最近、サティの持続力が落ちてきている。今日も、職場と駅の間の20分の歩行中、サティが続かない。行き帰りとも、想念の団子が数個連なったところでハッと気づくような状態だ。
仕事中も少し前までは、廊下ですれ違った人との関係でかすかに心をよぎった想念にもサティが入り、「ああ、こんな風に感じていたのか」と新たな発見があったりした。これまでなら見過ごしていたような想念にサティが入っていくので、サティが確実に微細な思考・想念と捉えはじめた、という感覚があった。
しかし、ここ2・3日は、気づかぬ間に想念が連続したあとに、やっと鈍重なサティが入るような感じだ。どうしてこうなったのかは分からない。とくに心に引っかかる問題があるわけではない。
しかしあまり悲観はしていない。めげずに続けていれば、再びサティの切れが戻ってくるだろう。
ドアの開閉、スイッチを入れたり切ったり、イスから立ったり座ったり、そうした何度も繰り返される動作でのサティも忘れがちだ。パソコンの前でちょっと作動を待つ時間などに目を閉じて腹の動きに注意を向けたりして、サティの持続力を取り戻す工夫をしている。
もうひとつの工夫は、「今」を何かの手段にしていないかをたえずチェックすることだ。何らかの目的の手段として「今」を使っているとき、そこにはすでに「何かのための今」という想念がすでに入り込んでいる。
未来の目的のために今何らかの行動をしていてもよい。しかし同時に、限りあるいのちに与えられた「今」の不可-思議と神秘とを一瞬一瞬確認しつつ、今を生きること。それが、どれくらい徹底できるかは分からないが、こういうあり方自身に間違いはないはずだ。
仕事中も少し前までは、廊下ですれ違った人との関係でかすかに心をよぎった想念にもサティが入り、「ああ、こんな風に感じていたのか」と新たな発見があったりした。これまでなら見過ごしていたような想念にサティが入っていくので、サティが確実に微細な思考・想念と捉えはじめた、という感覚があった。
しかし、ここ2・3日は、気づかぬ間に想念が連続したあとに、やっと鈍重なサティが入るような感じだ。どうしてこうなったのかは分からない。とくに心に引っかかる問題があるわけではない。
しかしあまり悲観はしていない。めげずに続けていれば、再びサティの切れが戻ってくるだろう。
ドアの開閉、スイッチを入れたり切ったり、イスから立ったり座ったり、そうした何度も繰り返される動作でのサティも忘れがちだ。パソコンの前でちょっと作動を待つ時間などに目を閉じて腹の動きに注意を向けたりして、サティの持続力を取り戻す工夫をしている。
もうひとつの工夫は、「今」を何かの手段にしていないかをたえずチェックすることだ。何らかの目的の手段として「今」を使っているとき、そこにはすでに「何かのための今」という想念がすでに入り込んでいる。
未来の目的のために今何らかの行動をしていてもよい。しかし同時に、限りあるいのちに与えられた「今」の不可-思議と神秘とを一瞬一瞬確認しつつ、今を生きること。それが、どれくらい徹底できるかは分からないが、こういうあり方自身に間違いはないはずだ。