2月下旬のトリノ・オリンピックでの荒川静香選手の金メダル。そしてWBCでの日本の優勝。私も、それぞれ楽しんで見たし、うれしかった。しかし、これに関係して、ずっと書きたいと思っていたことがある。
こうした国際試合で、日本の選手が勝って我がことのように喜び、負けるとがっかりしたり、悔しがったりする心理がずっと気になっているのだ。自分自身の中にそういう心理が強くあるので、自分自身の問題として気になるのである。
結局は、「日本人」ということへの自己同一化が強ければ強いほど、日本人の勝敗に喜んだり、悲しんだりする度合いも強くなる。「日本人」の勝敗や優劣にこだわる度合いが強いほど、自己の勝敗や優劣にこだわる度合いも強いと言えそうだ。しかし、逆は必ずしも真ではない。自己の勝敗や優劣に強くこだわる人でも、「日本人」との自己同一化が弱い日本人なら、日本の勝敗には無関心かも知れない。
私自身は、たとえば国体での東京の勝敗には全く無関心だが、それは、ふだん「東京都民」ということに自己のアイデンティティの基盤を置くことがないからだろう。
一方、「日本人」ということは、私のアイデンティティの中でかなり中心的な位置を占めているようだ。日本の社会と文化の中で育ち、「日本人」に共通する日本語を話すことで、「日本人」は私の「自己」の重要な構成要素であるらしい。だからWBCでの日本の優勝についつい拍手して喜んでしまう。
しかし、私にはこの心理がかなり不思議に感じられる。そして気になる。どうして「日本人」ということにかくも自己同一化してしまうのか、もう少しつっこんで確認し、自分に納得のいくような言語的な表現をしてみたいのだが、まだあまり深めることが出来たとは言えない。
自己の勝敗や優劣にこだわるのはエゴだが、「日本人」としての勝敗や優劣に一喜一憂するのも、やはり同じエゴに根ざしている。同じエゴが「日本人」というアイデンティティに同一化した結果なのだ。
話しは飛躍すると言われるかもしれないが、戦争の心理的な背景の一つには、個人のエゴに根ざした国民エゴがあるのは確かだろう。
このテーマは、私の中でずっと重要なものであり続けるだろう。
こうした国際試合で、日本の選手が勝って我がことのように喜び、負けるとがっかりしたり、悔しがったりする心理がずっと気になっているのだ。自分自身の中にそういう心理が強くあるので、自分自身の問題として気になるのである。
結局は、「日本人」ということへの自己同一化が強ければ強いほど、日本人の勝敗に喜んだり、悲しんだりする度合いも強くなる。「日本人」の勝敗や優劣にこだわる度合いが強いほど、自己の勝敗や優劣にこだわる度合いも強いと言えそうだ。しかし、逆は必ずしも真ではない。自己の勝敗や優劣に強くこだわる人でも、「日本人」との自己同一化が弱い日本人なら、日本の勝敗には無関心かも知れない。
私自身は、たとえば国体での東京の勝敗には全く無関心だが、それは、ふだん「東京都民」ということに自己のアイデンティティの基盤を置くことがないからだろう。
一方、「日本人」ということは、私のアイデンティティの中でかなり中心的な位置を占めているようだ。日本の社会と文化の中で育ち、「日本人」に共通する日本語を話すことで、「日本人」は私の「自己」の重要な構成要素であるらしい。だからWBCでの日本の優勝についつい拍手して喜んでしまう。
しかし、私にはこの心理がかなり不思議に感じられる。そして気になる。どうして「日本人」ということにかくも自己同一化してしまうのか、もう少しつっこんで確認し、自分に納得のいくような言語的な表現をしてみたいのだが、まだあまり深めることが出来たとは言えない。
自己の勝敗や優劣にこだわるのはエゴだが、「日本人」としての勝敗や優劣に一喜一憂するのも、やはり同じエゴに根ざしている。同じエゴが「日本人」というアイデンティティに同一化した結果なのだ。
話しは飛躍すると言われるかもしれないが、戦争の心理的な背景の一つには、個人のエゴに根ざした国民エゴがあるのは確かだろう。
このテーマは、私の中でずっと重要なものであり続けるだろう。