瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

七覚支08(In This Very Lifeより)

2006年02月12日 | In This Very Lifeより
久しぶり(ほぼ一ヶ月ぶり)にSayadaw U PandiraのIn This Very Lifeのなかの七覚支について解説した章を取り上げる。この場でその内容をあくまでも私自身の実践上の関心から要約し、感想を付け加えたりしながら、紹介しするという作業である。(客観的なまとめではなく個人的な関心からのノート程度のものであり、まとめについての責任は私にある。)

七覚支は次のようなものであった。

1)念覚支
2)択法(ちゃくほう)覚支
3)精進覚支
4)喜の覚支
5)軽安覚支
6)定の覚支
7)捨の覚支

現在2)択法(ちゃくほう)覚支のところを取り上げている。

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◆択法覚支Investigationの原因
択法覚支Investigationは、どのようにして起こるのか。ブッダによれば原因は一つである。自然に湧き起こる洞察、直接的な知覚である。そのような洞察を実現するためには、マインドフルネスを活性化しなければならない。そうすれば、心は現象の本性への洞察を得るであろう。そのためには、賢明で適切な注意が必要なのである。心を対象にマインドフルに向かわせるのである。そうすれば、最初の洞察、直接的な知覚を得るのである。

択法覚支Investigationが起これば、さらなる洞察は、子どもが幼稚園から高校、大学へと進むように、自然に順番に続いていくのである。102
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要するに思考を介在させずに直接的に知覚するということだろう。日々の瞑想、あるいは日常生活の中でのサティあるのみ。瞑想では、思考が湧き上がってきたら「思考」とサティし、直接的な知覚に戻る。腹の膨らみなら膨らみに戻る。そのシンプルな繰り返しである。その繰り返しのなかで徐々に思考が少なくなっていく。思考に邪魔されずに腹の動きそのものを見るようになる。そうくことを繰り返すなかで、直接的な知覚が何であるかが分かっていくのであろう。
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七覚支07(In This Very Lifeより)

2006年01月15日 | In This Very Lifeより
2)択法(ちゃくほう)覚支(続き)
◆究極のリアリティ
択法覚支investigationは、われわれに究極のリアリティを示す。究極のリアリティは、概念の省察を通さず直接に経験される対象のことであり、物質的対象、精神的対象、およびニッバーナの三種がある。

腹の膨らみ縮みを観察していると、二種の違ったプロセスが起こっていることに自然に気づく。ひとつは、緊張や運動というセンセーションであり、物質的な現象である。もうひとつは、対象に気づく心、意識である。ここに物の本質への洞察がある。

瞑想を続けていると、別の種類の洞察が起こる。一切のダンマが、無常、不完全性、無我という特徴を分けもっていることが分かるのである。択法覚支のこの要素によってニッバーナが何であるかへの理解に導かれるの。この洞察が成熟することによって知恵がニッバーナを貫くに至る。このとき、ダンマという語はニッバーナを指すことになる。

このときニッバーナは、知覚されうる現象と共通の一切の特徴をもたず、永遠性、苦悩のなさ、至福などの独自の特徴をもつ。その時、ニッバーナは、無我と呼ばれるが、通常の現象と違って、苦痛や無常の上にではなく、至福と永遠性の上に成り立つ。心がニッバーナを貫くとき、この区別は明らかになる。
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七覚支06(In This Very Lifeより)

2006年01月09日 | In This Very Lifeより
2)択法(ちゃくほう)覚支dhammavicaya-sambojjhanga
英語ではinvestigationとなっている。ただ瞑想におけるinvestigationは、思考によってなされるものではない。それは現象するものの特性についての直感的な洞察である。洞察は、一言でいえばダンマ(現象、こころ、もの)についての洞察なのだが、択法においてはさらに特別な意味があるという。個々の対象にユニークな状態や性質である。つまりヴィパッサナー瞑想の実践によって対象の共通の特性とともに個別的な特性も明らかになっていくのである。択法覚支によってダンマの真の性質が明らかになる。

◆暗闇を排除する
dhamma vicayaがあるところ、気づきの領野が照らし出される。それによって観察対象が照明されて、その真の性質が理解される。高度なレベルでは、周囲の闇が完全に排除され、心はニッバーナまでを貫く。

◆混乱をなくす
真っ暗な部屋を移動しようとすると、どこかにぶつかりはしないかとこころが混乱してしまう。同様にdhamma vicayaがないと、修行者の心は、湧出する疑いにカオスと混乱の状態となる。魂はあるのか、無常や苦の教えは真実なのか、実体としての自己は存在するのではないか、ニッバーナなどおとぎ話の類ではないか等々。

dhamma vicayaがあれば、すべては明るく照らされて、こころは存在するものを明確に見ることができる。心的、物質的現象の本性を理解する。もはや壁に突き当たることはない。

☆スマナサーラ長老の『ついに悟りを開く・七覚支瞑想法』での記述と比べて見よう。サティが充分に出来るようになると、いきなり「なるほど、こういうことなのか」と見えてくるものがある。たとえば聞こうとする意識、音、音に伴う感情、それらが分離してはっきりと認識できるようになる。それが択法の意味だ。

たとえば「痛み」と観察をして、頭で分析するのではなく、「気づき」だけをしていると、自動的に瞬間的に「分析的に」に純粋な痛みと心による付加との違いが見えてくるのだという。

いわゆる「行住坐臥」の四つをきちんとサティしていくと、やがて「身体という物質の働き」と「心という精神的な働き」の波は、しっかりと区別して認識できるようになる。心と身体の働きが別々にきれいに見えてくる。つまりナーマ・ルーパの区別である。

こうして比べて見ると、択法(ちゃくほう)覚支の意味がより明確になるだろう。
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七覚支05(In This Very Lifeより)

2006年01月08日 | In This Very Lifeより
◆マインドフルネスを促進する他の方法
マインドフルネスを強化する方法が、さらに四つあるという。

1.ひとつはsatiampajannaであり、気づきと明晰な理解と訳される。satiは、正式な座禅中に活性化されるマインドフルネスであり、ampajannaは、もっと広い地盤に立つマインドフルネスである。歩行したり身体を伸ばしたり折り曲げたり、曲がったり、一方を見たり等々、日常生活を織り成す活動へのマインドフルネスである。

2.マインドフルでない人々を避ける。

3.マインドフルな友人を選ぶ。

4.心をマインドフルネスへと向ける。つまり、意識してマインドフルネスを最優先する。どんな状況においても心がマインドフルになるよう注意している。マインドフルネスを深めることがむずかしい活動は避ける。修行者に要求されるのは、この瞬間に起こっている一切に気づいているということである。

☆ひさしぶりになったが、In This Very Lifeを読んでまとめる作業は、地道にやっていくつもいである。
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七覚支4(In This Very Lifeより)

2005年12月28日 | In This Very Lifeより
1)念覚支(続き)
◆四諦を理解する
修行者は、すべての肉体的・心理的現象が苦という性格を分け持つことを理解するであろう。つまり苦諦が理解される。すると他の三諦も理解される。なぜならマインドフルネス(気づき)があるとき、渇愛は生じない。渇愛は苦の根であり(集諦:じったい)、渇愛が捨てられれば苦も消える。こうして無知や他の煩悩が消えれば、苦の滅(滅諦)が実現される。第四の道諦を理解することは、八正道を発展させることにかかわる。八正道の発展は、気づきの一瞬一瞬に同時的に起こる。

それゆえ、気づきと知恵があれば四諦は、あるレベルにおいて理解される。マインドフルネスは、リアリティの本質への洞察を含む意識の一部であり、悟りの知の一部なのである。こうしてマインドフルネスは、悟り(覚)の一部(支)なのである。

◆気づきが気づきの原因である
気づきの最初の原因は、気づき以外の何ものでもない。もちろん、初心者の弱い気づきと、悟りに至るような高度の気づきとがある。実際においては、ある瞬間の気づきが次の気づきを生むことで、気づきが発展していくのだ。

☆マインドフルネス(気づき)が、いかに大切であるかを改めて思う。そしてマインドフルネスは、苦諦を洞察するところまで深められなければならないということである。

もうひとつ確認したいのは、ヴィパッサナー瞑想では、悟りへの道が段階的、発展的なものとして理解されているということである。これは、たとえばクリシュナムルティなどとは、根本的に異なる点だろう。
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