数年前までは、通勤時の駅から職場まで歩いているときも熱心にサティをおこなっていた。ここ数日の、土手でのランニングやウォーキング時のサティがきっかけとなり、今日は通勤時のサティを復活した。今の職場は、駅から歩くと35分ほどかかる。朝はバスに乗るのだが、帰りは歩く。今日はその間ずっと、ラべリングによるサティを続けた。35分という時間の長さが今となってはうれしい。
サティの中心対象は次々変わる。人通りも多いから「注意」などとラべリングすることも多い。さまざまな音に対するラべリングも多い。土手で得た感触同様、時たま思考が湧いてきても巻き込まれることなくサティが入る。そして日常的な思考に埋没しているときには気づかない、様々な微妙な感情に気付く。私にとってはこれがことのほか大切なことだと思っている。
やはり数年前と少し、いやかなり違う。全体として思考に巻き込まれる度合がはるかに少ないのだ。数年前に熱心に修行していたときの経験が、今生きてきているのか。どうしてそうなったか。今は、はっきりは分からないが、ひとつだけ考えられるのは、それだけ力みがなくなっているということか。
瞑想合宿のレポートに何度も書いたが、合宿に入るとどうしても成果を強く期待してしまう。その期待が囚われとなって瞑想を妨げる。いやというほどその経験を繰り返した。合宿時だけでなく日常の修行においても何かしら成果をだそうとする囚われが、自分で気づいている以上に強かったのかもしれない。
数年間の休止期間は、自分の中の囚われや力みを洗い落とすのに必要な時間だったのかもしれない。もちろん再び修行を続けているうちにまたまた囚われや力みが生じる可能性はある。ただ、ここ数日の感触では、サティそのものがそれらを的確にとらえてくれるうような気がしている。
サティの中心対象は次々変わる。人通りも多いから「注意」などとラべリングすることも多い。さまざまな音に対するラべリングも多い。土手で得た感触同様、時たま思考が湧いてきても巻き込まれることなくサティが入る。そして日常的な思考に埋没しているときには気づかない、様々な微妙な感情に気付く。私にとってはこれがことのほか大切なことだと思っている。
やはり数年前と少し、いやかなり違う。全体として思考に巻き込まれる度合がはるかに少ないのだ。数年前に熱心に修行していたときの経験が、今生きてきているのか。どうしてそうなったか。今は、はっきりは分からないが、ひとつだけ考えられるのは、それだけ力みがなくなっているということか。
瞑想合宿のレポートに何度も書いたが、合宿に入るとどうしても成果を強く期待してしまう。その期待が囚われとなって瞑想を妨げる。いやというほどその経験を繰り返した。合宿時だけでなく日常の修行においても何かしら成果をだそうとする囚われが、自分で気づいている以上に強かったのかもしれない。
数年間の休止期間は、自分の中の囚われや力みを洗い落とすのに必要な時間だったのかもしれない。もちろん再び修行を続けているうちにまたまた囚われや力みが生じる可能性はある。ただ、ここ数日の感触では、サティそのものがそれらを的確にとらえてくれるうような気がしている。