瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

■深い出会いの場★心理療法と成長②

2004年10月23日 | シリーズ精神世界の旅
誰もがこんなこと恥ずかしくて言えないということを心のうちにたくさん持っていると思います。
私もそうです。 でもふつうは言いたくても言えない。

ところが思い切って語って見ると、とても共感され、受け入れられることが多いようです。
同じような思いを抱いている人が多いからではないでしょうか、実は私もそうだったと。
誰かが語りはじめることによってみんなが心を開いていくのです。
ある人の勇気ある最初の発言によってその場が開けるのです。

とくに職場や世間一般の場面では、役割的自己(ペルソナ)に生きているから、
そのイメージを外れることは言えない。 だから表面的なレベルでの出会いしかない。

ある人が内面の真実の思いを語りはじめることによって、
そこにより深い出会いの可能性が開けるのです。

そんな深い出会いを可能にするひとつがエンカウンター・グループです。
クライアント中心療法のロジャーズが、クライアント中心のアプローチをグループに応用して
発展させたのがエンカウンター・グループです。

エンカウンター・グループは、普通、10~15人ぐらいのメンバーとファシリテーター
(促進者、カウンセラーが担当する場合が多い)で一グループが構成されます。
合宿等で長時間 、一人ひとりが対等の人間として心を拓き、率直に語りあうのです。

職業、地位、年齢、性別など、異質性を多くもったグループの日常的な「仮面」と取り去った
「いま・ここ」での相互作用は、自分でも今まで気づかなかった自己にめざめ、
他者の真実に触れる機会となるのです。

その結果、他者への信頼感、自己への気づき、自己の統合、開かれた対人関係、
前向きの生活態度など、心理的に大きな変化を引き起こすことが多いようです。
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自分が「自分」になる★心理療法と成長①

2004年10月10日 | シリーズ精神世界の旅
生きていれば、辛く厳しい現実にでうることは、誰もでもある。厳しい現実のなかでのたうちまわり、ますます落ち込んでいく人がいる。一方で、それを乗り越えて成長していく人もいる。何かへのこだわりや執着から自由になれず、ますますがんじがらめになっていく人と、こだわりや執着から解放されて成長していく人と。では、どうすれば束縛やこだわりを手放しに出来るのか。 云いかえれば、どのようにすれば苛酷な現実を悲観的に受けとめず、前向きに生きていけるのか。

たぶん、自分を受け入れることができればできるほど、 それに応じて周囲の現実をも肯定的に見ることができるようになるのだろう。では、どうすれば自分を受け入れることができるようになるのか。

ひとつは、自由に自分を表現することが許される場で、あるがままを表現し、あるがままの自分が受容されたと感じることを繰り返すこと。 安心して自己探求し、表現することが許されること。

それは、「自分が"自分"になる」というプロセスであろう。その真意は、ロジャーズの次の言葉に端的に示されている。 「私が自分自身を受け入れて、自分自身にやさしく耳を傾けることができる時、そ して自分自身になることができる時、私はよりよく生きることができるようです。‥‥‥言い換えると、私が自分に、あるがままの自分でいさせてあげることができる 時、私は、よりよく生きることができるのです」

では現実の、あるがままの自分を心の底から認め受け入れた時、どのよう な変化が生じるのか。ロジャーズの言葉では、次のように表現されている。

1)自分で自分の進む方向を決めるようになっていく
2)結果ではなく、プロセスそのものを生きるようになる
3)変化に伴う複雑さを生きるようになっていく
4)自分自身の経験に開かれ、自分が今、何を感じているかに気づくようになって いく
5)自分のことをもっと信頼するようになっていく
6)他の人をもっと受け入れるようになっていく  

こういうあり方自体が、きわめてスピリチュアルな方向を指し示している。しか もロジャーズは、来談者中心のカウンセリングでの、クライエントの変化そのもの から、こうしたあり方を学んでいったのだ。(続く)
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変容の場が開かれる★ヴィパッサナー瞑想と心理療法④

2004年09月26日 | シリーズ精神世界の旅
カウンセラーが来談者の話を聴く姿勢は、実に深くヴィパッサナー瞑想に通じている。

事実をあるがままに観察していくのがヴィパッサナー瞑想だ。すべての現象を公平に、等価に、自我による取捨選択なしに(エゴレスに)サティ(気づき)を入れ受容していくというヴィパッサナー瞑想は、そのままカウンセラーが来談者の話を聴く態度だといってよい。

自我による取捨選択や歪曲、無意識のとらわれによる投影があっては、あるがままのその人を受容することはできないからだ。限りなくエゴレスに人の話を聴けるようになることが、何よりもカウンセラーに要求されるのである。

『「今」に生きるための方法の一つは、人のいうことに心から耳を傾けることです。一つ一つの会話を大切にして、新たな気持ちで相手がどんなことを伝えたいのかを、「本当に」聞こうとすれば、あっという間に人生を変えることができます。』とは、エリエール&シーヤ・カーンの言葉だ。

過去や未来への執着から自由に聴くことができるならば、そこに来談者が変容するための場が開かれるが、それはまた聴く人の自己変容のための瞑想の場でもある。
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きめつけ、類型化で聴かない★ヴィパッサナー瞑想と心理療法③

2004年09月26日 | シリーズ精神世界の旅
心の悩みで相談を受たとき、いちばん大切なのは自分自身の色眼鏡からどれだけ自由に聴けるかだろう。
 
あらかじめ出来上がった心の中の枠組みから自由に相手の話を聴いていると、この世界に二人といない、その人だけの感じ方や思いに触れていくことになる。その人の内側から聴く。その人自身の感じ方や考え方になって感じ、考える。
 
そういう聴き方ができたとき、その人が嫌いになるということはまずない。むしろその人独自の感じ方、考え方にかぎりない共感を感じるようになることが多い。

その正反対が、きめつけ、類型化、臆見、先入見の類いだ。あらかじめ出来上がった枠組みで歪めて現実を見てしまう。生身のその人が見えなくなる。

ヴィパッサナー瞑想は、無選択的にエゴレスに事実を認識することを強調する。それは、まさにカウンセラーが、来談者の話を聴くときのもっとも大切な態度と一致する。
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自我による抑圧なしに★ヴィパッサナー瞑想と心理療法②

2004年09月22日 | シリーズ精神世界の旅
 ヴィパッサナー瞑想では、ひとりでもなぜ自己洞察が深まるのか。おそらく一つの理由は、心随観がヴィパッサナー瞑想のシステムの一部であり、その全システムの力に支えられて効果を高めるからだ。
 たとえば身随観と心随観とは、相補的な役割を果たしている。身体のセンセーションに集中する(身随観)とき、逆にそこからはずれる心の動きは鮮明に浮かび上がってサティを入れやすくなる。そうした訓練が、一刻一刻の心の動きへの洞察をめざす心随観にも影響を及ぼす。つまり、あるがままの心の動きに気づき、それを受容する力が増す。そして日常生活のなかで激しい感情に囚われたときでさえ、深い気づきが可能になっていくのだ。
 やや別の観点から整理すれば、自我の編集作業なしにあるがままのセンセーションに気づく訓練(身随観に代表される)は、自我による抑圧なしにあるがままの自分の姿を認める自己洞察と不可分に結びついている。自我による外界の歪曲と、自我による内界の抑圧という二つの事実の深い関係は、心理療法の世界でもよく知られている。しかし心理療法はふつう、内界の抑圧への働きかけしかしない。
両者を平行して行う方法、しかもセンセーションへの集中が内界の動き(抑圧されていた感情に基づく雑念・妄想)を浮き上がらせるところを見逃さず、それを巧みに「利用」するという「斬新な!」方法。これが心理療法にとっていかに「画期的な」方法と映るか、ご理解いただけるだろうか。
 以上は、おそらくヴィパッサナー瞑想のシステム全体の相互作用の一端にすぎないだろう。しかし、こうした相互作用があるからこそ、この瞑想を一人で行っても深い自己洞察に至ることが可能になると信じる。少なくともその一つの理由ではあるだろう。
 私は、現代の心理療法と比較することで逆にこの瞑想法が、心理療法とは比較できない奥深い基盤に立った、きわめて洗練された体系的な方法であることが際立つだろうと直感している。ヴィパッサナー瞑想を実践的に学びながら、そうした比較による考察の作業を少しづつ行っていければと思う。
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