実家からちょっと昔の体重計が我が家に引き取られてきました。発売当時には「最新のハイテクマシン」だったもので、上に乗るだけで、体重だけではなくて、BMI・体脂肪率・内臓脂肪なども表示され、さらに体年齢まで計算してくれる、というものです。で、生年月日・性別・身長などを登録してから乗ってみたら、私の体年齢は暦年齢より十七歳も若い、と表示されました。
私は喜ぶよりも、この機械に不信を抱いてしまいました。だって私のお腹、どう見てもぽっこりしてきているんですもの。体重計に「目」がついていたら、絶対に別の判定になる、という自信ならあります。
ところでこういった体重計にたとえば小学生を乗せたら、どんな「体年齢」が出たら喜べるんでしょうねえ。
【ただいま読書中】『ビアンカ・オーバースタディ』筒井康隆 著、 いとうのいぢ イラストレーション、星海社、2012年、950円(税別)
著者はあとがきで本書のことを、「ラノベ」としても読めるが、「メタラノベ」としても読んでほしい、なんてことを言っています。いや、確かにどちらでも読めますが、自分がどう読んでいるか、なんてことを意識せずに、ただ単純に楽しめば良いんじゃないかな。おっと、『時をかける少女』のエロ版として読むことも可能です。
主人公は、高校2年のビアンカという美少女。生物部に所属していて、ウニの受精の実験をしています。ところがそれが「オーバースタディ」となってしまって、ビアンカに恋する男から採精してしまうは、それを自分の卵子と結合させてみるは、さらには、巨大カマキリを退治するために人間とアフリカツノガエルとのハイブリッドを大量生産してみるは、タイムマシンに乗ることになるは……いやもうハチャメチャな放課後活動になってしまいます。
で、最後は「バック・トゥー・ザ・フーチャー」のもじりですか? 「ラノベ」か「メタラノベ」かは知りませんが、小説として楽しめるから、私はそれで良いのですが。
ついでですが、本書の続編『ビアンカ・オーバーステップ』は、別の人が書いています。これはこれでまた別の楽しいお話ですが、もしその本を読んだらそのことについてはそこで触れることにいたしましょう。
日食や月食は、地球と月が「球体」であることで説明できますし、次にいつどこで起きるかも計算できます。だけど「地球は平面だ」と主張する人たちは、日食や月食をどのようなメカニズムで説明し、次はいつ起きるかをどのような計算式で予告するのでしょう?
ところで、地球が平面なのだったら、月や火星も平面なのかな?
【ただいま読書中】『天文学者たちの江戸時代 ──暦・宇宙観の大転換』嘉数次人 著、 筑摩書房(ちくま新書1198)、2016年、780円(税別)
『日本書紀』には、「百済に暦博士の派遣を要請した」とか「彗星」「日食」の記録がすでにあります。古代日本に導入されていたのは「中国天文学」で、これは基本的に「為政者のための天文学」(「天意を読み取る」と「暦作成」が主目的のもの)でした。しかし、862年に宣明暦が採用された後日本の天文学は長い停滞期に入ります。変化が生じたのは、平和が続いた江戸時代。朝廷の陰陽寮とは無関係な“アマチュア天文学者”渋川春海は幕府の助けを借りて「貞享暦」を作成、幕府には「天文方」が置かれ、以後幕府が「暦」を支配することになります。
本書では江戸時代を「天文学の概念が大きな変革を遂げた時代」という視点から俯瞰した上で、渋川春海、徳川吉宗と麻田剛立、高橋至時と伊能忠敬、間重富と高橋景保といった「個人」に焦点を当てて「時代」について述べています。
私自身、こういった「人たち」について個別には知っていますが、こうやって概観することは今までありませんでした(だからこそ本書の価値があるわけです)。
渋川春海についてはフィクションですが『天地明察』(冲方丁)に詳しく描かれています。
徳川吉宗は、自身でも天体観測をするような行動的な将軍だったようですが、彼がおこなった「(漢訳された)洋書の輸入解禁」は、のちに日本に大きな変化をもたらします。その代表は『解体新書』(からもたらされた「蘭学」ブーム)ですが、天文学にも「西洋的な宇宙観」(星はすべて天体で、それぞれが独自の運動をしている、という幾何学的な宇宙観)が輸入されたのです。
高橋至時は「伊能忠敬の師匠」として知られていますが、なかなか大した人です。1803年には『ラランデ暦書』(フランスのラランドが書いた当時のスタンダードとなった天文学書の和蘭語訳)によって「西洋の天文学」に出会い、それを翻訳して世界の天文学の最先端に触れていました。弟子の伊能忠敬に蝦夷地測量を勧めたのは、「地球の大きさを測定するため」でした。江戸となるべく遠い地点を精密に測量したら、「1度」の長さを求めることができ、そこから地球の大きさが計算できる、というわけです。(天文学の『ラランデ暦書』は、解剖学での『ターヘル・アナトミア』に相当するもの、と言えそうです)
江戸時代にすでにニュートンの万有引力の概念が日本では知られていますし、天王星の観測まで行われています。「鎖国の世界」でも、日本人は「日本の外の世界(それどころか、地球の外側まで)」を意識しながら生きていたようです。
……ところで「グローバリズムの時代」に生きる私たち日本人は、どのくらい「世界」について知っているのでしょう? どのくらい「世界」について知りたいと思っているのでしょう? そういった点で江戸時代の人間よりは“進んで”いますよね?
一雨降った後、ある駐車場に止めてある車が全身桜の花びらまみれになっていました。天然の桜模様の自動車です。あれ、塗装で表現したものが売れないでしょうか?
この話題、もしかしたら昨年か一昨年にも書いたかもしれません。だけど、美しいものは美しいので、かまわず書いてしまいます。
【ただいま読書中】『秘密解除 ロッキード事件 ──田中角栄はなぜアメリカに嫌われたのか』奥山俊宏 著、 岩波書店、2016年、1900円(税別)
1972年田中が自民党総裁・総理大臣に就任してすぐ、ハワイで日米首脳会談が開かれました。ここでの「ホテル」を巡る駆け引きも興味深いものですが(田中は盟友小佐野の系列ホテルになんとか宿泊しようとアメリカの意向に逆らい続けています)、問題は「台湾」でした。アメリカも日本も、中華人民共和国を無視することは非現実的だと考えていましたが、台湾の扱いが微妙でした。特に日米安保条約での「台湾条項(台湾が中華人民共和国に攻撃されたら守る)」が日米の“足枷”となっていました。だからニクソンは71年に電撃的な訪中をしましたが、台湾とは断交をしませんでした。ところがハワイの会談で明確な合意がなかったにもかかわらず、田中はすぐに訪中すると同時に台湾と断交しました。これは安保条約に大きな矛盾(アメリカが台湾を守っても守らなくても大問題になる)を抱えさせる行為で、アメリカから見たら“背信”に等しい行為でした。キッシンジャーは内輪では露骨に田中のことを「嘘つき」呼ばわりします。キッシンジャーはもともと日本嫌い(で中国好き)でしたが、大平外相以外の日本の政治家は嫌いで、特に田中のことは大嫌いだったようです。
当時アメリカが抱える貿易赤字の半分は「対日」で占められていました。それを是正するために田中とニクソンが合意した中に「大型機を含む民間航空機の購入」が含まれていました。はじめはDC-10が有利とみられましたが、なぜかボーイング747SRとロッキードL1011が購入されることになりました。
72年6月「ウォーターゲートビル」の民主党本部に侵入して盗聴器を仕掛けようとした5人が逮捕。しかし大した話題にはならず11月にニクソンは楽々再選。しかし73年3月になって「事件の真相が政治圧力でもみ消されようとしているのではないか」という疑惑が浮上、ことは「ウォーターゲート事件」になります。犯人が持っていた現金の流れも問題となって捜査が厳しくなり、アメリカ証券取引委員会(SEC)は74年3月に「違法な政治献金で有罪となった上場企業はその旨を公表しなければならない」と決定します(アメリカでは企業の政治献金は禁止されています)。74年5月、司法省のウォーターゲート事件特捜班はノースロップ社を「ニクソンの再選委員会に15万ドルを寄付した」と訴追。ノースロップ社はさっさと罰金5000ドルを支払いますが、ここでSECの決定に従うために、現金の流れに関して社内で徹底的な調査をする必要が生じました。そこでサウジアラビア王族への不明朗な支出がわかりますが、その代理人カショギにロッキードも金を払っている事実が浮上します(この「カショギ」はのちに「パナマ文書」にも登場するそうです)。上院のチャーチ委員会では、外交上のトラブルを心配する政府をよそに、ロッキード社を厳しく追及します。そしてついに「嘱託尋問」「田中逮捕」へ。
本書には、当時の自民党の幹事長中曽根から米大使館を通じてホワイトハウスに送られた公電の写しがあります。私の目を引くのは「HUSH UP(MOMIKESU)」の部分。わざわざ「MOMIKESU」と“ふりがな”を打ってありますが、そこに“本音”が出ていますね。この公電は「フォード大統領図書館」に保管されていて、2008年に秘密指定を解除されたものです。
日本で「ロッキード事件」が火を噴いたのは76年2月5日。「日本の政治家に現金」と大々的に報じられましたが、個人の名前で出たのは「児玉」「小佐野」、組織としては「丸紅」だけで、政治家や公務員の名前は伏せられていました。三木政権はアメリカに「真相のすみやかな解明と公表」を求めますが、アメリカはその裏のメッセージ「できるだけ穏便に」を受け取っていました。
アメリカ政府は日本政府が二枚舌を使っている可能性を探ります。しかしアメリカ政府は、ベトナム戦争やウォーターゲート事件での「二枚舌」が暴露されたことによる痛手のことを覚えていました。暴露されるのだったら、二枚舌は使わない方がまだ痛手が少なくてすむ、と。
三木の政権基盤は脆弱でしたが、そのライバルである福田と大平がお互いに牽制したため、三木政権は安定してしまいました。ただし常に「三木おろし」の暴風は吹き荒れており、三木もアメリカ政府もそれは意識していました。田中・福田・大平派は、牽制ではなくて協力を模索し始め、ゆえに三木は「ロッキード事件」という「剣」を政敵の頭上に見舞うことで自分の政権の延命を画策します(三木政権は「クリーン」がウリだったと私は記憶していますが、本書に登場する公電はそれとは違う姿を見せています)。実はフォード政権も、「清潔」を売りにしていましたが次の大統領選挙で苦戦必至と見なされていました。「田中・ニクソン」と「三木・フォード」は、実は似たもの同士だったのかもしれません。そして76年末、フォードはジミー・カーターに破れ、三木政権の自民党は衆院総選挙で過半数割れの敗北を喫します。
「CIAが戦後日本の保守政党に資金を提供していた」疑惑も大問題でした。三木はアメリカ政府に口裏合わせを依頼し、当時はうやむやにすることに成功します。のちにアメリカ側の公文書公開で色々わかってしまうのですが、自民党がアメリカにはとにかく“無抵抗”なのには、理由があったんですね。アメリカの対日赤字を減らすための一策として、アメリカ製兵器の大量導入も進められました。税金で貿易黒字を減らすわけですが、そこではものすごく露骨な工作が行われています。
「田中角栄はアメリカの“虎の尾”を踏んだから、失脚させられた」という仮説が日本では根強いそうです。しかし著者が公文書から見つけたのは、「虎の尾」の状況証拠に過ぎないものだけでした。むしろ田中は「個人」として嫌われているだけで、アメリカが「政治」として危険視したのは、右翼の親玉である児玉へのアメリカからの金の流れだったようです。ただ、著者は「虎の尾が真実かどうかはさておき、それが真実であると多くの日本人が信じていること、これによって日本の対米政策に大きな影響が出た恐れがある」と述べています。それはあるでしょうね。
本書は、日本人が書いた日本語の本ですが、巻末の参考文献の所には主に英語の文献がずらずらと並んでいます。やっと日本でもこんな本が一般向けに出版されるようになったのは、良いことだ、と私は感じています。できたら日本でも「きちんと記録を保管する」「それを決まった期限のあときちんと公開する」態度を見習ってもらいたいものです。隠したりなくしたりすることにだけ熱心になるのではなく。
政党助成金があるのだから、政治資金規正法というザル法なんか廃してしまって、政治資金禁止法にしてしまえばいいのに、と私は思います。で、政党助成金の割り振りは、国民投票で決めれば良いんじゃないです? 国民投票の得票率に比例して助成金がもらえるようにしたら、選挙制度のゆがみのために得票数に比べて議席数で不利な扱いになる政党の場合、議席数が減った分かえって資金的には有利になって、次の選挙では面白いことが起きるかもしれません。
【ただいま読書中】『科学報道の真相 ──ジャーナリズムとマスメディア共同体』瀬川至朗 著、 ちくま新書1231、2017年、880円(税別)
本書で取り上げられるのは「STAP細胞」「フクシマ」「地球温暖化」です。「フクシマ」と「地球温暖化」では一般人のマスコミに対する不信感が強く、「STAP細胞」ではマスコミの表層的な狂騒と手のひら返しが極めて印象的でした。元科学記者の著者はそれに強い危機感を抱いています。
「STAP細胞」はまだ記憶に新しいですね。著者は4つの問題点を指摘し、それぞれについて検証をします。そこで「比較」として使われるのが「iPS細胞の臨床応用報道(心臓にiPS細胞を使って成功した、という“誤報”)」です。ガセネタを掴まされた讀賣新聞は、ガセであることがわかると2週間後にきちんと検証報道を行いました。しかしSTAP細胞では、メディアは検証報道はしませんでした。「自分たちは被害者だ」と言わんばかりに。
STAP細胞の論文を掲載したネイチャー誌の問題もあります。査読者はSTAP細胞について疑念を呈していましたが、ネイチャー誌はそれでもSTAP細胞の論文を掲載し、それでメディアの狂騒が始まりました。しかしネイチャー誌は「検証」を掲載せず、メディアもネイチャー誌のその態度を追及することはありませんでした。
「フクシマ」で、メディアの報道は「大本営発表報道」と揶揄されました。政府や東電が断片的に流す情報をそのまま報道するだけの態度が目立ったからです。ただ、きちんとした報道もあった、という評価もあるそうです。対してSNSの方は……すごかったですね。
「大本営発表報道」かどうかを検証するため著者は以下の二つの仮説を立てます。1)官邸と保安院と東京電力は、原子炉の炉心溶融問題について自らに都合の良い情報を発表した。2)報道機関は記者会見で得た炉心溶融に関する情報をそのまま報道した。この2つの仮説が満足されたら「フクシマ」で行われたのは「大本営発表報道」だと言える、と。で、詳しい検証の結果、「大本営発表報道だった」ようです。
「地球温暖化」はあまりにスケールが大きすぎて、一般報道(特に「動きのある画」が欲しいテレビ)では扱いづらいテーマです。さらに、マス・メディア自体が内蔵する構造的な歪み(時間の制約、センセーショナリズム、バランス報道、イベント指向、専門知識不足、新奇性や異常性を求める傾向、など)が報道内容に悪い影響を与えます。
記者は取材対象者に密着します。すると「ミイラ取りがミイラになる」というか、「共同体」ができてしまうことがあります。すると、重要なネタを取れても対象者のことを考えて記事にしない、なんてことが起きます。実はそれは、日本だけではなくてアメリカでも同じ現象が起きているそうです。「誰のために仕事をしているのか」の基本を忘れてしまって、自分がしていることの言い訳が上手くなったら、その人はもう「真のプロ」ではないのでしょう。
科学の世界に「反証可能性」を持ち込んだのはカール・ポパーですが、科学報道の世界に必要なのは「検証可能性」というか「検証の必要性」でしょう。それをしない「科学報道」は、ただの主観的な読み物でしかありませんから。
LGBTの人は、日本では「左利きの人の数」と同じくらい存在しているそうです。だけどそれを本人は必死に秘密にするから、私はそれを知らずにのうのうと生きているわけです。私は、左利きの人にはしょっちゅうお目にかかりますが(職場にも何人もいます)、LGBTの人と直接口をきいたのは、これまでの人生でほんの数人にすぎません。つまり私は「LGBTの存在に無知」なのです。
【ただいま読書中】『女どうしで子どもを産むことにしました』東小雪・増原裕子 著、 すぎやまえみこ 漫画、カドカワ、2016年、1000円(税別)
「ディズニーランドで結婚式を挙げたレズのカップルがいた」というのは、何かで聞いたことがありましたが、そのカップルのその後のお話(コミックエッセイ)です。
結婚して3年目、渋谷区のパートナーシップ証明をとり、会社も立ち上げ、理解者が増え、地域にも馴染み、幸せに過ごしていた二人ですが、「子供がいる家庭」が欲しくなります。
私は一瞬不思議な気分に包まれます。これが男女のカップルで結婚して3年だと「子供はまだ?」攻撃が始まる時期かもしれませんが、レズのカップルだったらそもそもその“攻撃”はありません(別の“攻撃”はたっぷりあったでしょうが)。それなのに子供が欲しくなる、というのはどんな心理状態なんだろう、もしかして「カップル」というのは「子供」が参加して安定する構造なのかな、なんてことも私は思ったのです。
二人は悩みます。「ふつうじゃないカップル」が子供を持ちたいと思うのは、単に自分たちの「エゴ」に過ぎないのではないか、子供が「ふつうじゃない」といじめられるのではないか、子供が不幸になるのではないか、と。
ここでまた私は不思議な気分になります。「親になってはならない」という「欠格条項」があるとして、そこに「同性カップル」はあるのだろうか?と。私の感覚では「児童虐待をする人間」は「親としての欠格条項」に当てはまります。そんな人間は親になってもらっては困る。ただ、教育と訓練を受けてからだったらOKでしょうから「絶対的な欠格」ではなくて「相対的な欠格」です。それを上回る「ひどい人間」(「絶対的な欠格」に相当する人)って、どんな人でしょう? 「同性カップル」はそんなに「ひどい人」です?
二人はいっぱい話し合い、そしてシリンジ法(ドナーの精液を注射器で体内に注入する方法)を選択します。問題はドナー。誰でも良い、というわけにはいきません。話を持ちかけられたゲイの友人は、それがきっかけで親にカミングアウトをし、さらに自分のカップルの彼とたくさんたくさん話し合うことになってしまいます。
ところで、二人の妊活を批判する人からの意見に「子供も同性愛者になってしまう」というのがあったのですが、ではこの二人が「異性愛者のカップルから産まれた同性愛者であること」をこの批判者はどう説明するんでしょうねえ? 私から見たら「福島から避難した人をバイキン(触ったら自分も汚染されるもの)呼ばわりすること」と同レベルの発言に見えるのですが。
同じく批判者からの「子供が可哀想」も、アメリカでは「意味不明」と言われてしまうところが私には興味深かった。アメリカ社会ではステップファミリーが当然だから「ふつうではないカップル」がすでに「ふつう」になっているからかもしれません。ただ日本でも、子供は自動的に不幸にはなりません。不幸にする人がいるから不幸になります。で、親が子供を守ろうとしても子供が不幸になるとしたら、それは周囲に「自分の気に入らないカップルの子供を不幸にしたい」という悪意と偏見を持った人間がいるからかもしれません。
少数派の視点からは、自分の“常識”のふだん見過ごしている部分が照射されて、なかなか痛快な気分になれました。本書に感謝。
私は店で売っているサンドイッチではフルーツサンドが一番好きです(なんて書いたら、お子様かな?)。ところがパン屋でもコンビニでも、フルーツサンドは高いし売り切れが多い。残念なことです。ところが、近所のあるスーパーで、早朝や夕方以降はさすがにありませんが、日中はフルーツサンドが列を成して売り場にあるところを発見できました。しかもコンビニの半値以下。これは嬉しい発見でした。
でも「いつでも買える」と思うと、安心して買いに行く頻度が減ったりして……
【ただいま読書中】『少年/少女 SFマンガ傑作大全集 オール描き下ろしショート・ショート一挙収録』東京三世社、1980年、520円
「SF」「4ページ以下」というシバリをかけた「SFショート・ショートマンガ」ばかり集めた雑誌です。いやもう、よくこんなものを企画した、と私は驚きます。1980年と言えばSFはたしかに“元気”で、老舗の「SFマガジン」だけではなくて、79年から「SFアドベンチャー」や「SF宝石」が月刊や隔月で出版されるようになっていましたっけ。(「奇想天外」は74年からですが、残念ながらこちらはまったくの未読です)
目次を見ると、今でも活動している人、懐かしい人、全然知らない人、と様々な漫画家が本当に様々なアイデアで「ショート・ショート」を描き上げています。いやあ、楽しいなあ。今同じ企画で雑誌を作るとしたら、どんな漫画家が集まるでしょう? ……だけど、売れるかな?
日本では毎年3万人自殺をする、がニュースになったのは何年前だったでしょう。
一人自殺をしたら生じる悲劇は一つではありません。家族や親しい人の数だけ「悲劇」が生じます。すると、21世紀になってからだけに限定しても、日本では、何十万あるいは何百万の悲劇が生じたのでしょう?
【ただいま読書中】『その島のひとたちは、ひとの話をきかない ──精神科医、「自殺希少地域」を行く』森川すいめい、青土社、2016年、1400円(税別)
日本の中で自殺が特異的に少ない地域があります。著者は精神科医としてそういった場所のいくつかを訪ね、「その地域の特異性」を知ろうとしました。
参考になるキーワードは「オープンダイアローグ」。人は呼吸をするように対話をする。しかし、上手に対話ができなくなったら、人は病んでしまう。つまり、「病んだ環境」に住む人は、健全な対話ができなくなり「環境との関係性」が原因で病んでしまう可能性があります。
著者が気づいたのは、自殺希少地域に住む人が「対話」に慣れていることでした。何でもオープンに喋ります。初対面の著者に対して、自分が精神病であることも平気で話します。地域の人もそれを全部知っています。面白いのは、その対話の結果起きるのは「話を聞いた人が『相手を変えよう』とするのではなくて、自分が思うままに勝手に動く」こと。「変えることができるのは、相手ではなくて自分」というポリシーなのでしょうか、つまり「熱心に対話をする」が「相手の話はきかない」のです。著者はこれを「相手を変えようとしない力」と表現します。
ここで重要になるのは「地域共同体の“ポリシー”」です。その地域が何を目指しているのか、その共通目標によって人々の動きは変わっていきます。特に重視されるのが自然環境。自然環境が過酷な場合、「どのように生活するか」はそれぞれの環境ごとに異なります。それと同様に「共有される地域の目標」ごとに、人々の生活態度は異なっているのです。
最近の日本では「NPO」が流行していますが、もしかしたら、「地域共同体」も「NPO」の一種なのかもしれない、と本書を読んでいて私は感じました。
自殺希少地域でも自殺する人はいるし、そこで生きづらい人もいます。ただ、そういった人も、別の地域だったら生きやすいかもしれない。つまり、日本の各地がそれぞれ別々の独自のスタイルの「人の話をきかない」地域で構成されるようになったら(そして人が好きに行き来できるのなら)、日本の自殺者は大幅に減る可能性があるでしょう。
将棋名人戦の第1局が先日ありました。昨年はニコ動で観戦していたら、私は無料客なので有料客が増えたら押し出されてしまって見られなくなったりしたのですが、今年はabemaTVでずっと無料観戦できる、というので大喜び。ところが観戦者が2000人くらいでずいぶん少ないのです。不思議に思って検索をしたら、ニコニコ動画が「完全無料」と宣伝しているではありませんか。何にしても、名人戦を生で観戦できるというのは、よい時代になったものだと拝みたくなります。ところで誰を拝めばよいのでしょう?
【ただいま読書中】『空から降ってきた男 ──アフリカ「奴隷社会」の悲劇』小倉孝保 著、 新潮社、2016年、1500円(税別)
2012年9月9日、ロンドン・パラリンピックの開幕の日、ヒースロー空港に近いモートレイクで、一人の黒人男性が墜落死をしました。スコットランド・ヤードは「ヒースロー空港行きの飛行機に乗り込んだ密航者が墜落死した」と発表しましたが、「アンゴラから乗り込んだ」ということ以外、身元や動機は不明でした。
毎日新聞の特派員としてロンドンにいた著者は、テレビニュースで「1947年以来、旅客機の主脚格納部に潜んで密入国を試みた人はFAA(米連邦航空局)が把握しているだけで96人(うち73人が死亡)」と報じているのを見ました。100人近く?
テロ対策で会社や当局は渋りましたが、著者はなんとか旅客機の主脚格納部を見ることができます。著者の体力ではよじ登れない高さに格納部はありました。身を潜めることができる空間はちょうど柩程度。著者は想像します。エンジンのすさまじい轟音とマイナス50度以下の寒気、そして高度1万メートルの希薄な大気を。
墜落死した男性は、モザンビーク出身のジョゼ・マタダ。彼はケープタウンで大金持ちの家に雇われますが、そこの若奥様がジェシカ・ハント(スイス生まれ。カメルーン生まれの大金持ちホセイントと結婚してイスラムに改宗)でした。「アフリカ型の部族社会、それをそのまま持ち込んだ大家族の家庭生活」にジェシカは疲れを覚えていました。さらにジェシカを疲れさせたのは、自分が育った西欧の人権感覚に真っ向からぶつかってくるアフリカに残る「奴隷制度」(金持ちのアフリカ人が貧乏なアフリカ人を酷使する)でした。ジョゼ・マタダは奴隷のように扱き使われますが、ジェシカはジョゼの内部の知性のきらめきに注目します。しかしそれは「奴隷制度」の中では「異様な態度」でした。嫉妬深い夫はジェシカとジョゼとの性的関係を疑い、その脅迫に耐えかねて二人は家を出ることになってしまいます。二人で生きる道はアフリカにはなく、3箇月の逃亡生活でジェシカの体重は58kgから35kgに減り、とうとうジェシカは単独でヨーロッパに戻ることにします。ヨーロッパは「法律と人権」の世界でした。対してアフリカは「部族と奴隷と賄賂」の世界。そういった「ヨーロッパ」に対してジョゼは憧れの念を強めていったはずですが、彼がパスポートやビザを取ろうとするとその前に立ちはだかるのが「アフリカ」でした。
ただ、私が皮肉に感じるのは、ジェシカが夫と離婚できたのは、ヨーロッパの法体系ではなくてえ、イスラム法が機能したからだったことです。ヨーロッパではせいぜい「ストーカーに対する接近禁止命令」が出せる程度ですが、モスクのイマーム(説教師)は「妻を保護する義務を放棄した夫」に対しては「イスラムの教えに反する」と即座に「離婚するべき」と判断してくれたのです。
やっと事態は一歩進展しましたが、ジョゼを救い出すためにジェシカに精力的に協力してくれていたガンビアからの移民ジャワラとジェシカの間に恋愛感情が育っていました。二人は結婚します。しかし、ジョゼは「マダム」に恋愛感情をずっと持っていたはず、と著者は推測をします。そして、どんな手段を採ってでもアフリカから脱出してヨーロッパを目指そうと決心したのではないか、と。
ジェシカやジョゼとは逆に、著者はヨーロッパからモザンビークを目指します。そこで「ジョゼがぶつかり続けた“壁”」(賄賂社会)を著者も身をもって味わうことになります。「日本人」「優秀なガイド」「情報省の公式の取材許可」という「ガード」があってさえ、それは著者にとんでもない疲労感を与えるものでした。まして、そういった「ガード」が一切無いジョゼがどんな思いをしていたのか、と著者は想像します。
「グローバル化する世界」のはずですが、そこではむき出しの「ローカル」同士がぶつかり合っているのでしょう。平和ボケして真の意味でのグローバル化は遅れきっている日本にいたのではわかりませんが。
ユダヤ人が金に“きたない”のは「自国の通貨をもったことがないから」,という指摘は『日本人とユダヤ人』にありました。彼らが持ったのは常に『他国の貨幣』。だから金に対する愛着はなく、純然たる経済行為としてそれらの貨幣を扱う」というのです。たしかに愛着があれば、行動にはもう少し変化が生じるはずです。
日本で“ユダヤ人と金”に近いのは「株主」かもしれません。多くの株主は「投資」として株を所有しているから、その会社に対して「我が社」という意識を持たず、「純然たる経済行為」としてその「株」を扱います。だから日本では会社の方でも株主を「我が社のオーナー」としては扱いません。
この辺の意識を変えたら、日本の持続可能な「デフレ脱却(株価の上昇)」の第一歩が踏み出せるのではないか、なんてことを私は夢想します。
【ただいま読書中】『日本人とユダヤ人』山本七平 著、 角川書店、2004年(12年11刷)、724円(税別)
1970年に「イザヤ・ベンダサン」名義で発表された本(山本書店発行)の新書版です。私が最初にこの本を読んだ1970年ころ、私が持っている「ユダヤ人に関する知識」は「ヴェニスの商人のシャイロック」「アンネの日記」「中東戦争の新聞記事」ですべてでした。たしか旧約聖書でさえまだこの時には未読のはず。
それからずいぶん経って「イザヤ・ベンダサンは実は日本人だった」と唱える人が出てきましたが、それに対して「『ユダヤ人』とは、人種ではなくてまずは『ユダヤ教の信者』のことだぞ」と私が言えるようになったのは実は最近になってからのことです。
どうやら本書を再読する「準備」が私にはできたようです。ずいぶん時間がかかりましたが。
まず登場するのは「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思い込んでいる」。このフレーズは印象的で、今でも覚えています。世界は過酷で、日本人は平和ボケなのか、なんてことも当時は思いましたが、今は「これって日本が世界に誇るべき態度ではないか」なんてことを思っています。できたら「普通の国」にならずにこれからも平和が享受できる国であって欲しいし、できたら世界中で「安全は無料」になって欲しいものです。
著者は「世界に珍たる日本の政治制度(二権分立=「天皇(宗教的な権力)」と「幕府(世俗的な権力)」の平和共存)」を絶賛します。これこそユダヤが理想とし、そして実現できなかった政治制度だ、と。
「満場一致の決定は無効」は、昔読んだときにもショックでしたが、今でもやはりその衝撃は変わりません。「人は不完全」という大前提がユダヤにはあるから、「満場一致」は「偏見」「興奮」「外からの圧力」による、と言うのです。対して日本では「満場一致」は「その決定の正しさの証拠」とされますが、その後に「決議は100%は人を拘束しない」という原則が機能して、ユダヤとは別の形で「決議の補完」をします。ユダヤでは「決まりは厳密に守る」ものなのですが。
そして「日本教」が登場します。“ご神体”は「人間」。「人間性」「人間らしい」「人間的」などが重要なキーワードです。ただし重要な定義はすべて「言外」で行われているため、日本教について外国人にわかるように解説するのは非常に難しい作業になります。だから「日本人は無宗教」なんてことも言われるようになるのですが。もっとも「日本教」について理解が難しいのは日本人も同様かもしれません。私たちが回りの空気をふだん意識せず、(おそらく)魚が回りの水を意識していないように、日本人は「日本教」をふだんそこにあって当然のもの、と思っているはずですから。もっとも最近は「日本教を生きていない日本人」も増えているような気もします。
この「日本教」には、殉教者もいます。著者が代表例として挙げているのは、西郷隆盛と赤穂浪士。ああなるほど、と私は呟きます。彼らは「殉教者」だったんだ。
本書は「ユダヤ人を“鏡”として用いたユニークな日本人論」ですが、ここで指摘された「日本人の特徴」は現在でもまだ通用するものが多いことに驚きます。つまり、日本文化の本質を著者はしっかり抽出していると言えるのです。ただ、最近の日本社会ではその「日本人らしさ」が、グローバル化のためか“劣化”してきているよう見えることがちょっと気にはなりますが。たぶん「ユダヤ人」はまだ「ユダヤ人のまま」のはずなんですけどね。
戦前の価値体系を絶賛する人がいます。もちろん言論や思想の自由がありますし趣味嗜好は自由自在ですから何を好もうと自由なんですが、私が不思議なのは、女性の政治家でもそういったことを公言する人がいること。
もしああいった価値体系に人々が従うべきだと主張するのだったら、まずご自身からそれを実践してみて欲しいな、と私は思います。戦前の価値体系に「男>女」があることはご存じですよね? 戦前の民法では「戸主は男」「女には財産の処分権はない」がキマリでした(例外的に「一家に男が一人もいない」場合には「女戸主」も認められましたが、誰か男が(養子などで)入ってきたら、基本的に戸主の座はその男に渡されなければなりません)。被選挙権も選挙権も女にはありません。
ということで、“そういった女性政治家”は「女は家に引っ込んでいろ」「女は良妻賢母以外には価値無し」「政治に女は口を出すな」を自主的に“実践”してください。他人に強制する前にね。(誤解の余地はないと思うけれど、私はこういった要求は「戦前のモラルに従うべきだ」と主張する女性に対してだけ、おこなっています。「自分は正しい」のだったら、まず「自分」がその「正しさ」を味わうべきだ、が私の主張です)
【ただいま読書中】『世界の小さな終末』モルデカイ・ロシュワルト 著、 志摩隆 訳、 早川書房、1964年、360円
小さくても大きくても「世界の終末」は困ったものだ、とタイトルに一回だけツッコミを入れてから私は本を開きます。
冷戦まっただ中の北極海。氷の下に「ポラー・ライオン号」というポラリス原子力潜水艦が潜んでいました。目的は「報復」。もしソ連がアメリカに核攻撃をしてきたら、搭載している16基の潜水艦発射式の核ミサイルをソ連本土にお見舞いするのです。
ジェラルド・ブラウン少佐は、人生で常に「2番目」でした。家では次男。クラスでは副委員長。女の子から見たら「2番目のボーイフレンド」。そして海軍でも「副艦長」。やっと艦長に昇進する絶好の機会がやって来ましたが、艦隊司令部はジェラルドよりも後輩の少佐に艦長の座を与えてしまいます。ジェラルドは欲求不満の炎に苦しめられます。しかし海軍や国に対する忠誠心を揺るがせるわけにはいきません。そのためか、ジェラルドの内心で欲求不満は奇妙な変質を始めます。
事件勃発。“事故”でジェラルドは艦長を殺してしまいます。自動的に副館長(つまりジェラルド)が艦長代理に昇進。素直に軍法会議にかけられる気が無いジェラルドは、自分が「力」を持っていることに気づきます。世界のどこでも「核ミサイルをお見舞いするぞ」と脅かすことができる「力」です。そこでジェラルドが選択したのが「海賊になる」でした。
ここで私が思い出したのが「ノーラの箱船」(御厨さと美)という漫画です。こちらは原子力空母が搭載している核ミサイルや航空戦力を“武器”に世界を脅迫していましたっけ。ただしこちらは「海賊」ではありませんでしたが。
「原潜」を「海賊船」にするのは、ジェラルドには非常に魅力的なアイデアに思えました。それぞれに“弱点”を抱えた部下の4人の大尉たちも仲間になります。では他の乗組員は? 金と女と酒で、9割の乗組員はジェラルドに従うことになります。
海軍や大統領は不祥事を隠蔽しようとします。しかしジェラルドは公開しようとします。いやもう、このへんの駆け引きは抱腹絶倒。間にはさまったロスアンジェルス市長は、ハリウッドスターを7人ライオン号に差し出す役回りを押しつけられてしまいます。
ここで大笑いなのは「核報復の論理」が、そのままライオン号によって使用されていることです。もしもアメリカ軍がライオン号を攻撃したら(あるいは攻撃をするそぶりをしたら)、ライオン号は即座に核ミサイルを発射します。先制攻撃はしません。そんなことをしたら、せっかくの「海賊の豊かな生活」がおじゃんですから。つまり、核保有国が主張している「核による戰争抑止の理論」がそのまま「海賊」によって主張されているわけで、それに反論するのは(少なくとも「核による戦争抑止」を唱えている人には)困難です。自分に反論しなくちゃいけませんから。このへんの風刺は絶妙です。
「プラフではないぞ」ということを証明するために、ついにミサイルが発射されます。予告を受けていた住民が疎開していたため空っぽになっていたサンタ・アンジェリカは完全に破壊。そして海賊船はアメリカを離れて世界を航海しはじめます。アメリカでは新たな「海賊船」を予防するために、「忠誠心」を「宗教的な厳格さ」に求め、狂信的な軍人を核ミサイルを扱う部署に集めますが、するとこんどは「神のために聖戦を戦う」空軍戦略ミサイル大隊(核十字軍)が出現してしまいます。要求は「禁酒」「テレビの好色番組の禁止」「ナイトクラブやキャバレーの閉鎖」で、それをアメリカ政府が行わないと、ニューヨーク・ハリウッド、さらにはシカゴやデトロイトにミサイルを降らせる、というのです。教会は「その目的には賛成だが、核ミサイルで脅迫することには反対」と声明を出しますが、核十字軍は連邦政府を脅迫して教会を黙らせます。さらに、アメリカだけではなくて全世界に自分たちのモラルを押しつけ始めます。おかげでライオン号の影は薄くなり、ジェラルドは焦り、大統領の娘を自分の妻として寄こせ、と要求。すると核十字軍は、ソ連を脅迫。ソ連は問題の空軍基地をミサイル攻撃するとアメリカ政府に通告。アメリカ政府はそれを拒絶。
そして「世界の小さな終末」が訪れます。
風刺小説の形を取っていますが、読んでいて恐くなる政治小説でもあります。一番恐ろしいのは、この小説の本質が、発表から半世紀以上経った21世紀になっても全然古びていないこと。人類は「核を用いる論理」に関しては全然進歩していないようです。