瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

気づきの切れが戻るまで

2006年11月29日 | 瞑想日記
最近、サティの持続力が落ちてきている。今日も、職場と駅の間の20分の歩行中、サティが続かない。行き帰りとも、想念の団子が数個連なったところでハッと気づくような状態だ。

仕事中も少し前までは、廊下ですれ違った人との関係でかすかに心をよぎった想念にもサティが入り、「ああ、こんな風に感じていたのか」と新たな発見があったりした。これまでなら見過ごしていたような想念にサティが入っていくので、サティが確実に微細な思考・想念と捉えはじめた、という感覚があった。

しかし、ここ2・3日は、気づかぬ間に想念が連続したあとに、やっと鈍重なサティが入るような感じだ。どうしてこうなったのかは分からない。とくに心に引っかかる問題があるわけではない。

しかしあまり悲観はしていない。めげずに続けていれば、再びサティの切れが戻ってくるだろう。

ドアの開閉、スイッチを入れたり切ったり、イスから立ったり座ったり、そうした何度も繰り返される動作でのサティも忘れがちだ。パソコンの前でちょっと作動を待つ時間などに目を閉じて腹の動きに注意を向けたりして、サティの持続力を取り戻す工夫をしている。

もうひとつの工夫は、「今」を何かの手段にしていないかをたえずチェックすることだ。何らかの目的の手段として「今」を使っているとき、そこにはすでに「何かのための今」という想念がすでに入り込んでいる。

未来の目的のために今何らかの行動をしていてもよい。しかし同時に、限りあるいのちに与えられた「今」の不可-思議と神秘とを一瞬一瞬確認しつつ、今を生きること。それが、どれくらい徹底できるかは分からないが、こういうあり方自身に間違いはないはずだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思考という愚かな中毒

2006年11月27日 | 読書日誌
昨日、エックハルト・トールのStillness Speaksを読んでいた(『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』はその翻訳)。その中にこんな言葉があって、かなり印象を受けた。

The human condition : lost in thought.

「人間の条件:思考の中で迷子になること」とでも訳すのだろうか。「思考の中で自失すること」「思考の中で迷うこと」などという訳も可能だろうか。いずれにせよ。英語で読んだときの「まさにその通りだ」という印象は薄れる。

それにしても、翻訳ではこの言葉にあたる文章を読んだ記憶がない。読んでいれば印象に残るはずだと思ったら、やはり省略されていた。なぜこの大切な言葉を省略したのかは不明だ。

私たちは、思考するがゆえに迷っている。自分の心を占領しつづける愚かしい無数の思考に気づけば気づくほと、思考の中に迷っているのが私たちであることは、ますます分かる。問題は、思考に迷う愚かさへの気づきが、まだまだ甘いということだろう。

今日は一日、思考という愚かな中毒のなかにどっぷりと浸かっていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダイビングの夢

2006年11月26日 | 夢日記
この数週間の間に立て続けに何人かの同僚の夢を見た。Aさん、Bさん、Cさん、Dさんの4人。いずれもその人との、日常意識しているよりは深層の関係を示唆するような内容だった。

たとえばBさんが登場する夢では、Bさんが自転車のサドルに乗り、私が荷台に座ってハンドルに手を伸ばして自転車をこいでいた。ちょうと子供を乗せるようにして。Bさんは少し恐がっていたが、坂道をスピードをつけて下っていった。ちょっとした冒険心が刺激されて楽しかった。ふだんそれほど親しくないBさんなのに不思議だった。

先週ごろにDさんの夢を見た。Dさんに誘導されてダイビングした。深いプールのようなところだったかも知れない。練習もなくいきなりだたので不安だったが、スーッともぐっていった。急に少し苦しく不安になって、横の脱出溝から脱出し、ほっとした。

今朝ほどまたDさんの登場する夢を見た。私が本を読んでいると、Dさんも参加して読書会をしたいと申し出があった。私が読んでいたのは哲学通史の本だったので、Dさんと読むにはふさわしくないと思った。Dさんには心理学の本がよいのではないかと思い、いろいろ探して迷っているうちに夢から醒めた。

Dさんとのダイビングの夢は、彼との関係で私が自分の心の深層の何かしらに気づく可能性があることを示唆しているのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「自我」が機能する現場に気づく

2006年11月24日 | 瞑想日記
昨日は、サティの調子を崩した。座禅をしていも最初は「やりたくない」という気持ちが強く、しばらくはその気持ちにサティをしていた。そのうちの脳が静まった状態になったが。しかし座禅が終わるとまた、サティはほとんどできなかった。

今日は、起床時からサティを取り戻した。通勤途中、新聞や本を読んでいるときはサティはできないが、それ以外、電車を待っていたり、電車の中に入ったり、カバンから本を出したりという動作にはサティを入れた。

仕事中の動作にも以前に比べるとかなりサティが入るようになっている。そして私にとって何よりも重要なのは、全体として想念・思考に気づくことが多くなっていることだ。無数の想念のうちの何パーセントかは分からないが、ともあれ思考する現場に気づいて、確認することができる。「もう、お手上げ状態ではない」という自信から来る喜び。(しかし、そこに慢心が入ることに注意してサティ。)

「自我」は、想念・思考という形で自ら機能する。自分の想念・思考に気づくということは、「自我」が働いている現場に気づくということだ。

瞑想が、「自我」の束縛から自由になることを目指すのであれば、今、まさに働いている「自我」そのものに気づく必要がある。その存在に気づかなければ、そこから解放されることもない。だからこそ、思考する現場に気づくということが大切なのだ。

湧き出る想念・思考が「自我」のどのような欲求や必要からなされているのかを一つ一つ確認することも大切だ。「思考」とサティが入ったときは、できるかぎりその思考の元を確認する。

「自我」がまさに機能している最中に「自我」の存在に気づくことは難しい。書いたり、おしゃべりしているときには、「自我」が気づかれぬままに独走していることが多いから要注意だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すべてを意識下に

2006年11月23日 | 読書日誌
以下は、井上希道著『座禅はこうするのだ』からの引用である。この本につては、11/14付けの日記ですでに紹介した。ヴィパッサナー瞑想にも通じるものがあり、自分の修行にとって大いに刺激となった。

「‥‥何時までたっても想念が想念を刺激して連続していく、取り留めのない観念現象」を破壊することが大切だという。そのために、「自分の意識する内容も感情も、一挙一動全体が見えなければ話にならない。‥‥だから、自分のしつつある行為にしろ感情にしろ、或いは想念にしろ、しているすべてを意識下に治めることである。ということは、自分が、今、しつつあるその事に徹底注意し尽くすことである。散漫・拡散と反対の精神行為とみればよい。」

私は学生のころ心理療法に引かれると同時に禅にも引かれた。その後ずっと関心は持ち続けているが、参禅の経験はほんのわずかしかない。禅は私にとって敷居が高すぎる。今でもそんな感じがある。

しかし、ヴィパッサナー瞑想なら自分でもできるという感じがあった。上の文章で言えば、「しているすべてを意識下に治める」などということを、ただ求められても途方にくれるだけだったろう。しかし、ヴィパッサナー瞑想には、サティ、ラベリングという方法がある。「今、しつつあるその事」を言葉で確認していく(ラベリング)ことで徹底注意し尽くす(サティ)という方法だからこそ、私にも一歩を踏み出すことが可能だったのだ。

「歩行においても同じ事で、意識が歩くのではない。トイレに行くために立てば、体も足も自ずから歩行をするようになっている。この時、歩行そのもの、一瞬一瞬前後する足そのもにに注意して、他の念・相・観といった心的作用を一切加えないことである。その歩行の事実だけを完全に意識下にて統理し、見守り切ることである。そのためには、速度を十分の一に落として凝視しなければ、心は何処かよそへ行ってしまう。‥‥猛然と一瞬一呼吸一足に、全自己を蕩尽するのが禅修行として一番よい。」

これはまさにヴィパッサナー瞑想でいう歩行瞑想である。しかし、ヴィパッサナー瞑想にはラベリングという手がかりがあり、想念が連鎖したときには、心随観という方法もある。禅よりもきめ細かい方法が容易されている。

ヴィパッサナー瞑想の道を歩んだからこそ、禅が目指すところも手が届かない感じはしなくなったのである。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする