瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

サティのマンネリを打破するには

2007年05月21日 | 瞑想日記
◆大方は平穏な日々であるが、もちろんその中に小さな苦しみ、ちょっとした怒りや不快感、永続的な心配事などはある。対人関係での怒りや不快感は、大切な学びの機会ではある。しかし日常の中で心随観がそれほど深まるわけではない。「怒り」とか「不快」とか表面的なサティをするだけになってしまうことも多い。せっかくの学びの機会を生かしきれていない。マンネリ、ワンパターン‥‥。

そんな時どうすればよいのか。ひとつは「怒り」や「不快」の大元である「自我」を意識することもかもしれない。実際に今日は、「そう感じている私」「自我」にサティした。しかしこれも頭のレベルでの「作業」のような感じがして、深まったとは言えない。

もうひとつは、「怒り」の状態をもっと細やかに感じ取りつつ、それを言葉で表現していく、ラベリングしていくことか。これは「怒り」をあるがままに気づいていくための大切なプロセスかも知れない。「怒り」を感じているときの体の状態に注目していくことも大切だ。「怒り」は体の状態と一体となっているからだ。

◆「高速回転読書法」は、私にとってはやはり読書法の画期的な変化だった。最近は、目次もせいぜい章を読むだけで、節の見出しは関心を引いたところをマークする以外は飛ばす。小見出しは実際にページをめくりながら読む。全体に2・3回目を通したあとに目次を見ると、全体を把握するのに効果的だ。

10分ほどで最後まで終わったときには、驚くべき量の情報がはいっている。読んでいなくともそのページで使われて主な語句は否応もなく目に飛び込んでくる。それだけでも自分にとって必要なことが書かれているかどうかが、ほとんど無意識のうちに判断されるのだ。

1回目だけではさほどではないにせよ、2回目、3回目と目を通すと、どこが必要でどこが必要でないか、ほぼ分かる状態になっている。自分でやってみて、それがとても印象的だった。逐語的に読んでいなくとも、それだけの判断ができる情報は入っているのだ。そのページだけをさっと見たのではそういう判断は難しいかもしれない。全体を通して見て全体を俯瞰する情報がかなり入っているからこそ、個々のページについての判断ができるのかもしれない。

このページを読まなくとも、本を全体にしっかり理解するのになんら支障ないということが手にとるようにわかる。もちろん分厚い研究書の場合は別かもしれないが。
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スペース

2007年05月14日 | 読書日誌
◆タデウス・ゴラス著『なまけ者のさとり方』(地湧社1988年)を読む。巻末に1989年読了と自分で書いており、ページのところどころに線など引いてあるから確かに読んだのだろう。しかし、内容に関してはまったく記憶がなかった。10分ほど「高速回転法」で読んで見て、素晴らしい本だと分かった。なぜ18年前に読んだときには、それが分からなかったのか。上っ面をちょっとなでるように読んで終わりにしてしまったのか。ともあれ何も印象に残らなかったようだ。

ラマナ・マハルシ、クリシュナムルティ、エックハルト・トール、ガンガジ、『奇跡の学習コース』にもとずくマリアン・ウイリアムソン等々と根底に広がる世界は同じである。ただ表現が違う。表現が違うということは、いろいろな仕方で、いろいろな角度から、私の魂を揺さぶってくれるということである。もしからしたら人によっては、特定の誰かのあの表現が、変容へ向けての強力な引き金になるのかも知れない。今の私にとっては、それぞれの表現を読むことが、ますます、ある一つのことへの確信を深めていくようだ。

◆肉体も「自我」も、それらにまつわる一切も、遠くない将来に消えていく。消えていくものにしがみつこうとするから苦しみがある。消えていくものにしがみつこうとすることの絶対的矛盾。しかもそれが人間の性(さが)であるという矛盾。しかし、絶対的な矛盾だからこそ、そこに逆説的な転換も組み込まれている。それらに執着することを止めてしまえば、それらを超えて広がる「何か」が実感される。それを「不生不滅」「不増不減」といってもよい。タデウス・ゴラスは、それを「スペース」と呼ぶ。

「一つひとつの生きものの基本的な営みは、拡張することと収縮することです。広がることと縮むことと、言ってもよいでしょう。拡張した生き物は『スペース』となって四方に浸透してゆきます。」

「地獄さえも愛することができるようになれば、あなたはもう、天国に住んでいるのです。」
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風邪がようやく

2007年05月13日 | 読書日誌
5月6日に「数日前から喉の痛みがある」と書いた。喉の痛みはその後少し増したあと引いたが、その後は鼻水と軽い咳が続き、ようやく今日はよくなってきたところだ。ただ、いつもより少し睡眠時間を長くとったくらいで、仕事には別状なかった。

先週読んだ本では、『宇宙につながる気功レッスン』メグミ・M・マイルズ(地湧社2003年)と(『ブッダを語る』前田専学(NHK出版1996年)がそれぞれ違う意味で刺激になった。両方とも「読書日誌」の方にレビューを書いたが、かんたんに触れておく。

前者は、樹林気功や自発功などを中心に自身の体験から具体的に書いていて面白かった。気功と覚醒という観点からも興味深く、また私自身が自発功や樹林気功を行っていたので、刺激されて再開する気になった。

後者は、大乗仏教とテーラワーダ仏教の違いを考える上でも参考になった。もしかしたら、テーラワーダ仏教そのものが、初期のかんけつで素朴な経典の表現に対する、一定の解釈の上に成り立っているのかも知れない。その解釈において、大乗仏教との違いがより大きくなった?

瞑想の時間は多くなっている。日常の中での思考へサティも多い。この場で、何かしら具体的な気づきをレポートできるよう、日常生活そのものをもっと自覚的に生きたい。
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「物語」

2007年05月08日 | 瞑想日記
最近ガンガジの『ポケットの中のダイヤモンド』を読み直している。彼女がババジに出会って覚醒する経緯を「覚醒・至高体験事例集」に収録したいと思い、その準備もしている。

これまで様々な取組みをしてきた彼女は、パパジに「何もしないでいなさい」と言われる。それがきっかけとなって、これまで彼女が欲しがっていたすべてが「すでにここに、純粋で永遠なる存在の基盤として存在している」ことに気づく。

「このことに気づいたとき、私という存在の物語から、物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深みへと、驚くべきフォーカスの転換が起こりました。それは何という平安、何という休息だったでしょう! それまでにも私には宇宙との一体感や崇高な至福感を感じた瞬間がありまあしたが、これはまったくその性質が違っていました。それはいわば冷静な恍惚状態であり、その瞬間、私は「私」という物語に縛られてはいない! ということに気づいたのです。」

私は、ガンガジのいう「物語」という言葉が好きだ。結局、私が思考によって織り成す一切は、ひとつの「物語」にすぎない。自分が自分の都合にあわせて作り上げた「物語」。でありながらその「物語」こそこの世でいちばん大切なものと思い込んで、それに執着し、苦しみを生み出している。しかし、所詮それは「物語」に過ぎない。

「物語」は、いずれは消え去る。一夜で消え去る夢まぼろしと変わらない。しかし「物語」の底には、消え去らない無限の存在の基盤がある。「物語」が飛び散るように消えてしまうことで、かえって開ける無限の地平がある。

子供の頃、母が読んでくれた恐ろしい物語が終わってほっとしたように、私が今、夢中で織り上げている「物語」も、そこから解放されてしまえば、まったく別の、思考を超えた限りなく静かな世界が開けるのだろう。

「物語」という言葉は、そんなことまで予感させる言葉だ。
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読書、瞑想など

2007年05月06日 | 瞑想日記
少し日記を休んでいた。この間、読書に関しては充実していた。多くの本と出合い、視野が開けていく。こんな見方もあったのか、こんな方法もあったのかと「発見」する喜び。これからもますますそんな喜びが広がっていくだろう。昨日からフォットリーディングの本を読んでいる。読んではじめて従来のいくつもの速読法とは違う新しさがあることを知った。この本のことはまたあとで書くかもしれない。私にとっては、瞑想と読書とをどのように結びつけるかがひとつの課題となっている。

瞑想の時間は、連休だったこともあり、最近多い。それに伴ってサティも調子が上がればよいが。数日前から少し喉が痛かった。めずらしく風邪か、と思ったが、結局は喉の痛みだけで終わりそうだ。最近少し過食ぎみ。体重も増えた。瞑想とサティのためにも、明日から自重したい。

原始仏教と大乗仏教との違いという問題は、これからも私の中で気になり続けるだろう。しかし、そういう違いを違いとして意識することは、見方を相対化する。視野を広くする。自分に正直に、自分で確認していくほかない。

一つの立場に固執することが、対立や自己正当化や異なるものの排除を生んでいく。つねに開かれた態度であり続けること。
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