瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

ドイツ人巨匠が日本のサービスや清潔さに刺激されて傑作映画を! 役所広司主演『Perfect Days』

2024年01月28日 | 普通の日記
ドイツ人巨匠が日本のサービスや清潔さに刺激されて傑作映画を!
昨年12月22日に日本でも公開が始まった『Perfect Days』を見てきました。監督のヴィム・ヴェンダース (Wim Wenders)は、数々の受賞歴に輝くドイツ人巨匠です。1982年の『ことの次第』が、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。1984年の『パリ、テキサス』がカンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞。1987年、『ベルリン・天使の詩』ではカンヌ国際映画祭にて監督賞を受賞などです。そして『Perfect Days』は、2023年第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、役所広司が最優秀男優賞を受賞しました。

この監督が、東京を舞台に清掃作業員の平凡な日々を描いた『Perfect Days』を作ることになったのは、次のようないきさつによります。元々この映画は渋谷区内17箇所の公共トイレを新しいユニークなものに作り変えるプロジェクト「ザ・東京トイレット」のPRのために企画され、そこにドイツの映画界の巨匠ヴィム・ヴェンダース監督を迎えて作られたのです。当初は短いアート作品の製作を考えていたようですが、監督は、日本滞在時に受けたサービスや公共の場所の清潔さに感銘を受け、それを長編作品として再構想したというのです。

ヴェンダース監督が、日本で感銘を受けたサービスの質や公共の場の清潔さは、『Perfect Days』という映画の内容とどのようにつながるのでしょうか。まずこの映画の内容に触れたうえで、最後にこの問いに答えたいと思いすので、少しお付き合いください。

この映画のなかで役所広司が演じる平山という中年の男性は、スカイツリーが近くに見える押上の安アパートに一人で住んでいます。そして毎朝薄暗いうちに起き、ワゴン車を運転して仕事場へ向かいます。行き先は渋谷区内にある公衆トイレ。「The Tokyo Toilet」のプロジェクトで作られたユニークなトイレを次々と回り、隅々まで心を込めて磨き上げてゆくのです。

主人公の平山は、何かしらの過去があり、現在の孤独な生活に至りついたらしいことが暗示されますが、それが何であるかは語られません。彼はただひたすらに自分の仕事に打ち込みます。しかも、つねに何か満ち足りた表情をしています。それはまるで、禅の僧侶が、禅寺の中の雑務に修行として打ち込んでいる姿のようです。

それもそのはず、ヴェンダース監督は当初、平山に僧侶のイメージをだぶらせていたということです。しかし、過去に平山が僧侶だったというわけではなく、むしろ熱心なビジネスマンでありながら、心の中に虚しさを抱えているような男を想定しているようです。その虚しさが極限までに至ったとき、彼はこれまでの生き方をすべて捨て、トイレの清掃作業員として働くことを選ぶのです。

彼は、日々の生活の中で出会う木々を愛します。とくに昼休みに、樹木に囲まれた神社で見る木漏れ日の美しさを愛します。一瞬一瞬の木漏れ日の美しさは、彼がひたすらにトイレの清掃に励む姿と重なります。木漏れ日の一瞬一瞬の輝きの連続のような、トイレ掃除の日々。その姿が、禅寺でひたすらに座禅し、薪を割ったり、庭や廊下を掃除したりする僧侶の姿とも重なるのです。

ひたすらに座禅をする、それは只管打坐とも言われます。只管はひたすらとも読むのです。ひたすらに、只管に掃除をする平山の一瞬一瞬の充実。すべてを忘れて、自分の目の前の仕事にひたすらに、只管に打ち込む、それがそのまま悟りの姿なのだと仏教は教えます。それを意味するのが「修証一如」という言葉です。もっとも、平山自身はこんな言葉は知らないでしょう。ほとんどの日本人が、こうした言葉を歴史の背後に忘れ去っています。ただ、ビジネスマンとしての経歴を捨てて、一介の清掃作業員になったときに平山は、木漏れ日のように一瞬一瞬の輝きに生きることの充実を知ったのです。

そんな彼の、平凡ながら満ち足りた日々に、かすかな波風がたつこともあります。あまり仕事に熱心でない若い同僚の清掃員、そしてそのガールフレンドとのちょっとしたかかわり等々。

★以下は次の動画で御覧ください⇒ドイツ人巨匠が日本のサービスや清潔さに刺激されて傑作映画を!
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なぜ日本にキリスト教徒は少ないのか、海外からの厳しい反論

2022年02月19日 | 普通の日記
最近、このブログでの発信はほとんどしなくなっていたが、今はTwitterYouTubeチャンネルで世界に向けて発信するようになっている。YouTubeの方は、今まで実験的に、日本の寺社や観光地などを紹介する動画を作っていたが、徐々に日本文化ユニークさに切り込む動画も作成していくつもりである。

最近は、「日本はなぜキリスト教徒が少ない?――「もののけ姫」が語らなかったこと」”Why are there so few Christians in Japan? -What “Princess Mononoke” didn’t say.”という動画を作った。日本語の字幕も作ったのでぜひご覧ください。
 
なぜ日本にはキリスト教徒がこれほど少ないのか。その理由を縄文文化との関係や日本文化の母性原理との関係で簡潔にまとめました。縄文文化といっても外国の人びとには馴染みのないと思われるので、『もののけ姫』のストーリーに触れ、縄文文化への導入としました。

この動画での、私の主張の論点は、曖昧さの中にすべてを飲み込むような、縄文時代以来の日本文化の母性原理的な特性が、父性原理的で唯一神以外は受け入れない、排除的な宗教とは相いれないというものでした。

私の主張に対して二人の外国の人が反論してきました。私のFacebookアカウントで、この動画を紹介したので、そこでの反論です。その論点を簡単に紹介します。最初の反論は、以下のようなものです。

~~~なぜ日本にクリスチャンが少ないのかという質問に対する答えは、哲学的というよりも歴史的なものです。 キリスト教が(布教に)「失敗」したと言うことは、満州が単なる「事件」であったと言うようなものです。
1500年代半ばから始まって、過度に単純化するリスクを冒して、日本はキリスト教の世紀を迎え、信者の人口は増え続けました。 キリスト教が「失敗」した理由は、信者の不足によるものではなく、仏教の指導者たちがキリスト教徒全体を火とはりつけで全滅させ、キリスト教を禁止し、世界から孤立させたためです。
何百年もの孤立から発展した文化的な思い込みは非常に深いので、多くの人はそれらやそれらの思い込みの背後にある歴史に気づいていません。
~~~

一読してお分かりのように、明らかにキリスト教の側からの反論で、キリスト教は「善」、それを排除しようとした暴力的仏教は「悪」という前提の上に立っています。そして鎖国という孤立によって日本人は「文化的な思い込み cultural beliefs」に陥って、真実の歴史が見えなくなっているというのです。しかし、このような独善性こそ、日本人が嫌うもので、キリスト教が日本で受け入れられにくい理由がまさにそこにあるのだということに気付いていません。

これに対して私は、以下のように応答しました。

~~~14世紀末から15世紀初頭にかけてのキリスト教徒の割合は、当時の日本人人口の2%から4%と言われています。 キリスト教禁令と弾圧による犠牲者数は資料で確認できる人数は3,792人であり、実際の数は不明であるが、おそらくその数倍であっただろう。 多くの人が棄教したふりをして隠れキリシタンになりました。 秀吉だけでなく、その後の江戸幕府も260年間キリスト教を禁止しました。 それが、日本にクリスチャンが少ない理由のひとつとは思われます。 しかし、これだけでは、信教の自由が保証されている現代においても、日本人の1%しかキリスト教徒ではない理由を説明することはできません。~~~

つまり、秀吉の禁令や江戸時代の禁令は、日本にキリスト教が少ない理由の一つと言えるかもしれないが、それだけでは、現代日本においてもキリスト教が少ない理由は説明できない。そのもっと深い理由を、私は提示したのだということです。

この議論は、まだ少し続くのですが、長くなるので次回に回します。
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揺れる蓮の葉と彰義隊・YouTube動画作りで感じたこと

2020年10月22日 | 普通の日記
日本に関心を持つ外国人向けにYouTube動画を作り始めて感じたことを書く。昨日は、Ueno park・上野公園をアップした。少し前にアップしたのは、Kiyosumi Garden・清澄庭園である。もちろん、動画で解説する必要があるので、それぞれについてその歴史を含めた関連情報を調べる。そうすると、自分が今まで知らなかったことがいかに多いかを思い知る。

清澄庭園にしても、江戸時代の紀伊国屋門左衛門、明治の岩崎弥太郎などの関係人物、そして関東大震災で多くの命を救ったことなど、ずしりと重い歴史を背景にもっている。松尾芭蕉が隣接する深川の草庵に住み、そこから「奥の細道」の旅に出たことも忘れてはならない。つまり、ひとつの庭園の動画を作ることは、日本の歴史に深くかかわっていくことを意味するのだ。私は、そのことに大きな喜びを感じる。

上野公園にしても、そこは江戸時代、徳川家の菩提寺である寛永寺の広大な境内の一部であったこと。そして彰義隊がこの上野の山、つまり寛永寺の境内に立てこもって最後の抵抗を試みたこと、その結果、寛永寺内の多くの建物が焼失したことなど、深い感慨を感じつつ動画を作った。西郷隆盛の像は管理が行き届いているが、近くの彰義隊の墓は雑草も目立った。不忍の池の無数の蓮の葉が風に揺れる短い映像を挟んだが、上野の戦争で亡くなった人々への思いと重なりあった。

たとえ見る人は多くなくとも、これからも東京の日本庭園、公園そして寺社などの動画を作り続けるだろう。その解説で短く歴史や由来を語るごとに、私は日本の歴史、過去の日本の人々が生きた伝統に深くかかわっていとになるだろう。それは、多かれ少なかれ日本人の精神性に深くかかわっていくことを意味するのだ。

『臨死体験研究読本』の改訂版の出版も、日本文化と悟りという私の最近のテーマも、そしてYouTubeの動画作りも、私の中ではすべて一つの流れに合流していくような気がしている。

★最近、筆者がアップロードしたYouTube動画

→ Kiyosumi Garden・清澄庭園

→ Ueno park・上野公園

YouTube チャンネルはこちら → Spiritual Japan
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アクセス数が伸びない動画

2020年10月22日 | 普通の日記
上野公園を外国人向けに紹介するYouTubeビデオを作った。かなり時間をかけて作ったが前回の清澄庭園の動画に比べてアクセス数が伸びない。日本庭園の美しさにかなわないのだろうか。ちょっとがっかりだ。しかし、これにめげず、東京の大公園と日本庭園を紹介する動画は作り続けていくつもりだ。

YouTube動画 → Ueno park・上野公園
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母性社会日本の意味(2)

2020年10月18日 | 普通の日記
いま、「日本文化の母性原理とその意味」という論文を書いており、ほぼ完成した。ある紀要に発表する予定だが、ここではその結論部分だけ、二回に分けて掲載しようと思う。今回は、その後半である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

西洋近代における自然科学の急速な発展は、「近代的自我」の目覚めと無縁ではない。自我を自然対象と切り離し、客観的な観察対象とする姿勢は、観察の意志を持った自律的な主体の成立と分かちがたく結びついている。そして観察者の状況に左右されない「普遍性」をもった科学的な知は、その応用である科学技術と相俟って、全世界を席巻する強大な力となり、その結果、非西欧世界の大部分が植民地化されていったのである。

西洋のような父性原理の一神教を中心とした文化は、母性原理の多神教文化に比して排除性が強い。対立する極のどちらかを中心として堅い統合を目指し、他の極に属するものを排除しようとする。排除の上に成り立つ統合は、平板で脆いものになりやすい。キリスト教を中心にしたヨーロッパ文化の危機の根源はここにあるかも知れない。そして父性原理を背景とする西欧の「近代的自我」も同様の危機をはらんでいると言えよう。それは、ひたすら科学の進歩や経済の発展を目指して突き進む男性像が中心的なイメージとなっている。そのような自我のイメージと相容れない要素が、抑圧され排除される傾向が強いのだ。具体的には、女性的なもの、異質な文化、無意識、そして病や死だ。

これに対し日本人の精神性の根底には母性的なものが横たわり、物事を区分したり一つの極を中心して堅く統合しようとする傾向は弱い。むしろ両極端をも包み込んでいくような融合性、曖昧性を特性とする。父性原理の伝統に根差した近代西欧は、自我を対象から切り離し、客観的に分析する方法を徹底的に洗練させていった。それに対し母性原理の伝統に育まれた日本文化は、融合性や曖昧性、自然との一体性や、仏教で説かれるような宇宙との融合というあり方を洗練させたのである。

このような日本文化や日本人のこころの在り方は、その独特の美学とも結びついている。それが「曖昧の美学」だ。「曖昧」は成熟した母性的な感性であり、母性原理と結びついている。単純に物事の善悪、可否の決着をつけない。一神教的な父性原理は、善悪をはっきりと区別するが、母性原理はすべてを曖昧なまま受け入れる。能にせよ、水墨画にせよ、日本の伝統は、曖昧の美を芸術の域に高めることに成功した。それは映画やアニメにも引き継がれ、一神教的な文化とは違う美意識や世界観を世界に発信している。また日本が、かつては中国文明、さらには欧米の文明をほとんど抵抗なく吸収できたものこの融合性によるのかもしれない。

重要なことは、「日本的自我」の在り方を「近代的自我」と比較し、劣ったものとして批判することではない。むしろ、日本人の自我の在り方の特性を歪めずに、優劣の判断から自由に、事実として正確に把握することである。我々は、すでに西欧で生まれてた科学技術や社会制度を大幅に受け入れ、これからも受け入れ発展させ続けるだろう。それは父性原理も基づく制度を受け入れ、それを枠組みとする社会に生きているということなのだが、自分たちの特性を充分に理解しないまま受け入れたため、あちこちで混乱を生じているのも事実だ。その混乱を少なくするためにも、自らの在り方への十全な自覚がますます大切になる。その自覚によってこそ混乱への正しい対処法が生まれてくるのだ。

また、現代の国際関係は、父性原理の力学で動いているもの厳然たる事実だろう。そこに自らの母性原理を充分に自覚しないまま関わることで無用な混乱や不利益が生じている場合がある。国際関係で不利益を被らないためにも、彼我の違いを明確に認識しておくことが必要だ。先進7ヶ国首脳会議(G7)において、非キリスト教圏からの参加、つまり母性原理の国からの参加は日本だけである。その意味を自覚して行動すべきだろう。さらに言えば、自らの母性原理の在り方を充分に自覚し、それをこれからの世界にどう生かせるか、その積極的な意味を認識することが、今後の日本にとってきわめて重要な課題なのではなかろうか。

★最近、筆者がアップロードしたYouTube動画もご覧ください。

→ Kiyosumi Garden・清澄庭園

YouTube チャンネルはこちら → Spiritual Japan

《関連図書》
日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

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