引き続き
文部科学省の中学校学習指要領・道徳編に関する小論を掲載する。小論中で24項目とあるのは、リンク先にあるような、中学校での「道徳の時間を要として学校の教育活動全体を通じて行う道徳教育の内容」を指している。リンク先を参照されたい。(なお、小論中で図への言及があるが、技術的な問題で、図の掲載は数日後になると思う。ご了承いただきたい。)
中学校学習指導要領・道徳編の内容項目・再構成のための一試論
[5] 内面へ深まる視点
次に二つ目の「内面に向かって視野と気づきを深めていく視点」を検討しよう。「人間が、道徳的、精神的に向上し、成長していく力を持っているという認識が、道徳教育の前提となっていることに異論はないだろう。では、ある生徒が、以前よりも「成長した」という場合、そこにどのような変化が起こっているのだろうか。もちろん、24の内容項目のそれぞれにおいて変化の内容は違うとも言えるし、個々の生徒もそれぞれも個性に即した変化・成長を遂げていくのだともいえる。
しかし「四つの視点」や個々の内容項目が相互に関連しあっている以上、変化・成長していくプロセスに何らかの共通の構造が見て取れる面もあるはずである。そのプロセスを簡潔に表現するなら「自己中心性からの脱却」といえるのではないか。「視野と行為の領域を外界へと拡大していく視点」でも、狭い自己中心性や「自己の属する集団」中心性から脱却していくプロセスが、大筋において道徳的・精神的な成長のプロセスに重なることを示唆した([4])。「内面へ深まる視点」においても「自己中心性からの脱却」が、各道徳項目における変化・成長の一つの目安となるであろう。
「自己中心性」とは、自分の利害関心を通してしかものを見ることができず、行動もできない状態である。人間は、多かれ少なかれ自己中心的な見方をし、自己中心的な行動をしている。極端に自己中心的であるとき、周囲の現実は自己中心の見方で極端に歪められ、その歪んだ現実認識に基づいて行動するので、人や社会とのかかわりも軋轢が多くなる。それは、道徳的な価値の実現とはかけ離れた状態である。人間の内面的な成長は、自己中心性からどれだけ抜け出しているかどうかに関係しているといえるだろう。
人間は、多かれ少なかれ自己中心性を保持しながら、周囲の人々や社会との関係でそれを制御しつつ、社会生活を送ることができる。自己中心の見方と、他者や自他の属する集団の見方とを調整し、一定の妥協点を見出すという方向である。その調整の過去における蓄積が何らかの形をなしたものが、「礼儀・きまり・法」などだともいえよう。それらを重んじる行動は、道徳性を考える上での重要な一側面である。
一方で人間は、「内面に向かって視野と気づきを深めていく」方向で、自己中心的な見方から徐々に解放されていく可能性ももっている。人間は、多かれ少なかれ自己中心的に現実を歪めて見ているが、その歪みは限りなく少なくなっていく可能性である。現実が現実として歪みなく見られ、受容される方向への可能性である。
それは同時に、「自己の在り方のより深い自覚」のプロセスであり、内面への気づき・洞察のプロセスである。今まで自覚していなかった利己心・自分の利害へ極端なとらわれ・執着心などが自覚され、意識化されればされるほど、自己中心的な見方から解放されていく。自己の内面の現実が、歪みや抑圧なしに自覚され、受容されていくプロセスである。自己の内面の、より歪みのない認識に基づいた行動は、外界の現実認識も歪みがより少ないため、周囲とより調和するようになる。人間の道徳的、精神的な成長のプロセスは、内外の現実を自己中心的な歪みからどれだけ解放されて受け止められるかに関係するといってもよいだろう。内面への自覚と気づきのプロセスが深まるほど、行動も、道徳的により調和したものとなるのである。
[6] 「人間の力を超えたもの」と「自己の向上」
①「人間の力を超えたもの」
ここからは図Bを参照しながら考えたい。まず「内面に向かって視野と気づきを深めていく視点」を示す三重の円の中心に「人間の力を超えたもの3(2)」が置かれていることについて説明したい。3(2)の文言は「自然を愛護し、美しいものに感動する豊かな心をもち、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深める」であった。この文言を読む限り、「人間の力を超えたもの」は自然との関連で語られているようにも見える。とすればこれは、内面の問題というよりも外界に関するものではないかという疑問が出て当然だろう。
しかし一方、人間が自然の一部であることは紛れもない事実である。むしろ人間が自然と一体であり、自然の一部であるという自覚こそが、環境破壊に直面する現代に生きる私たちに強く求められている。私たちの命の営み、鼓動や脈拍を素直に感じるだけでも生命現象の不思議、「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」は感じられる。
「自然の生命を感じ取り、自然との心のつながりを見出す」のは、私たちの心である。私たちの生命や心が自然の生命や心とつながっていることの自覚が重要である。自然と生命とつながる自分の生命に「畏怖の念」を感じる心は、現代の子供たちの命をまもるという視点からもとりわけ大切であろう。
さらに「人間の力を超えたもの」へ気づきは、「内面に向かって視野と気づきを深めていく」方向の最も深い部分にかかわっている。内面に向かう気づきのプロセスは、自己中心的な見方、自我やその利害関心への極端なとらわれ・執着心などに気づき、そこから解放されていくプロセスであった。そのプロセスの最深部においては、自我の力の限界が自覚され、「人間の力を超えたもの」への感受性に開かれていく。「人間の力を超えたもの」への「畏怖の念」は、外界の自然に接するときだけではなく、自己の内面に秘めたれた「成長する力」を実感するときにも生じるだろう。図Bの中心部で(自我の力を超えたもの)という表現を付け加えたのは、以上のような理由に基づく。
ともあれ、私たちの心、内面の世界を深く洞察し、「自己の在り方を深く自覚する」ことは、「人間の力を超えたもの」が私たちのうちにも秘められていることの発見につながるのだ。こうした「内面化」の視点から24の内容項目のいくつかを整理すると、項目相互にどんな構造が見えてくるかを探っていこう。
②「自己の向上」と「生きることの喜び」
図Bの下から中心に向かって矢印が伸び、その線上に「自己の向上」と「生きる喜び」という項目が置かれている。それぞれ「1(5)自己を見つめ,自己の向上を図るとともに,個性を伸ばして充実した生き方を追求する。」と「3(3)人間には弱さや醜さを克服する強さや気高さがあることを信じて,人間として生きることに喜びを見いだすように努める。」という内容項目に対応する。これらの項目は、同心円のどこかの領域に属するものではなく、矢印の向かうプロセスそのものにかかわるものとして図示されている。
まず「自己の向上」とは、自分の学力・技能・才能などを高めるという意味もあるだろうが、「自己を見つめ」、自己の人間性や道徳性を向上させるという意味もあるであろう。それらが一体となって自分の向上が実感されるときに「充実した生き方」・人生も実感される。
一方、「人間には弱さや醜さを克服する強さや気高さがある」という表現は、今どんなに弱さや醜さに満ちていようと、人間は精神的に成長する力を秘めているということを示唆している。それは、人間が限りなく向上する力を秘めているということであり、その向上し、成長するプロセスにこそ、「充実した生き方」や、「生きることの喜び」があるということである。
もちろん、この成長するプロセスは、「自己中心性からの脱却」であるともいえる。内面の弱さや醜さを自覚し、受容することによって、そこから解放されていくプロセスである。
また、弱さや醜さを克服して成長しうるところに人間の「気高さ」があるといわれるときの、「気高さ」という表現に注意されたい。自己中心的な人間が、自己中心性から解放される可能性を秘めているのは、人間の心が本来、その深奥で「気高いもの」「崇高なもの」(3の表題)、「人間の力を超えたもの」に支えられているからだともいえよう。その意味で、円の中心に向かう矢印は、個人の内面的な成長の方向を示すと同時に、「自己の在り方を深く自覚する」、自己がよって立つ基盤をより深く自覚する方向を示しているともいえよう。