瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

方便としての数息観

2011年09月25日 | 瞑想日記
朝は、25分ほど瞑想。今日も数息観で行う。やはり腹に集中しやすく、気づきも入りやすいようだ。といっても基本はヴィパッサナー瞑想だが。

ヴィパッサナー瞑想は、意識野に起こったすべてに気づきを入れること(観)を基本とする。もちろん視覚(イメージ)、聴覚、触覚、思考などが同時に刺激されていることがほとんどだが、その中で今いちばん意識野を占領している知覚に気づきを入れていく。たとえば足の痛さを少し感じているが、意識は主に外の物音に向いていたら、そこに気づきを入れる。そのとき、「音」などとラべリングをすることで、自分の知覚がそこに向かっていることを確認する。

ヴィパッサナー瞑想(観)は、サマタ瞑想(止)を基礎とし、初歩的な瞑想でもそれを取り入れることもある。たとえば、腹の動きに集中(止)しつつ、意識が他に飛んだら、そのつど飛んだ事実に気づきを入れる(観)という方法がある。腹の動きには、「ふくらみ」「縮み」などとラべリングする。

私は、「縮み」というラべリングの語感が好きでなく、「ゆるみ」とラべリングしていた。「ふくらみ」で張りつめた腹が「ゆるむ」という感じだ。何度も繰り返されるラべリングなので、さらに「ふ」「ゆ」と最初の一文字だけに省略してラべリングしていた。

その延長で、「ふくらみ」「ゆるみ」とラべリングするかわりに「ひとつ」「ふたつ」と数えつつ、腹の動きに集中するというのが、私が「数息観」を使ってやっていることの実態だ。だから中身は完全にヴィパッサナー瞑想である。

ただ、「ふ」「ゆ」というラべリングの代わりに「ひとつ」‥‥「とう」の繰り返しが私にとってよかったのは、とりあえず「とう」までしっかり腹に集中したり、気づきを入れたりしていこうという、小さな目標がそのつどできることかもしれない。また、「とう」まで数えるという流れの中に、雑念・思考が侵入してくると、「ふ」「ゆ」を繰り返しているときよりは、気づきが入りやすいのかもしれない。

ともあれ今朝も、時間が短かったわりにはある程度クリアな気づき(サティ)が入っていたような気がする。
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齋藤孝の方法

2011年09月24日 | 読書日誌
9月から、ある短大でコミュニケーション論ということで一コマ、講義をもっている。講義といっても半分は、実践的な演習だ。高校で、カウンセリングや国際交流(異文化コミュニケーション)などに携わっていた関係もあり、その短大に勤める友人から声をかけられたのだ。

その関係もあって、齋藤孝のコミュニケーションに関係する本を何冊も読んで参考にしている。齋藤孝の本については、以前に紹介したことがある。『呼吸入門 (角川文庫)』や『齋藤孝の速読塾―これで頭がグングンよくなる!』である。教育を東洋的な身体論の視点から見直し、しかも現代の教育現場でも違和感なく導入できるような形に充分に咀嚼しているので、以前から興味をもって読んでいた。

今回、この著者のコミュニケーション関係の本を何冊か読んで、改めて彼の力量と創造性、コミュニケーションにかかわる経験の濃密さ、文章力などに驚いた。もともと私が関心をもっている分野に重なる部分が多く、しかも現在は、短大の講義をどう進めるかという実際的な問題もあったので、夢中でよんだ。昨晩は、夢の中でさえ彼と対話をしていたので、自分ながら相当のはまりようだなと思った。

ここ数日で読んだのは、『「意識の量」を増やせ! (光文社新書 522)』、『コミュニケーション力 (岩波新書)』、『偏愛マップ―キラいな人がいなくなる コミュニケーション・メソッド』、『質問力 ちくま文庫(さ-28-1)』などである。

他の著者の、コミュニケーションや対話に関する本もいろいろ読んでいるが、書かれている内容や、踏まえられている実践や経験の濃密さは、齋藤氏の本が群を抜いている。その意味ではやはり、岩波新書の『コミュニケーション力 (岩波新書)』がいちばんだ。学生時代の「対話」に費やされた情熱や、大学の教室などでの膨大な実践での経験が凝縮されている。
この中で紹介されたいくつもの方法が、それぞれ独立の本となっている。『偏愛マップ』や『質問力』がその例だ。

現代の若者に欠けている対話やコミュニケーションの力、かつての日本には満ちていたが、現代の教育現場に欠けている身体に深く根差した教育力など、今の日本に欠けている大切なものを取り戻すために、この人の紹介する数々の実践的な方法が、もっと普及させることが重要だ。
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数息観・言葉の浮遊

2011年09月24日 | 瞑想日記
週末の三日間は、たっぷりと瞑想ができる。今日も朝、1時間ほど行った。残りの4日間も時間は少なくとも、毎日行えるよう工夫したい。

昨日は、かなり雑念・思考が多かったので、試みに100まで数えながら腹の動きに集中した。これはかなり効果があったが、100までというのはいかにも「数える」という感じなので、今日は10まで数えてそれを繰り返す禅でいう「数息観(すそくかん)」を行った。ただし、ひとつ、ふたつと数えつつ、意識は腹の動きに集中した。意識が他に向かえばサティして、また腹の動きに戻る。

この方法は、私にはあっているようだ。思考が起こってもすぐにサティが入りやすい。腹への集中がしやすく瞑想が深まった。

興味深いのだが、日常的な思考が消えても、思考としては意味のない4・5個の言葉のまとまりが、かってに浮かんでは消えるということがある。たとえば「彼らは並んで座っている」とか、「環境が変化した」などという言葉が意味もなく浮かんでは消える。何かしらその前のほとんど無意識の心の動きに関係しているのだろうが、日常的な思考の脈絡からは遊離している。言語脳のいわば「惰性」のような形で言葉が浮遊するのだろうか。
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瞑想時間を確保したい

2011年09月11日 | 瞑想日記
最近は、仕事のある日は瞑想をしていない。週に三日ぐらい、40分ほどの瞑想をしている。何とか、毎日数十分の瞑想の時間を確保したい。

今日は、朝30分ほどの瞑想。雑念はかなりあるが、初めて15分くらい20分くらい後の心身の静まりと、それと連動してやってくる気の響きの感覚が何とも言えず爽快で、その魅力が瞑想を続けさせている。

今日、ちょっとしたきっかけで、おそらく数年ぶりに、ヴィパッサナー瞑想の10日間合宿に最初に参加した時の自分のレポートを少し読み直した。→2001年・ヴィパッサナー瞑想合宿レポート Ⅰ

雑念・妄想にどう対処すべきなのか、ごく基本的なことなのだが、しかしやはりとても大切なことで、今の自分が瞑想をするときも、そのあたりの初心を忘れているかもしれない、いや忘れていないまでも自覚がおろそかになっているかもしれない、と思った。

要するに雑念には雑念の働きや意味やあるということである。それを排除するのではなく、自然に湧いてくる雑念は、起こるがままに気づきを入れていく。その気づき、サティにこそ意味があるのだ。分かっているようでいて、そのことの自覚がどこかであいまいになる傾向がある。




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一日半断食中、空腹感なし

2011年09月01日 | 断食・少食
結局、昨日は夕食を食べず、そのまま今日の昼を食べるまでの一日半断食をおこなった。夕方ぐらいまで多少の空腹感はあったが、その後はなかった。夕方あまでの多少の空腹感も心理的なもので、腹の感覚としてはまったく空腹ではなかったように思う。昨日摂取したのは、トマトジュース3杯と豆乳を軽く一杯ぐらいだ。

昨晩の就寝時も、今朝起きた時も、今日の午前中もまったく空腹を感じなかった。なぜこんなに空腹感がなく、楽に一日半断食ができたのか、不思議なくらいだ。

今日の昼食は、いつもよりやや少なめにとったが、その後も空腹感はなく、夕食もご飯をお椀に三分の一ほどとサラダや豆腐なのでもう満腹であった。一日半の断食で胃袋が縮小したのだろうか。この調子だと明後日あたりにさらに一日半断食ができるかもしれない。

体重は、一日半断食を始める前の、8月30日の夜で71.2kg、今朝が69.2kg、さきほど夕食をとる前が、69,6kgであった。

昨日、就寝前に40分ほど瞑想、今朝5時50分位から30分ほど瞑想。とくに断食が瞑想に影響を与えたということはなかったようだ。
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