◆なぜあの女性徒だったのか(続き)
多くの場合、アニマは男性のこころの中の抑圧されたもの、その男性にとって弱い部分(劣等機能)と結びつきやすいという。たとえば、思考型の男性は、彼の中の弱い部分、すなわち感情機能がアニマと結合している。堅い人で通っていた学者が娼婦型の女性に心を奪われたり、ドン・ファンとして知られた男性が、ただ一人の清純な女性に一途な愛を捧げたりするのも、そうしたアニマの外界への投影であったりする。(アニマの説明は、河合隼雄『ユング心理学入門』を参考にした。以下同様)
私も、思考型といってよいだろうから、感情機能が豊かな女子生徒に何らかの投影が働いたのかもしれない。あるいは、教師としての社会的な役割や規則に縛られている私の抑圧している面がアニマと結びつき、縛られずに生きる女子生徒に投影されたのかもしれない。また地橋先生が指摘していたように、彼女の中にはただおきゃんなだけでなく意外と素直で真面目な部分も隠されいて、そんなところを私が感じ取っていたのかもしれない。いずれにせよ、自覚されないいくつかの要素がからみあって、私の中のアニマが彼女に投影された。彼女にとくに好き嫌いの感情をもっていなかっただけに、ちょっと不思議な感じは残る。
◆アニマの多様性
ところでユングによると、アニマは4段階を経て発展していく。第1は生物学的な段階、次はロマンチックな段階、そして霊的(スピリチュアル)な段階、最後は叡智の段階である。
生物学的な段階では、女の子を生む機能、性の面が強調され、イメージとしては娼婦が出現する場合が多いという。次のロマンチックなアニマは、西洋の文学が多く描いてきた、一個の人格として恋愛の対象となる女性である。第3段階の霊的な段階は、聖母マリアに代表される母性と処女性をあわせもった女性像である。最後の叡智のアニマは、中宮寺の弥勒菩薩像が典型的に示している。限りないやさしさと同時に深い知恵をたたえた像である。
私のイメージの中では、女子生徒が娼婦になったり、棟方志功の吉祥天になったり、天女になったり、女王になったりしてめまぐるしかった。それらが、ユングの4段階のどれに当たるかを詮索する気はないが、ただ棟方志功の女人図を見て、横溢する女性性とその賛歌、そして宗教性との結合にはあらためて強い印象を受けた。
多くの場合、アニマは男性のこころの中の抑圧されたもの、その男性にとって弱い部分(劣等機能)と結びつきやすいという。たとえば、思考型の男性は、彼の中の弱い部分、すなわち感情機能がアニマと結合している。堅い人で通っていた学者が娼婦型の女性に心を奪われたり、ドン・ファンとして知られた男性が、ただ一人の清純な女性に一途な愛を捧げたりするのも、そうしたアニマの外界への投影であったりする。(アニマの説明は、河合隼雄『ユング心理学入門』を参考にした。以下同様)
私も、思考型といってよいだろうから、感情機能が豊かな女子生徒に何らかの投影が働いたのかもしれない。あるいは、教師としての社会的な役割や規則に縛られている私の抑圧している面がアニマと結びつき、縛られずに生きる女子生徒に投影されたのかもしれない。また地橋先生が指摘していたように、彼女の中にはただおきゃんなだけでなく意外と素直で真面目な部分も隠されいて、そんなところを私が感じ取っていたのかもしれない。いずれにせよ、自覚されないいくつかの要素がからみあって、私の中のアニマが彼女に投影された。彼女にとくに好き嫌いの感情をもっていなかっただけに、ちょっと不思議な感じは残る。
◆アニマの多様性
ところでユングによると、アニマは4段階を経て発展していく。第1は生物学的な段階、次はロマンチックな段階、そして霊的(スピリチュアル)な段階、最後は叡智の段階である。
生物学的な段階では、女の子を生む機能、性の面が強調され、イメージとしては娼婦が出現する場合が多いという。次のロマンチックなアニマは、西洋の文学が多く描いてきた、一個の人格として恋愛の対象となる女性である。第3段階の霊的な段階は、聖母マリアに代表される母性と処女性をあわせもった女性像である。最後の叡智のアニマは、中宮寺の弥勒菩薩像が典型的に示している。限りないやさしさと同時に深い知恵をたたえた像である。
私のイメージの中では、女子生徒が娼婦になったり、棟方志功の吉祥天になったり、天女になったり、女王になったりしてめまぐるしかった。それらが、ユングの4段階のどれに当たるかを詮索する気はないが、ただ棟方志功の女人図を見て、横溢する女性性とその賛歌、そして宗教性との結合にはあらためて強い印象を受けた。