朝は、25分ほど瞑想。今日も数息観で行う。やはり腹に集中しやすく、気づきも入りやすいようだ。といっても基本はヴィパッサナー瞑想だが。
ヴィパッサナー瞑想は、意識野に起こったすべてに気づきを入れること(観)を基本とする。もちろん視覚(イメージ)、聴覚、触覚、思考などが同時に刺激されていることがほとんどだが、その中で今いちばん意識野を占領している知覚に気づきを入れていく。たとえば足の痛さを少し感じているが、意識は主に外の物音に向いていたら、そこに気づきを入れる。そのとき、「音」などとラべリングをすることで、自分の知覚がそこに向かっていることを確認する。
ヴィパッサナー瞑想(観)は、サマタ瞑想(止)を基礎とし、初歩的な瞑想でもそれを取り入れることもある。たとえば、腹の動きに集中(止)しつつ、意識が他に飛んだら、そのつど飛んだ事実に気づきを入れる(観)という方法がある。腹の動きには、「ふくらみ」「縮み」などとラべリングする。
私は、「縮み」というラべリングの語感が好きでなく、「ゆるみ」とラべリングしていた。「ふくらみ」で張りつめた腹が「ゆるむ」という感じだ。何度も繰り返されるラべリングなので、さらに「ふ」「ゆ」と最初の一文字だけに省略してラべリングしていた。
その延長で、「ふくらみ」「ゆるみ」とラべリングするかわりに「ひとつ」「ふたつ」と数えつつ、腹の動きに集中するというのが、私が「数息観」を使ってやっていることの実態だ。だから中身は完全にヴィパッサナー瞑想である。
ただ、「ふ」「ゆ」というラべリングの代わりに「ひとつ」‥‥「とう」の繰り返しが私にとってよかったのは、とりあえず「とう」までしっかり腹に集中したり、気づきを入れたりしていこうという、小さな目標がそのつどできることかもしれない。また、「とう」まで数えるという流れの中に、雑念・思考が侵入してくると、「ふ」「ゆ」を繰り返しているときよりは、気づきが入りやすいのかもしれない。
ともあれ今朝も、時間が短かったわりにはある程度クリアな気づき(サティ)が入っていたような気がする。
ヴィパッサナー瞑想は、意識野に起こったすべてに気づきを入れること(観)を基本とする。もちろん視覚(イメージ)、聴覚、触覚、思考などが同時に刺激されていることがほとんどだが、その中で今いちばん意識野を占領している知覚に気づきを入れていく。たとえば足の痛さを少し感じているが、意識は主に外の物音に向いていたら、そこに気づきを入れる。そのとき、「音」などとラべリングをすることで、自分の知覚がそこに向かっていることを確認する。
ヴィパッサナー瞑想(観)は、サマタ瞑想(止)を基礎とし、初歩的な瞑想でもそれを取り入れることもある。たとえば、腹の動きに集中(止)しつつ、意識が他に飛んだら、そのつど飛んだ事実に気づきを入れる(観)という方法がある。腹の動きには、「ふくらみ」「縮み」などとラべリングする。
私は、「縮み」というラべリングの語感が好きでなく、「ゆるみ」とラべリングしていた。「ふくらみ」で張りつめた腹が「ゆるむ」という感じだ。何度も繰り返されるラべリングなので、さらに「ふ」「ゆ」と最初の一文字だけに省略してラべリングしていた。
その延長で、「ふくらみ」「ゆるみ」とラべリングするかわりに「ひとつ」「ふたつ」と数えつつ、腹の動きに集中するというのが、私が「数息観」を使ってやっていることの実態だ。だから中身は完全にヴィパッサナー瞑想である。
ただ、「ふ」「ゆ」というラべリングの代わりに「ひとつ」‥‥「とう」の繰り返しが私にとってよかったのは、とりあえず「とう」までしっかり腹に集中したり、気づきを入れたりしていこうという、小さな目標がそのつどできることかもしれない。また、「とう」まで数えるという流れの中に、雑念・思考が侵入してくると、「ふ」「ゆ」を繰り返しているときよりは、気づきが入りやすいのかもしれない。
ともあれ今朝も、時間が短かったわりにはある程度クリアな気づき(サティ)が入っていたような気がする。