◆大方は平穏な日々であるが、もちろんその中に小さな苦しみ、ちょっとした怒りや不快感、永続的な心配事などはある。対人関係での怒りや不快感は、大切な学びの機会ではある。しかし日常の中で心随観がそれほど深まるわけではない。「怒り」とか「不快」とか表面的なサティをするだけになってしまうことも多い。せっかくの学びの機会を生かしきれていない。マンネリ、ワンパターン‥‥。
そんな時どうすればよいのか。ひとつは「怒り」や「不快」の大元である「自我」を意識することもかもしれない。実際に今日は、「そう感じている私」「自我」にサティした。しかしこれも頭のレベルでの「作業」のような感じがして、深まったとは言えない。
もうひとつは、「怒り」の状態をもっと細やかに感じ取りつつ、それを言葉で表現していく、ラベリングしていくことか。これは「怒り」をあるがままに気づいていくための大切なプロセスかも知れない。「怒り」を感じているときの体の状態に注目していくことも大切だ。「怒り」は体の状態と一体となっているからだ。
◆「高速回転読書法」は、私にとってはやはり読書法の画期的な変化だった。最近は、目次もせいぜい章を読むだけで、節の見出しは関心を引いたところをマークする以外は飛ばす。小見出しは実際にページをめくりながら読む。全体に2・3回目を通したあとに目次を見ると、全体を把握するのに効果的だ。
10分ほどで最後まで終わったときには、驚くべき量の情報がはいっている。読んでいなくともそのページで使われて主な語句は否応もなく目に飛び込んでくる。それだけでも自分にとって必要なことが書かれているかどうかが、ほとんど無意識のうちに判断されるのだ。
1回目だけではさほどではないにせよ、2回目、3回目と目を通すと、どこが必要でどこが必要でないか、ほぼ分かる状態になっている。自分でやってみて、それがとても印象的だった。逐語的に読んでいなくとも、それだけの判断ができる情報は入っているのだ。そのページだけをさっと見たのではそういう判断は難しいかもしれない。全体を通して見て全体を俯瞰する情報がかなり入っているからこそ、個々のページについての判断ができるのかもしれない。
このページを読まなくとも、本を全体にしっかり理解するのになんら支障ないということが手にとるようにわかる。もちろん分厚い研究書の場合は別かもしれないが。
そんな時どうすればよいのか。ひとつは「怒り」や「不快」の大元である「自我」を意識することもかもしれない。実際に今日は、「そう感じている私」「自我」にサティした。しかしこれも頭のレベルでの「作業」のような感じがして、深まったとは言えない。
もうひとつは、「怒り」の状態をもっと細やかに感じ取りつつ、それを言葉で表現していく、ラベリングしていくことか。これは「怒り」をあるがままに気づいていくための大切なプロセスかも知れない。「怒り」を感じているときの体の状態に注目していくことも大切だ。「怒り」は体の状態と一体となっているからだ。
◆「高速回転読書法」は、私にとってはやはり読書法の画期的な変化だった。最近は、目次もせいぜい章を読むだけで、節の見出しは関心を引いたところをマークする以外は飛ばす。小見出しは実際にページをめくりながら読む。全体に2・3回目を通したあとに目次を見ると、全体を把握するのに効果的だ。
10分ほどで最後まで終わったときには、驚くべき量の情報がはいっている。読んでいなくともそのページで使われて主な語句は否応もなく目に飛び込んでくる。それだけでも自分にとって必要なことが書かれているかどうかが、ほとんど無意識のうちに判断されるのだ。
1回目だけではさほどではないにせよ、2回目、3回目と目を通すと、どこが必要でどこが必要でないか、ほぼ分かる状態になっている。自分でやってみて、それがとても印象的だった。逐語的に読んでいなくとも、それだけの判断ができる情報は入っているのだ。そのページだけをさっと見たのではそういう判断は難しいかもしれない。全体を通して見て全体を俯瞰する情報がかなり入っているからこそ、個々のページについての判断ができるのかもしれない。
このページを読まなくとも、本を全体にしっかり理解するのになんら支障ないということが手にとるようにわかる。もちろん分厚い研究書の場合は別かもしれないが。