかしそれによってジョージアーナは…… これは「美容整形」を予言した作品と言えそうですが、作品ににじむ皮肉な口調が気になります。もし著者が現代に生きていたら、「プチ整形」などを気楽に受ける人たちのことを、どう描くでしょう?
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