瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

人生と思い

2009年05月31日 | 瞑想日記
◆心になぜ様々な思いが生じてくるのだろうか。とてもシンプルな問いだが、その意味はかぎりなく深い。人は、生きているかぎり様々なことを思う。それは、自分の思いであり、自分の自由意志で様々なことを思念しているように感じられる。しかし一方で思念は、かぎりなく自分コントロールを超えているようにも感じられる。自分でも気づかぬうちに思いがどんどん展開していくし、数秒前に考えていた内容を忘れている場合もある。自分が今、なぜこんなことを考え始めたのか分からない場合も多い。私たちは、ほとんど無自覚的に無数の思いを繰り返しながら人生の大半をすごす。思いに振り回されながら人生を送っていると言ってもよい。

だからこそ、かってに展開する思いを観察し、それを静め、思いを超えたところに何があるのかを見きわめたいと願うのだ。心は、ほとんどの場合、無数の思いとそれにまつわる感情で大賑わいだが、それらが静まったときの心とは何なのか。ほとんどの人生が、思いに支配された人生なのだとすれば、思いを超えた地平を見ることは、人生の一大事だろう。

◆エックハルト・トール『Stillness Speaks: Whispers of Now』(訳書は、『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』)より

When each thought absorbs your attention completely, it means you identify with the voice in your head. (P29)

「もし、ひとつひとつの思いに、完全に注意を奪われてしまっているなら、それは頭の中の声と自分とを同一視していることを意味する。」

When you recognize that there is a voice in your head that pretends to be you and never stops speaking, you are awakening out of your unconscious identification with the stream of thinking. (P29)

「『まるで私自身であるかのように振る舞う、頭の中の声があって、話すのを少しも止めない』ということに、あなたが気づくなら、思考の流れを無意識のうちに自分と同一視することから、目覚めようとしていのだ。

思いに完全に注意を奪われているときは、思いに振り回されているときだろう。しかし私たちは人生の大半をそのようにして過ごす。頭の中の声(思念)と自分を同一視しながら、頭の中の声は自分のコントロール下ににない。声(思念)は、私自身にも測り知れない何かの力によって活動しているのだ。だからこそ、思考の発生から消滅までを見きわめることが人生の一大事だのだろう。
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思考への衝動に気づく

2009年05月30日 | 瞑想日記
瞑想しているときに、思考を否定するのではなく、それに気づき、受容することが大切なのだという姿勢は、つねに忘れないよう心がけている。

自己への気づきのきっかけを与えてくれる。今日、午前中に瞑想していて、あらためて確認したことは、思考への衝動、思考したいという欲求そのものにつねに気づき、確認することの大切さだ。思考が始まってからそれに気づくのも大切だが、一方で、思考に向かおうとする欲求、エネルギーそのものにつねに気づいているということ。

心の底から湧きあがって来る思考への衝動に、より深く明確な気づきを入れる。するとその衝動にも、そのつど微妙な質の違いがあることに気づくだろう
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苦痛のなかに

2009年05月27日 | 瞑想日記
◆エックハルト・トール『Stillness Speaks: Whispers of Now』(訳書は、『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』)より

Even within the seemingly most unacceptable and painful situation is a deeper good, and within every disaster is contained the seed of grace.(P70)

「一見もっとも受け入れがたく苦痛に満ちた状況の中でさえ、より深い意味の善が存在し、あらゆる災難の中にも恩寵の種が隠されている。」

☆ここ数日は、ページ順に進んでいたのだが今日はあえてすこし飛ばしてこの文を取り上げたかった。自分の中の小さな苦痛が、また大きくなりつつあるからだ。苦痛は私の意識に、早く目覚めよと訴えかけてくるようだ。受け入れがたい苦痛は、多かれ少なかれ死を先取りして、私に目覚めを促そうとしているのだと思う。身に着けている一切の無駄を打ち棄てて、本当に大切なことだけのために生きよ、と。

限りある命の今への自覚が深まれば深まるほど、今が他の時間への通過点ではなくなり、かけがえのない今であることの重みを増していくのだろう。今が聖なる今になるということは、そういうことなのだろう。
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今に心を込める

2009年05月26日 | 瞑想日記
◆エックハルト・トール『Stillness Speaks: Whispers of Now』(訳書は、『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』)より

When you step into the Now, you step out of the content of your mind. The incessant stream of thinking slows down. Thoughts don't draw you totally. Gaps arise in between thoughts ---- spaciousness, stillness. You begin to realize how much vaster and deeper you are than your thoughts.

「『今』に立ち入るとき、頭の中の思考から踏み出ることになる。たえず考え続けていた思考の流れが、スローダウンする。思考が注意を独り占めすることがなくなる。思考と思考の間にギャップ、つまりスペース、静寂が生じる。するとあなたは、あなたが思考よりもどれほど巨大で、どれほど深いかということに気づきはじまる。」

18日付けのブログで「結局のところ、この瞬間に――「いま」に責任をとらないかぎり、あなたは自分の人生に責任をとっていないのだ」という言葉を紹介したが、「責任をとる」ということの意味が少し気になっていた。

それは、どんな小さなことでも、今行っているひとつひとつのことに心を込めるということだろう。そのとき思考しているとすれば、それは多かれ少なかれ、今この瞬間に行っていることからずれている。心がどこかに飛び、「今」がおろそかになっているということなのだ。

「責任をとる」ということのもうひとつの意味は、限りなきいのちの「今」を生きていることの不可思議、その神聖さを自覚して生きるということだ。

ところで心に響いた英文をタイプし、意味を考えながら訳し、それにコメントをつけるという作業は、思っていたよりもずっと自分自身に影響を与えているようだ。日常生活の中でも気づき、サティも多くなっている。少しでも多くの時間に「責任をとる」ことができるようにしている。マインドフルな時間が少しは多くなっている。
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人生は聖なるもの

2009年05月25日 | 瞑想日記
◆エックハルト・トール『Stillness Speaks: Whispers of Now』(訳書は、『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』)より

The moment you enter the Now with your attention, you realize that life is sacred. There is a sacredness to everything you perceive when you are present. The more you live in the Now, the more you sense the simple yet profound joy of Being and the sacredness of all life.(P44)

「注意をもって「今」に立ち入った瞬間に、人生が聖なるものであることに気づく。あなたが現在にいるかぎり、あなたが知覚する一切に聖性が宿る。「今」に生きれば生きるほど、存在することのシンプルで深い喜びと、一切の命あるものの聖性を実感する。」

「今」に生きるということは、未来も過去も放棄するということ。自分の命を「今」にあずけてしまうということ。日々、それがどれだけ出来るかが問われる。「今」にすべてを明け渡してしまえば、「今」が至上の喜びとして、他の何ごとにも代えがたい神聖な瞬間として姿をあらわすのだろう。

「今」が、未来への手段ではなく、純粋にそれだけのためにあるなら、それだけのために生きられるなら、一瞬一瞬が聖なる「今」になるのだろう。
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