誰かの心に訴えようとするとき、私たちは「感情」「信念」「論理」などを使います。ところで「強い感情」を使った場合、別の人が「もっと強い感情」を使ったら自分の訴えが無効化される恐れがあります。「信念」の場合も「別の信念」をぶつけられたら、やはり無効化(あるいは状況が膠着)になってしまう恐れがあります。では「論理」だったら大丈夫? 真は偽に勝つはずです。ところが「論理が通じない人」には「論理」は通じません。特に最近の政治の世界ではこの手の人間がずいぶん増えているように見えます。これ、野蛮時代に戻ろうとしているようで、そのことに私は危惧を抱いています。
【ただいま読書中】『100年企業、だけど最先端、しかも世界一』泉谷渉 著、 亜紀書房、2007年、1600円(税別)
「100年以上存在している企業」が日本には10万社もあるそうです。そこに注目した本はいくつも出ていますが、本書は「100年以上」「世界最先端技術で勝負している」「世界でトップシェア」の3つを揃えた企業を紹介しています。「単に古いだけじゃないぞ」ということでしょう。
ただ、前書きで「100年以上操業している」あるいは「100年以上前に創業している」を「100年以上創業している」と書かれると、この本、大丈夫か?(100年くらい保つのか?)なんで心配も感じてしまいます。
各章は「繊維」「印刷」「ガラスと鉄」「ものづくり」「オールドエコノミー」「アルコール」「金属・鉱山」「石炭」とまとめられ、それぞれ数社ずつが紹介されています。
「繊維」でまず登場するのは福井の「セーレン」。繊維が斜陽となりオイルショックや円高不況で潰れかけたときに、一発逆転の巨額設備投資をしたのが大成功、結局カネボウの繊維部門を買収してしまいました。これによって、企画・製糸・加工・小売りまですべてを総合的に手がけるようになり、たとえば「オーダーメイドの水着」を注文から2週間以内に届ける「ビスコ水着」なんてものが可能になっています。かと思うと、電磁波シールド材用のポリエステル糸(銅とニッケルの複合材)では世界トップシェア。
そのほかにも、旭硝子、薩摩酒造、東芝、など馴染みのある名前の企業が意外な歴史や業績を持っていることが次々紹介されます。ただ、前書きで感じた嫌な予感はずっと本書を通じて響き続けていました。ビジネス書だからかもしれませんが、文体がどうにも私の好みと不協和音を奏で続けるのです。もうちょっと格調高く、とは言いませんが、せめて俗語表現をもう少し減らしてもらえたら、読みやすかったんですけどね。
積水ハウスが土地所有者になりすました地面師一味の詐欺に引っかかって55億円の損害、だそうです。プロでさえ騙されるのだったら、私のような素人は簡単に騙されるだろうな、とちょっと恐くなりました。まあ、これから土地を買う予定はないのですが。
ところで、積水ハウスの前に話を持ちかけられた業者は「この人は所有者本人ではない」と見破っていたそうですが、そこでなぜ警察に「詐欺未遂の話があった」と報告しなかったんでしょうねえ。
【ただいま読書中】『戦地の図書館 ──海を越えた一億四千万冊』モリー・グプティル・マニング 著、 松尾恭子 訳、 東京創元社、2016年、2500円(税別)
ナチスドイツは1933年に政府公認の焚書を開始、戦争中に1億冊の本を焼いたと言われています。アメリカは「兵隊文庫」を創設。兵士の士気を維持するために、1億冊以上のペーパーバックを発行し無料で配布しました。戦後にアメリカでは一般大衆がペーパーバックを読むようになりましたが、兵隊文庫がその一助になったのかもしれません。1933年にゲッペルスは焚書の灰を前にして「新しい精神が不死鳥のごとく生まれるだろう」と演説しました。彼は「不死鳥」として「ドイツ民族主義」「ナチズム」を想定していましたが、実際には民主主義と自由を希求する精神が甦りました。「ペンは剣より強し」だったのです。
ローズヴェルト大統領は戦争に備えて徴兵制を敷きました。しかし準備はあまりに不足していて、基地には「何もない」状態で、兵隊の志気は下がりっぱなし。そこで軍は娯楽を提供することにしましたが、多くの兵士が強く望む「プライバシー」に近くてしかも安価なものが「書籍」でした。
アメリカで、前線の兵士に書籍を送る活動が最初におこなわれたのは、南北戦争の時です。有志からなるいくつかの組織や宗教団体が、古本や自ら作った本を送りました。第一次世界大戦ではこの活動はさらに組織化され、兵士は「本」を高く評価しました。戦後に陸軍省はすべての訓練基地に図書館を設置しましたが、平和な時代にその意味は忘れられ、陸軍図書館は形だけのものになっていました。しかし、図書館学の学位と書籍販売の経験を持つトラウトマン中佐が合衆国陸軍図書館局長に任じられて、事態は変わります。本と予算の不足に悩むトラウトマンに、全米の図書館員が協力を申し出て、一般からの本の寄付運動が展開されました。
「総力戦」とは「武器の戦い」+「文明・文化の戦い」と言えますが、枢軸側は少なくとも「文明・文化の戦い」では、最初から劣勢だったようです。
寄付される本が続々集まり始めたとき「真珠湾」。攻撃してきたのは日本なのに、自分は何で大西洋を渡っているのだろう、と首を傾げる兵士のために、図書館員たちは本だけではなくて「戦う理由」も兵士に伝えようとします。「国家防衛図書運動」は「戦勝図書運動」に名前を改め、2週間で42万冊以上の本を集めました。
「呪われた歩兵」と自称する彼らの心の支えは、故郷からの手紙と、本でした。第一次世界大戦での観察で、本には兵士のノイローゼを予防する効果や野戦病院での回復を助ける効果が認められていました。だから戦場からは「もっと本を」という声が本国に寄せられます。900万冊の本が集まったとき、戦勝図書運動員は大学の卒業式で本を山積みしてもらおうと考えます。ドイツの焚書が大学図書館で始まったことに対する“アンチテーゼ"です。軍の規模はさらに大きくなり、本はさらに求められるようになります。
41年から陸海軍は雑誌をまとめて購入して兵士に供給していましたが、体制がでたらめで兵士には不評でした(同じものが数百冊まとめて届いたり、ばらばらに届くから連載ものがきちんと読めなかったり)。43年には各誌が入った「セット」が届けられるようになりますが、軍用雑誌は小型で軽量(新聞用紙が用いられました)、人気がどんどん高まります。ならば、本も小型軽量化できないでしょうか。そこで軍は43年から「戦時図書審議会」が出版するペーパーバックをまとめて購入して戦地に送ることにしました。寄付される本は内容も大きさもバラバラで扱いが難しかったことがその理由でしょう。戦時図書審議会はプロパガンダのためのラジオドラマを制作し、米国民なら読むべき「必須図書」の選定も行います。同時に、兵士のために新しい規格の「兵隊文庫」を作り出しました。政府からの紙の割り当て量が減ったことと、軍服のポケットのサイズから、ペーパーバックのサイズが決定されました。製造原価は1冊7セント。のちに大量生産が進むと5.9セントになります。
兵隊文庫に採用された作品が、本国でヒットする場合もありました。たとえば『グレート・ギャツビー』は著者の存命中は失敗作と見なされていましたが、兵隊文庫に採用されると兵士たちに絶賛され、それが本国に“輸入"されてベストセラーになりました。
兵士たちは、貪るように本を読みました。人気がある本を、すぐに次の人に渡さなければならないからと徹夜で読むものもいました。輸送船での退屈な日々は当然本で埋められます。そして、Dデイ。オマハ・ビーチへの第一波上陸部隊はほとんど全滅。そこにやって来た第二波の兵隊は、重症を負って進めなくなった隊員たちが崖のすそに体をもたせかけて本を読んでいる姿を目撃しました。
兵隊文庫でおそらく一番人気は『ブルックリン横町』(ベティー・スミス)でしょう。兵士たちは感謝の手紙をベティー・スミスに書きますが、彼女はそれに律儀に返事をしました(1年でおよそ1500通)。そのやり取りは、心温まるものです。兵士にとって『ブルックリン横町』(とその著者からの手紙)は、失われていく自分の人間性を取り戻すための“武器"だったのかもしれません。
「こんな本を読みたい」というリクエストも戦時図書審議会に多数送られました。実にバラエティー豊かなリストとなっていて、極限状態で人が「本」に何を求めるのか・本が人に何を与えることができるのか、が少しだけ透けて見える気がします。
なんだか本を褒めすぎじゃないか、と読んでいて思いましたが、ある陸軍軍医が「マルヌ会戦以降、軍の能力の向上に最も役立ったのはペニシリンであり、その次に役立ったのが兵隊文庫である」と言ったことを知ると、やはり「本」は「武器」でもあったのだ、と思えました。
戦時図書審議会は「検閲」と戦っていました。審議会は「兵隊が喜ぶもの」「戦意向上に役立つもの」という選定基準だけで幅広く本の選定を行っていましたが、そこに(特に政治的意図から)口を挟みたい人が多くいたのです。しかし「自由のために戦っている国」の中で「検閲」? それでナチスの焚書を非難できるのか?と立ち上がる人たちがいます。「思想と言論の自由」をきちんと行使する人がいる国です。ちょっとうらやましい。
ドイツが降伏すると、ヨーロッパのアメリカ軍のほとんどは日本への進軍を命じられました。命の心配をしながら兵士たちは戦後についても心配をします。社会復帰ができるだろうか、と。そこで兵隊文庫にはさまざまな業種に関する実用書が加えられるようになりました。中には、戦争で傷害を負った者への就職指南の本もあります。
戦後も兵隊文庫はすぐには廃止されませんでした。占領地に残る50万人以上の兵士のためです。最後の兵隊文庫が陸海軍に届けられたのは、1947年9月のことです。
アメリカ政府にとって、1100万人の復員兵と、1700万〜1800万人の軍需産業従事者にどうやって「職」を与えるか、が頭痛の種でした。そこで、復員兵に教育と職業訓練を与える「復員兵援護法(GI法)」を1944年に成立させます。そしてそのガイドブックを兵隊文庫と同じサイズの本にして出版しました。戦後の9年間で780万人の復員兵がGI法に基づいて大学教育や職業訓練を受けましたが、220万人が単科大学に進学しています。彼らは非常に真面目に授業に取り組みしかも優秀な成績を上げたため、一般学生は復員兵がクラスに入ることを嫌がっていました(平均点が上がるからです)。貧富の差や社会階層に関係なく高等教育が与えられたことは、その後のアメリカ社会に大きな影響を与えたはずです。残念なのは、黒人と女性がこの取り組みから除外されていたことです。それに対する社会的反発から、のちに公民権運動と男女同権運動が盛んになったのかもしれません。ともかく、復員兵が熱心に勉学に取り組んだのは、兵隊文庫の影響かもしれません。入隊するまで読書経験がほとんどなかった者が、兵隊文庫で読書習慣がついてしまったのですから。
やはり「ペンは剣より強し」なのでしょう。
「代休」……代わりに休んであげる
「代金」……代わりのお金
「代官」……官僚の代わり
「代理」……理論の代わり
「餅代」……餅の料金
「飯代」……お茶と箸は別
「車馬代」……馬車で来たら払いやすい
「三代続いた江戸っ子」……宵越しの金も持たない気っぷのいい人が三代前のことにこだわっている
「五代将軍」……徳川綱吉がすぐ出たら大したものだが、藤原頼嗣と足利義量もお忘れなく
【ただいま読書中】『ソーセージの歴史』ゲイリー・アレン 著、 伊藤綺 訳、 原書房、2016年、2200円(税別)
一昨日『ホットドッグの歴史』を読んだので、その関連で今日の本を選択しました。
ソーセージが誕生するためには、3つの理由が必要でした。
1)獲物の大きさ:扱いやすいように細かくする必要があります。
2)肉が腐りやすいこと:腐りにくいように燻製・乾燥・塩蔵するテクニックは、人類の文化の最初期から始まっていました。
3)無駄を出さない:せっかく獲った獲物だから、肉も内臓も捨てたくない。
3000年前の古代エジプトの壁画には、生贄の牛の血からソーセージの一種を作っている場面が描かれています。『オデュッセイア』(ホメロス)には「山羊の胃袋に脂と血を詰めたもの」を料理する場面があります。
ところで「ソーセージの定義」は? 実はこれが難しい。世界中にさまざまな「ソーセージ」が存在して、定義を始めたら身動きが取れなくなるのだそうです。本書でも世界のさまざまな「ソーセージ」をざっと紹介したあとで、「ミートボールは?」「クネルは?」「餃子やラヴィオリは?」と問いかけて、著者も私も頭が混乱することになります。
「ソーセージsausage」の語源はラテン語の「salsus(塩漬け)」で、だからでしょう、ほとんどのソーセージには塩が加えられます。あとはもう、ほとんど何でもあり。脂肪たっぷりで味が濃厚だから、マスタードが添えられるのは“定番"です。
「ソーセージ」はしばしばペニスの隠喩として用いられます。フランクフルトソーセージの呼び名「ホットドッグ」「ウィンナードッグ」はどちらもずばりペニスの隠語ですし、他のソーセージも“この方面"では大活躍をしています。
また「混ぜ物の正体に対する不信感」から政治不信などを象徴するものとしても「ソーセージ」は使われてきました。ただ「普通なら捨ててしまう部位」を美味しく食べるための手段として、ソーセージは非常に魅力的なものでもあります。
古代ギリシアや古代ローマではさまざまなレシピの「ソーセージ」が食べられていました。有名な美食家アピキウスは、ソーセージに使う最高の肉はクジャク、次いでキジ、ウサギ、鶏が続き、豚は最下位、とランクづけをしていました。「暗黒の中世」ではソーセージに関しての言及は減りますが、ルネサンスでまた料理書が書かれるようになり、ソーセージが再登場します。その中には、獣肉だけではなくて、魚肉ソーセージもあり、小型のサメを使ったものはもしかしたら日本のカマボコやちくわに近いものだったかもしれません。
もっとも多種多様なソーセージが作られているのはヨーロッパですが、それは豚の飼育数と関係があるかもしれません。
「イタリア」はまだ統一されてから1世紀半、ソーセージはだから各地でまったく違ったものになっています。イタリア人の多くは隣町の食べものを「外国の食べもの」と見なすのだそうです。だから「サラミ」はイタリアのどこでも「サラミ」ですが、実は数百種類あるそうです。
フランスはイタリアよりは統一されているのですが、ソーセージのタイプは山ほどあります。他国から取り入れたものもちゃんとフランス風に変えてしまいます。
ドイツのソーセージは千種類以上(数えるのが大変だったでしょうね)。ドイツでは「地域別」よりは「ソーセージのタイプ別」の分類が好まれています。
イギリスの冷涼な気候はイタリアのようなドライソーセージ製造には向きません。だから乾燥熟成ではなくて加熱処理をされ、新鮮なうちに食されることになります。
オランダ、スペイン、中央ヨーロッパ、バルカン……実にさまざまな「ソーセージ」が紹介されます。
そしてアメリカ。各国の移民が自分たちの食べものを持ち込んだ巨大国家ですが、移民がやって来る前からアメリカ先住民は「ソーセージ」を作っていたはず、が著者の推測です。初期の(イギリスやオランダからの)移民はソーセージにあまり貢献をしませんでしたが、あとからやって来たドイツ系の移民は、優れたソーセージを多数アメリカに持ち込みました。ただ「ヨーロッパの伝統」はすぐに「アメリカ風」に変えられていきます。
中国では、紀元前600年頃(春秋戦国の戦国時代、ですね)からソーセージが作られていました。当初は、豚ではなくて山羊肉や仔羊肉が用いられていたそうです。アジア各地にもソーセージがありますが、なぜか日本には「伝統のソーセージ」がありませんでした。1950年代に開発された魚肉ソーセージが「日本のもの」と言えるかもしれませんが。
珍しいソーセージとして、菜食主義者用のものもあります。肉の増量剤ではなくて“主菜"として野菜を使ったソーセージって、どんな味なんでしょうねえ。
「降伏するくらいなら死んだ方がマシだ」と主張している人は,生きています。
【ただいま読書中】『パール・ハーバー ──恥辱から超大国へ(下)』クレイグ・ネルソン 著、 平賀秀明 訳、 白水社、2018年、3800円(税別)
空を飛ぶゼロ戦にジャガイモを投げたり自転車で追いかけて拳銃を発射する兵士もいました。人間は怒りに我を忘れると、無駄なことでも全力でしてしまうようです。そういえば大戦末期に日本のあちこちが艦載機の銃撃を受けたときに、私の父親は学校の校庭のど真ん中で低空を飛ぶ敵機に対して日本刀を振り回している軍人を見たそうです。どこも同じことをしてしまうんですね。
ミスをしたために殺される人もいれば,ミスをしたために助かる人もいます。戦場での生と死の割り振りは不平等です。中でも悲惨な死に方は、攻撃を受けて着底した戦艦「ウェスト・ヴァージニア」で、密閉空間に閉じ込められた3人でしょうか。彼らは、暗闇の中、食糧も水もなく、12月23日まで生きていたのですが、最終的に酸素がなくなり窒息死をしたのです。
戦艦「アリゾナ」はついていませんでした。一発の爆弾が弾薬庫まで貫通して爆発、アリゾナ自体が一発の爆弾になってしまい、乗員1177名が死亡しました。近くの戦艦「テネシー」は、日本軍機2機から直撃弾を喰らいましたが、その被害よりも「アリゾナ」から飛来した破片による被害の方が大きかったそうです。イギリスの戦艦「フッド」はドイツの「ビスマルク」の砲弾がたまたま弾薬庫に飛び込んだために一瞬で撃沈となりましたが、それと似た現象だったのでしょう。
戦艦「メリーランド」は、淵田直卒の九七艦攻の編隊に水平爆撃を受けました。著者は、まず淵田の視点から、次いでメリーランド艦上で攻撃を受けたフィッツジェラルド中佐の視点で、この場面を描写します。「爆撃」では、爆弾を落とす側は落とすだけ、落とされる側は落とされるだけ、の体験を語るものですが、実は爆弾の“両側"に「人間」がいるのです。
「真珠湾」のニュースを知り、チャーチルは「これでアメリカが参戦し、我々は勝てる」と興奮します。ヒトラーは「アメリカは太平洋に集中せざるを得ず、これで我々は勝てる」と考えました。同じ事柄でも、立場によってずいぶん捉え方が違います。日本の軍部は「これでアメリカ太平洋艦隊はしばらく動けなくなるから、東南アジアでの作戦がやりやすくなるからその間にさっさと戦争を終わらせよう」と楽観的でした。
オアフ島を噂が駆け巡ります。「日本軍が上陸してくる」「スパイがあちこちにいる」という噂を信じた人は、対空砲の点検のために懐中電灯をつけた調査チームを銃撃します。日系移民の間には「米軍が我々を皆殺しにしようとしている」という噂が。実際に頭に血が上った水兵たちが、山道を歩く日系人のグループを射殺しようと相談がまとまりかけたところで、一人の水兵の「俺たちはケダモノじゃない。この人たちはあの攻撃とは何の関係もないじゃないか」の一声で我に返った、という危機的瞬間も本書に紹介されています。
日本艦隊索敵のために空母から発艦した艦載機は、空母ではなくて陸上基地に着陸することになりました。当然「発砲するな」の命令が出されますが、いざ着陸態勢に入った瞬間「まるでオアフ島にあるすべての火器が、彼らの面前で、一斉に火を噴くがごとき事態」となってしまいます。曳光弾の明かりで空はまるで昼間のように明るくなった、とも。結局6機のうち5機が撃墜され、3名のパイロットが友軍によって殺されました。戦闘がすんだ後になって味方に殺されるとは、ひどい話です。戦闘中に敵に殺されるのがよい話、というわけではありませんが。
アメリカには「恥辱」があります。メキシコ人ごときに激戦を強いられたアラモの戦いとか、インディアンなんぞに負けたカスター将軍とか。そして真珠湾も「アラモを忘れるな」に続くことになります。
グアム、ウェーク、香港、フィリピン、ボルネオ、シンガポール、バターン……日本軍の攻撃はとうとうオーストラリアのダーウィン港爆撃にまで及びます。「真珠湾」は多くのものを変えました。戦術面では「航空機の重要さ」ですが、人種的には「日本人は臆病で遅れた連中」という偏見が変更を強いられます。たとえばロサンゼルス・タイムズ紙は「油断ならないヘビ」という見方を採用しています。これはつまり「悪魔の手先」ということかな? そしてその見方は「日系人の強制収容所」へとまっすぐつながります。結局「人種差別をするぞ」という決意には変更がなかったようです。
攻撃のあとにも、公的には評価されない「英雄」が続々登場しました。転覆したり着底した戦艦を元に戻そうと必死に働いた戦時労働者たちです。彼らの頑張りで、アメリカ軍は、人命以外のほとんどすべてを、数箇月で取り戻すことができました。太平洋の西半分はほぼ大日本帝国の支配下となり、ハワイは「最前線」になっていました。だからこの「早い復旧」には非常に大きな意味があったのです。
「憤怒」がアメリカを動かしました。ただ「反撃の最初の一手」は「ドゥーリトル爆撃隊」。軍事効果よりも相手の意表を突いて心理的ダメージを与える(「真珠湾」によって与えられた心理的ダメージを相殺する)ことが狙いの「一手」です。そういえば、大戦末期、劣勢となった日本帝国海軍は数少なくなった残存艦船を呉軍港周囲の島陰に分散させて隠すように停泊させていましたが、米軍はそれを狙って執拗に爆撃を繰り返しました。また日本のあちこちで地上銃撃を繰り返しました。これもまた「憤怒に基づく真珠湾の報復(場所を変えての再現)」だったのでしょうね。ただ、いくら「再現」しても、あるいはヒロシマ・ナガサキをやっても、「憤怒」は全然解消はしなかったようです。「恩」はいくら返しても絶対に返しきれないものですが、それと復讐の念も同様で、人間の強い感情は「収支」を合わせることは最初から不可能なものなのかもしれません。では、どうしたら? だって「いくらやっても恨みが晴れない」とする復讐の行動は、新しい「憤怒」を生むんですよ。
これだけ「ヘルシー」がブームになっているのですから、ファーストフードにもヘルシーブームが起きませんかねえ。いや、どんなものが登場するか、とちょっと楽しみなのですが。
【ただいま読書中】『ホットドッグの歴史』ブルース・クレイグ 著、 田口未和 訳、 原書房、2017年、2200円(税別)
犬にさまざまな犬種があるように、ホットドッグにもさまざまな種類があります。ソーセージだけ見てもさまざまですし、ソーセージの加熱法もさまざま。トッピングも多種類ありますし、パン(バンズ)もさまざま、さらにはパン以外のものも使われます。
そこで本書はまず「ソーセージ」についてのべ始めますが、そのためには3000年くらい遡る必要があります。アッシリアの文献にソーセージが登場するし、紀元前700年頃書かれた『オデュッセイア』には「数世紀の歴史ある食べもの」として「ブラッドソーセージ」が登場するからです。ヨーロッパ移民が各種の「ソーセージ」を持ち込んだ(特に19世紀にドイツからの大量の移民が本格的なソーセージを持ち込んだ)アメリカでも「安い肉」としてソーセージは人気でしたが、「犬の肉が使われているから安い」なんて噂も根強く囁かれていました。19世紀に肉引き機が開発され、ソーセージの大量生産が可能になり、1893年の新聞記事に「ホットドッグ」が登場します。アメリカの「ホットドッグ誕生秘話」では、寒い野球場で熱々のソーセージを手軽に食べられるようにパンではさんだ「ホットドッグ」が大人気となった、となっていますが、これは証拠のない「神話」だそうです。20世紀には電動のソーセージ製造器が開発され、人工ケーシングに詰めて形成してからケーシングを取り除く方法も開発され、それまで肉の段階からホットドッグになるまで一箇月かかっていたのが、1時間で作れるようになりました。
ホットドッグは本来は「ストリートフード」でした。1910年ころのウィーンの写真では、露天商がソーセージを温める容器と大きな駕籠に山盛りにしたパンを地べたに置いて売っています。ニューヨークでも移民による屋台は認められていましたが,シカゴなどでは禁止されていました(馬糞の乾燥した破片があたりに飛び散っていて食品を汚染することが危惧されたからだそうです)。ただシカゴでも、常設の店舗(ホットドッグ・スタンドと呼ばれました)での販売が1920年代ころから始まりました。シカゴではホットドッグ・スタンドが主流です。対してニューヨークは、屋台が主流で常設店舗は少数派。1930年代から「ホットドッグのブランド化」と「スタンドのブランド化」の両方が始まります。商品が成熟すると新商品による差別化が困難になりますから、ブランドによる差別化をしよう、ということなのかもしれません。
ここから「アメリカ人にはおなじみの、ホットドッグのブランド」が次々登場します。どれもカラフルなパッケージや店構えです。残念なのは、私には馴染みがないこと。ま、ローカルな話題だから仕方ないです。
ユダヤ人が作るホットドッグは人気があり(コシャーの規制に従ったものは不純物が少ない、と考えられていたからかもしれません)、その影響で1950年代のシカゴでは「オールビーフのホットドッグ」が「標準」となります。マスタードを持ち込んだのはドイツ系ユダヤ人。ピクルスやセロリソルトをホットドッグに加えることを考えたのはドイツ系移民。ミシガン州デトロイトの「チリドッグ」はギリシアとバルカン半島出身の移民たちが生み出しました。
ホットドッグはいわゆる「ペニー・ビジネス」です。小さな利益を積み重ねることで、資本主義社会を這い上がっていく最初の手段として食べもの商売は人気があります。さらに、「街の名物のホットドッグ」を皆が食べることは、「平等な社会の理想」の具現となります。しかも「何を乗せるか」は各個人の自由ですから「個人主義」も満足できます。さらに各地域で異なったスタイルがあるので「地域主義」でもある。たかがホットドッグですが、経済的にも政治的にも意味が大きいんですね。
ホットドッグはアメリカから世界中に広まりましたが、各地域で独自の発展をしました。本書にはさまざまな「世界各地のホットドッグ」が紹介されていますが、「全部同じ『ホットドッグ』と呼んでいいのか?」と言いたくなるくらい多種多様です。もしかしたら「犬種」よりも多かったりして。
今が盛りの萩の花は小さくてきれいですが、家内に言わせるとすぐに散ってしまうのが難点だそうです。ところで、桜もすぐに散りますが、それは難点とは言われませんね。なぜなんだろう?
【ただいま読書中】『パール・ハーバー ──恥辱から超大国へ(上)』クレイグ・ネルソン 著、 平賀秀明 訳、 白水社、2018年、3800円(税別)
1940年11月、イギリス空母「イラストリアス」から飛び立った航空部隊は、水深の浅いタラントに投錨していたイタリア艦隊を爆撃および雷撃で攻撃、大成果を上げました。その「教訓」は世界中にすぐ伝達されましたが、アメリカ海軍は「真珠湾は水深が浅いから魚雷攻撃は困難」と新しい魚雷防御網の設置などは見送りました。
1941年3月にハワイの海軍と陸軍が共同で作成した「マーティン=ベリンジャー報告」には、「宣戦布告に先立って真珠湾と施設を含むオアフ島が払暁に奇襲される可能性があり、その手段は日本から遠征してきた空母から発艦した航空機集団と潜水艦」という「予言」が書かれていました。そしてそれに対する対策は「偵察機の増強(空母を含む艦隊の早期発見)」だったのですが、資金不足と危機感不足(真珠湾の艦隊は、日本に対する(使わずにすむ)抑止力、とワシントンは考えていた)から、有効な対策は採られませんでした。
ワシントンの「目」は大西洋の向こうに向いていて、それを正当化するためか「日本が暴発するわけがない」と思い込んでいたのです。
日本の攻撃隊は「雷撃機(魚雷で攻撃)」「急降下爆撃機」「水平爆撃機(高高度からの爆撃)」の3種の隊と、それを護衛あるいは地上を機銃掃射する戦闘機の集団から成り立っていました。それぞれに攻撃のメリットとデメリットがありましたが、少しでもメリットの方を上げるために、猛訓練が行われていました。
もどかしい外交交渉と戦争の前段階としての貿易戦争が展開されます。日本の天皇は「君臨しない君主」であるように帝王教育を受けていたため、結局政府の首脳は曖昧な天皇のお言葉を自分に都合良く解釈します。そして、事態は一歩ずつ進んでしまいました。(このへんの会話と真意のずれが妙にリアルです。著者は相当調査をしているようです)
ちょっと話が先走りますが、「真珠湾」によって、それまでの「戦艦絶対(と空母軽視)」の風潮が逆転したことは広く言われていますが、著者はさらに「魚雷の重要性が認識されるようになった」ことを指摘しています。特に雷撃機によって放たれる魚雷は、恐るべき兵器に“昇格"したのです。
そして、全く油断をしていた真珠湾に、日本の小型潜航艇が忍び込み、空を日本の飛行機編隊が覆います。しかし、ワシントンの日本大使館では、最終通告(宣戦布告)の暗号電報のタイプ清書がまだ終わっていませんでした。大使はあせってハル国務長官に面会時刻の延期を申し入れます。ハルは「MAGIC情報(日本の外交暗号を解読して得たもの)」ですでにその内容を知っていたのですが、大使の要請を了承します。
本当はここで上巻が終了したら下巻が上手く始まるのでしょうが、本書では巻末の一章で「戦闘」が始まってしまいます。恐ろしいほど良く晴れた日曜の早朝、見慣れない塗装の飛行機の編隊が自分たちの家のすぐ上を通過していくのを、ハワイの住民は目撃します。住宅地では「目撃」だけですが、基地(とその近くの住宅)は「攻撃」を受けることになります。最初に血祭りに上げられたのは、たまたま日本軍の編隊の前を通過しようとした民間機でした。ただ、そこには3人の兵士が乗っていて、彼らは「第二次世界大戦で戦死した最初のアメリカ兵士」と記録されています。混乱のさなか、たまたま本土から飛来していたBー17の編隊が(もう残燃料もないため)基地に着陸しようとします。しかし頭に血が上った兵士たちは、B−17に対しても対空砲火をぶっ放していました。日本機に追われ、地上からも撃たれるB−17の中には、補助飛行場やゴルフコースに着陸したものもいました。
地上の人たちは、「ニップ」「ジャップ」「チビの黄色い連中」の急降下爆撃機と戦闘機の見事な技量を目撃することになりました(見るだけではなくて、ばたばた殺されるのですが)。もぎ取られた自分の腕や脚を抱えてやって来る人たちで病院はあっという間に満杯になります。ただ日本軍は(屋上に赤十字のマークが描いてある)病院は攻撃しませんでした。もしそれをしていたら、死者は何倍かになったでしょう。
「英雄」もあちこちに出現しました。私が印象を強く受けたのは、カネオヘ基地のフィン曹長です。対空砲がなかったので、燃えている飛行機から50口径機関銃を取り外して手作りの簡易三脚に載せて2時間撃ちまくり、自身は28箇所か29箇所に負傷しています。ただこのフィン曹長は、“フェア"でしかもユーモアを解する軍人のようで、「あのジャップどもを褒めてやらねばなるまい。連中は軍事的に素晴らしい仕事をやり遂げ、しかも、われわれの隙をまんまとついてそれを実現したのだ」「ある南軍の将軍も言っているじゃないか、敵の機先を制するには、これから行くぞと誰にも言わないことだと」なんて述べています。
ゼロ戦パイロットとして攻撃に参加していた藤田中尉は、戦後日本航空に就職しましたが、東京=ホノルル便で機長としてオアフ島に近づくと「落ち着かない気分になることもあった」そうです。
たまに「和食の店」に行ってコースを食べると、次々料理が登場して最後にご飯とお汁、そしてデザート、という流れになります。だけど私が食べて育った「日本の食事」は「一汁三菜とご飯」が最初から食卓に並べられていて、しかも一品だけずっと食べると「片付け食いをしてはいけない」と躾けられるものでした。「最初に汁を一口、それからご飯とおかずを交互に食べなさい」と。だけど「和食のコース」は究極の片付け食いなんですよね。しかも料理が「ご飯のおかず」になっていない。
「家庭料理」と「店のコース」とは「別物なのだ」、で片付けてもいいんですけどね。となると「中華」「フレンチ」や「イタリアン」なども、レストランと家庭では「別のもの」を食べている、という可能性が?
【ただいま読書中】『日系料理 ──和食の新しいスタイル』ルイス・ハラ 著、 大城光子 訳、 エクスナレッジ、2017年、2300円(税別)
ずしっと重たい本です。写真集に使う紙が使ってあるのでしょうか、一ページ一ページが分厚く、そこに豊富に載せられた料理の写真は本当に美味しそうに見えます。
「日系料理」は「日本料理」の誤植ではありません。南米に移民した「日系」が現地で出会った食材を自身の「和食」に取り入れていって独自の発展を遂げた料理、それが「日系料理」です。
ブラジルへ日本から移住した人たちは、食物と食習慣のあまりの違いにびっくりしました。しかしそれでも彼らは、なんとか工夫して「和食」に少しでも近いものを作ろうと努力しました。逆にその「努力」がブラジルに影響を与えます。それまでブラジルの市場に存在しなかった野菜などが扱われるようになったのです。
本書では、そういった「ニッケイ料理」を、自分で作ることができるように、で写真と詳しいレシピも載せられています。
トップバッターは、「牛バラ肉のミニバーガー、フォラグラ&キムチマヨネーズ仕立て」。これのどこが和食? 実は本書の後半に登場する「牛バラ肉の蒸し煮、ブラウンシュガー風味」(これがまた、ご飯のおかずとして実に美味そうなしろものです)を使い回してバンズにはさんでいるのです。いやあ、日系かどうかは私には関係なく、美味そうだから食べたくなります。
「ポップコーン 5種」は「七味唐辛子味」「わさびバター味」「黒ごまキャラメル味」「赤味噌味」「抹茶塩味」。いろいろ味を想像したら、口の中が唾液でもにゃもにゃに。
「トシロー流大根の煮物、肉味噌和え」。大根は(昆布、醤油、みりんで)普通に煮てありますが、肉味噌に卵黄、ひまわり油とハラペーニョ(青唐辛子)が入ってます。これは「ペルーのニッケイ料理の父」と尊敬されているシェフ、トシロー・コニシ氏のレシピだそうです。
私が一番食べたいと思ったのは「なす田楽、味噌&モッツァレラ」です。茄子を焼いて断面に田楽味噌を塗ったらその上からモッツァレラチーズをかけてオーブンで5分焼く。これ、絶対美味いでしょう。ああ、また唾液の洪水が。
こういった「フュージョン」を嫌う「和食原理主義」の人もいるでしょう。ただ、他の文化の影響を受けたものは「純粋な伝統」ではない、と言ってしまうと、ポルトガル料理の影響を受けた天麩羅や中国料理の影響を受けた様々なものはすべて「和食」から排除しなくちゃいけないことに? それもちょっと窮屈な主張に思えます。
私自身は、最初は「変化球」として食べてみたいと思いました。で、美味しければ、それを「日常の食べもの」にすれば良い。和食は奥が深いし少々の変化球でその土台が揺らぐようなものではないと信頼していますので。
ちなみに本書には「ダシの取り方」もきちんと掲載されています。だけど、今の日本の家庭で、きちんとダシを取っている人は何%くらいいるのかな?(ちなみに我が家には、ダシ昆布、鰹節、いりこ(煮干し)、干し椎茸などは常備されていますが、鰹節は最初から削ってあるものを使ってます。「和食の伝統」原理主義から言ったら、鰹節を削らない分、簡略化されている、と非難されるかもしれませんね)
「沖縄に寄り添う」というのはもう「ただの決まり文句(単なる文字列)」になっています。
日本語使いの私にとって「(肉体的ではなくて精神的に)寄り添う」は「相手への理解」「共感」「対応」がセットになったものです。だけどある種の人にとってはそうではなくて「口で『寄り添う』と言うだけ」つまり「理解」「共感」「対応」を欠いた行為のことを意味しているようです。
前知事は就任の挨拶に行っても4箇月も門前払いをされましたが、新知事にはすぐに「応対」をしてくれただけ、政府も進歩した、とは言えるのでしょうけれどね、でも「応対」であって「対応」じゃないんだよな。
【ただいま読書中】『ふしぎな県境 ──歩ける、またげる、愉しめる』西村まさゆき 著、 中央公論新社(中公新書2487)、2018年、1000円(税別)
世間にはいろんな「マニア」がいますが、「県境マニア」というものも実在するそうです。ただその主張(不思議に見える県境にも、地理や過去の歴史が反映されている)には私も思わず共鳴してしまいます。ただしその行動(「県境をまたいでの写真撮影に熱中する」など)には、微笑みは誘われますが、真似をしようとは思いません。私には県境マニアの素質はないようです。
県境は異なる2つ(たまに3つ)の行政区分が接するところです。それが如実に可視化されるのが「道路を横断する県境」の場合で、舗装やペイントなどが明確に異なるのだそうです、というか、たしかに異なっています。私自身、一般道を運転していて山口県に入った瞬間、舗装の質が良くなりガードレールの色が白からみかん色に変わってびっくりしたことがありましたっけ。
京都府と奈良県の「県境」(本書では都道府県すべてまとめて「県境」と呼んでいます)に建設されたショッピングモールには、床に「県境」のラインが引いてあります。その理由は、警察からの要請(その理由は本書をどうぞ)。
東京都は東西に長いから横断には時間がかかります。しかし、県境が入り組んでいているところでは「1秒」で「横断」ができる場所がありました。というか、著者はそれを地図で見つけて「1秒横断」を実行しに出かけます。ところが現地で聞いた意外な話は……
ほかにも「綱引きで毎年移動する県境(というか「国境」)」「山形県と新潟県の県境の尾根にある、人一人がやっと歩ける長さ2000mの山道がなぜか福島県(まるで長い盲腸のような「県境」)」
「飛び地(福岡県の中に「熊本県」が3箇所もある、和歌山県の飛び地「北山村」は丸ごと和歌山から離れて三重県と奈良県の境界にぽつんと存在している)」など、興味深い蘊蓄(と著者の実体験)が次々登場します。
ある意味「ふざけた本」です。ただ県境を楽しもう、という目論見だけで成り立った本ですから。しかし著者は実に真面目にふざけています。盲腸県境なんか、登山者としては中級以上のスキルが必要、という山道に、わざわざガイドを雇って挑戦しています。とんでもない急斜面をよじ登ってやっと到達できた山道(盲腸県境)は尾根の両側が「落ちたら即死」の断崖。まじめにふざけるのも、本当に大変なようです。両足をそれぞれ別の県に起き胴体は福島県、さて私は3つの県の内、何県にいるのでしょう?なんておふざけはちゃんとしてくれていますが。
私がよく行く歯科医院では、院長先生はいつもくるくる働いています。で、院長が先頭きって動いているものだから、スタッフはそれについていくのが大変で、傍目には「指示待ち」のようにも見えます。私が見る限り、他の歯科クリニックよりも優秀なスタッフが揃っているのですが、実際にはスタッフが動き始める直前に院長が指示を出してしまう、という場面もけっこうあるようです。
で、いつもに増して忙しそうなある日「お待たせして申し訳ありません」と院長先生がすまなそうに言うから「一人でされるのは大変ですね」と返すと「そうなんですよ。なかなか思うように皆が動いてくれなくて」と愚痴をこぼされてしまいました。早くスタッフが育って院長に仕事の催促をするくらいになったらいいんですけどね。だけどそれはそれで院長先生には別のストレスになるかもしれませんが。
【ただいま読書中】『よくわかる医薬品業界』長尾剛司 著、 日本実業出版社、2009年(18年3版)、1400円(税別)
就活の役に立てるため、取引先の業界について詳しく知りたい、などの目的のために「最新の業界の常識」をまとめたシリーズの中の一冊だそうです。
医薬品は「モノ」と「情報」から成り立っていますが、売り手と買い手の間の「情報格差(情報の非対称性)」が非常に大きいことが特徴ともなっています。インターネットによってその格差は以前よりは小さくなりましたが、逆に偽情報や誤解や単なる思い込みの拡散も増えました(これは医薬品だけに限定した話ではないですけれど)。
医薬品とユーザーを結ぶのは薬剤師ですが、現在日本に薬学部・薬科大学は74あります(定員は1万2千人)。卒業までに6年必要です(2006年度入学から。それまでは4年制でした。現在も4年制がありますが、これは研究者コースです)。
新薬の研究開発は、製薬会社やバイオベンチャーが担当しています。あれ? 大学は? 確か欧米では大学発の薬もいろいろ会ったはずですが、日本の大学はそこが弱いのかな?
販売は、医師が処方するルートと、ドラッグストアで一般に販売されるルートです。
なお、各職種での年収比較、なんてものも載っていますので、就職を考えている人には参考になるでしょう。
薬学部を卒業しても、国家試験に合格しないと薬剤師にはなれません。ところがこれがそれほど広い門ではありません。各薬学部の国家試験合格率一覧表が載っていますが(トップとビリで、なんと3倍もの差があります)、ここで注意するべきは「国家試験合格率を上げるために、危ない学生は卒業させない」という対策を取る大学があること。それは「卒業試験の合格率」を見る必要があります。
新薬を一つ開発するのには、9〜17年の期間と約1000億円がかかります。しかも、候補の全てがものになるわけではありませんし、やっと発売にこぎ着けても発売後に意外な副作用が出現して薬が売れなくなる、ということもあります。副作用に関して「薬はリスク」とは言いますが、「薬の開発」もまたリスクだらけのようです。
本書によると、日本に製薬企業は319もあるそうです。ちょっと多すぎるのでは? 世界に通用する新薬を開発できる会社(数社? 十数社?)と、ジェネリック専門の数社、くらいで、日本には十分なのではないか、と私には思えます。自由競争の社会だったら会社がいくつあっても構いませんが、薬の開発も健康保険での値付けも厚労省の厳しい統制下にあるのですから、「競争」はろくにないわけで、300以上も会社が必要な理由が私にはわかりません。
医薬品の情報は、企業から医薬情報担当者(通称MR)によって医師や医療機関にもたらされます。営業マンというよりはもうちょっと学術的な存在ですね。意外なのは、薬剤師が少ないこと(MRの10%)。半数は文化系の出身だそうです。単に「モノとしての医薬品の知識」だけがあればよい、というわけではなくて、「患者」「法律」「経営」など、MRに必要な知識は幅が広いからでしょう。それを言ったら、医者だって「単に医学知識があれば良い」というわけではありませんから、もっと多様な人材を医者にした方が良いのではないか、と私は思います。アメリカのように一般大学を卒業後に面接で医学部に採用する、というのも一つの手でしょうね。
今、処方期間は長期化しています。私自身、若い頃には2週間ごとに薬をもらいに行っていましたが、今は2〜3箇月分どんと出してもらいます。となると、その間、患者と医者の交渉は途絶えます。ところで厚生労働省は「地域で患者を見る」と言っているのですから、医者に対するMRと同じような「患者に対する医薬品情報を提供する人」がもっと増えてもよいでしょう。介護保険では出張の薬剤師が薬剤管理をする、なんてのもありますが、これを健康保険でもできたら、長期処方に伴う事故のようなものを減らすことができるかもしれません。地域にある薬局が、一種の「健康センター」のようになって、地域全体の人の医薬品についての、情報提供やモノの管理のサポートをするようになると、私の構想は現実的になるのですが。
ネットでは、ちょっと目立つ善行をしたり多額の寄付をした人を指して「偽善者」呼ばわりすることが以前から流行しています。
ところで「偽善」が成立するためには二つの要件を満足させる必要があります。
1)「その行為」が「善行」である。
2)「その行為を為した人の真意」が「善意ではない」。
1)は当然の前提で、悪行を指して「偽善」と言うことはできません。悪行は悪行です。つまり「偽善だ」と声高に言う人は、「その行為は善行である」ことは認めた上で2)を主張している(「行為(善行)」と「真意(善意ではない)」のミスマッチを責める)わけです。
ところで「人の真意」って、そう簡単にわかるものです? 私は「自分の真意」でさえわからないことがあります。まして「他人の真意」なんて、精密な精神分析でもしない限り、わかりはしないだろうという確信ならあります(「そんなことを知ってどうするんだ? それを知りたいあなたの“真意"は?」とも思いますが)。ところが「ネットで他人を偽善者呼ばわりする人」は「会ったこともない他人の真意がわかる」と自認していると言うことに? すごいなあ。超能力者?
ところで「他人を偽善者だと侮辱する行為」は「善行」ですか?それとも「悪行」? 私は侮辱は悪行だと考えます。ということは「他人を偽善者だと侮辱する人」は「(その真意は不明だが)善行を為した人」を侮辱するという「悪行」を為していることになります(その侮辱の「真意」は不明ですが)。で、「悪行を為す人」は「悪人」です。つまり、行為だけを見る限り、「悪人」が「善行を為した人」を侮辱しているわけ。おやおや、ネットって、不思議な世界ですねえ。
【ただいま読書中】『レオ・アフリカヌスの生涯 ──地中海世界の偉大な旅人』アミン・マアルーフ 著、 服部伸六 訳、 リブロポート、1989年、2400円(税別)
本書の語り手ハッサンはヘジラ暦894年(西暦1488年12月4日〜89年11月24日)ラマダーンの月にグラナダで生まれましたが、すぐにレコンキスタによって一家は亡命することになりました。本書では、イスラムの敗北は、アルハンブラ宮殿の暗君の責任(不必要な戦争をキリスト教国に仕掛け、内乱も招いたから)とされています。たしかに「レコンキスタ(領土回復運動)」とは「キリスト教徒側の見方」で、「イスラム教徒の見方」はまた別にあるわけです。まずは落城直前のグラナダの状況が、実に詳しく語られます。ハッサンはそのときまだ1歳だったはずですが、これがフィクションの強みでしょう。怯える母親に抱きしめられているだけの子供が「歴史の目撃者」になっているのです。
亡命者・移住者・難民、どう呼ぶかは自由ですが、8歳のハッサンがたどり着いたのはモロッコのフェズでした。そこで初等教育(コーランの暗誦)を受けて著者は早熟の才能を示します。ニュースも次々やって来ます。グラナダでは最初は信教の自由が宣言されていましたが、まずユダヤ人が迫害され、ついでイスラム教徒にもキリスト教への改宗が強制されるようになったのです。
ヘジラ暦910年、ハッサンは人生最初の大旅行に出かけます。大使に任命された伯父に随行してサハラを超えトンブクツーを目指します。黒人の世界には多くの王国があり、お互いに争うのですが、国境を越えての拡張は望まない、という傾向がありました。戦争と平和の両立でしょうか?
9月24日に読書日記に書いた『アルカイダから古文書を守った図書館員』(ジョシュア・ハマー)に、この「ハッサン(=レオ・アフリカヌス)」がこの地が学問で栄えていることに強い印象を得たこと、が描かれていましたが、本書では外交使節としての視点からのトンブクツーが描かれています。
ポルトガルは、アフリカの諸都市を次々侵略していました。しかしイスラムは一致団結をしようとはしません。内紛にポルトガルをいかに利用するか、が最優先となります。モロッコでスルタンの信頼を得たハッサンですが、その内紛の嵐の中ではその「信頼」は紙のように薄く、すぐに追放を言い渡されてしまいます。新しい「旅」の始まりです。
殺されかけたり一文無しになったり大金持ちになったり、再訪したトンブクツーでは大火に遭ったり……なんとかたどり着いたカイロでハッサンが出会ったのは悪疫でした。ペストです。それと、コプト教徒にも出会います。一目惚れで結婚をしたくなる女性にも。
もう、波瀾万丈ですね。
さらに、勃興するオスマン・トルコがハッサンの運命に強く影響を与えます。ある事情でトルコを避けなければならないはずなのに、運命に強いられてハッサンはトルコに70年前に占領されたコンスタンチノーブルに入ることになります。
ハッサンが出会う人たちは皆「祖国」に縛られています。国が脅かされている人は守るために奔走しますし、祖国を失った人はその幻影に執着しています。しかしハッサンにはそういった執着がありません。どこにいてもそこで自分のベストを尽くそうとしています。ハッサンは「○○人」ではなくて「旅人」だったのです。
オスマンとエジプトのマムルーク帝国が衝突、カイロの主人はトルコ皇帝にかわります。そしてハッサンは誘拐され囚われの身になり、ローマへ。ハッサンの“保護者"となったのはローマ法王レオ十世。ハッサンの中でイスラムとキリスト教とが奇妙な化学反応を始めます。しかしローマは苦難の時期を迎えていました。ルーテル派の攻撃が強くなっていたのです。そして、レオ十世の死後、ハッサンに対するキリスト教からの攻撃も強くなります。またも牢屋への幽閉、そして解放。そしてハッサン(というか、この頃には「レオ・アフリカヌス」)は、これまでの旅の記録を「アフリカ記」という本にまとめることを考えますが、同時に「巨大な多国語の辞書編纂プロジェクト」に誘われます。ハッサンの担当は「アラビア語とヘブライ語のラテン語に対応したリスト」の部分です。ローマに「それができる国際人」はハッサンしかいなかったのです。
オスマン・ローマ・フランスの三つどもえの争いが始まり、「アフリカ記」を書き終えたハッサンは「最後の脱走」を考え始めます。おっと、「本当に最後の脱走」は「死」なのですが。ハッサンの旅はまだ続くのです。