瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

思考と瞑想の心理学03:瞑想の視点から

2010年06月30日 | 思考と瞑想の心理学
たとえば、思考についてその論理性を追求する方向から研究することもあるだろう。あるいは、思考と言語の関係を考察する研究もあるだろう。

しかし、日常生活の中で毎日、一瞬一瞬繰り広げられていく日常的思考を、それがどのような性質をもち、どのように展開する傾向があり、性格傾向や心理的な問題とどのように関係するか、無意識領域とはどのように関係するかなど、その全体的な性格を体系的に研究しようとする試みは、ほとんどなかったのではないか。

私は、ヴィパッサナー瞑想を少し行い、日常生活の中でも、自分の知覚や思考につねに気づきづつけるという「サティ」の訓練をしている。それで、ほとんど無自覚に(客観視や対象化されずに)無限に繰り返されていく思考に、自分が縛り付けられているという感じを持つことが多い。それゆえ思考を研究したいという私の主観的な動機は、「自己」「エゴ」を中心として巡り続け、それを強化してしまう思考からどのようにして解放されるか、ということである。

そういう動機を背後にもちながら、日常的な思考とはどのような思考なのか、客観的にその構造を明らかにしていきたいという欲求も強くなった。

その出発点は自己観察であろう。そして自己観察は、そのままヴィパッサナー瞑想の修行になる。しかし、自己観察した日常思考のプロセスや構造を、概念的に対象化し、構造として記述していくなら、それはひとつの学問となるだろう。

日常的な思考について、日常的な思考からの解放という視点を隠しもちながら、その視点から研究するとき、かなり全体的な視野が獲得されるような気がする。
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思考と瞑想の心理学02:自覚も記憶もされない思考

2010年06月29日 | 思考と瞑想の心理学
最初は、別ブログで考察していたものをここにほぼ再録するつもりであった。しかしいくつかの記事を読み直してみて、当時とは順番を変えたり、内容を少し整理したほうがよいと判断した。そのつもりでお読みいただければ幸いである。

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ヴィパッサナー瞑想では、呼吸に伴う腹の膨らみ、縮みに集中しつつ、気が散ったり、雑念が浮かんだりすれば、そのつどそれに気づいたということを簡単な単語で確認していく。これをラベリングという。たとえば、雑念が浮かんだら「思考」などと確認して、また腹の動きに戻って集中していく。

ところでヴィパッサナー瞑想をしているとよくこんなことがある。雑念がいくつか続いてから、はっとそれに気づく。そして「あれ、何でこんなことを考えていたのだろう」と振り返えると、雑念の二つ前、三つ前ぐらいまでは連想の流れを思い出せるが、それ以前については思い出せない。結局、腹への集中からはずれた最初の雑念は思い出せないというようなことである。

瞑想中でさえこうなのだから、「日常の思考」も実態はこんなものであろう。いや、もっと無自覚であろう。つい先ほど考えていたことが思い出せないし、思い出そうすらしないままに消えていくのだ。瞑想中で、雑念は雑念としてそのつど自覚していく訓練をしていてさえ、記憶に残らないほど無自覚に連想が続いてしまう。まして、日常の「散漫な思考」においては、ほとんど無自覚に次々に思考が浮かんでは消えていくのであろう。

だからこそ「日常の思考」を「日常の思考」全体として問題意識をもって探求する必要があるのだ。つまり、ほとんどの「日常の思考」は、無意識的な執着や衝動に突き動かされつつ繰り返されていく。自覚的なコントロールなしに繰り返される。そして、とくに強い執着や抑圧されたコンプレックスに関係する場合は、まるでむさぼるかのように同じパターンの思考を繰り返すのだ。しかも自分自身では、そのことに無自覚である。これが「むさぼる思考」である。

自覚的なコントロールがなされない思考は、自己増殖して強力な力をもつようになることもあるだろう。完全に自覚的なコントロールができなくなってしまう。自分で不合理だと分かっていても、同じ思考を繰り返す。これが「強迫観念」と呼ばれるような病的な状態だろう。

このような日常的な思考が、全体として現代心理学の研究対象とならなかったということ自体が不思議である。「日常の思考」の全体像を明らかにしていく必要がある。
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再び一日半断食の報告

2010年06月29日 | 断食・少食
◆起床後、すぐ瞑想。15分ほどして雑用が入ったので、後半25分とあわせて40分。寝不足のためか後半は、イメージが多く少しコックリしていた感じだ。少し迷ったが、今日も一日半断食を試みる。今回も「食べたい」心理へのサティを充分に行なうつもり。昨晩、土日に行なったばかり出し、昨晩たくさん食べたわけではないので、今回は少しきつくなるかも知れない。現在は体重68.4キロ。また遂次報告していく。(11:49記)

◆断食は順調。これまでに豆乳一杯と少々、グレープフルーツジュースを少々。紅茶味でシュガーレスのキャンディ二つ。カロリー摂取量は、前回より少し多めくらいか。豆乳を一杯飲んだだけでけっこう腹が満ち足りる。たまにわずかに空腹を感じるが、現在もまったく空腹感はない。この状況も前回と似ている。あとはお茶だけで就寝まで行きそうだ。もちろん今日はサッカーを見るが、その間も腹のことは忘れるだろう。(18:00記)

◆夕方7時頃に階下に降りていくとちょうと家族のものが食事が終わったところで、もずくとサラダが残っていた。「食べない?」と声をかけられて、つい食べてしまった。もずく30キロカロリーぐらいだし、サラダもレタスとタマネギ少々だったので、まあいいかなという感じだった。これだけでもう腹は満ちたりた。ということで今日はゆるい断食となった。(21:30記)
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思考と瞑想の心理学01:最近気がついた

2010年06月28日 | 思考と瞑想の心理学
「思考と瞑想の心理学」は、別ブログで3年ほどまえに何回か書き進み、そのままたち切れになっていた。今回、こちらのブログに掲載しなおして、さらにその続きの考察もしていければと思っている。考察を続けるのに必要なのは、自分の内側の思考の観察である。日々、日常的な思考のあり方を観察することは、そのまま日常生活の中の瞑想である。このテーマで書き進むことが、瞑想の深まりにつながっていくことをも期待して、続けていきたい。

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(2007-08-22 )私は、瞑想(上座部仏教に受け継がれるヴィパッサナー瞑想)を少ししているのですが、その関係で最近気づいたことがあります。

瞑想をやっていると誰もが痛烈に感じることと思いますが、何かに集中しようとしても次々に雑念が湧いてきてなかなか集中できないのです。「無」とか「無心」とか言葉でいうのはかんたんですが、実際はそうかんたんではないことがつくづく分かります。

ところで、この「雑念」ですが、何も瞑想中に限らず日常生活のなかでは、実に様々な雑念が次々ととりとめもなく湧いては消えていきます。そういうとりとめもない思考が、間断なく続いていくのが、私たちの日常の現実でしょう。

もちろんある特定の目的のために系統的に思考をすることもあるでしょうが、大部分は、その場でたまたま見聞きしたものからの連想、そこからさらに連想、また別の刺激が入って来て、またそこから連想‥‥などと繰り返しているのです。あるいは、何か気になることについて、同じような思考を何度も反芻したりしています。

時には、自分は誰かにこう思われているのではないか、などという思考が、現実から遊離して妄想となり、悩みや苦しみの原因になったりします。

こういう日常的な思考の集積が、私たちの心理に影響を与え、性格を形づくり、人生の方向や質を決定していきます。

ということは、日常的な思考は、私たちの心についての学問、すわなち心理学にとって重要な要素をなす、あるいは中核的な分野をなすといってもよいはずなのです。しかし、私の知る限り、日常的な思考(散漫でとりとめもない無自覚的な思考)そのものを研究の対象とする現代心理学の分野はないようです。

そこで思い立ったのです。まずは、以上のような意味での日常的な思考がいままでそのように研究されてきたか、そういう研究はあるのかないのかを調べてみよう。もしあったとしても、私自身が知りたいような形での研究はない可能性が高いので、今までの研究を基礎にしながら、自分なりに研究をすすめていこうと。

このブログは、この研究を進めていくための「覚え書き」といった内容になると思います。思いついたこととを、メモ程度に自由に記入しながら、少し材料がそろってきたらまとめる、そんなことを繰り返していこうと思います。
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自我の相対化

2010年06月27日 | 瞑想日記
◆車椅子を押して父を教会につれて行き、父をおいて私は帰ったが、その往復30分ほどはサティをしていた。思考はかなり湧き上がってくるのだが、すぐにサティが入る。実際には「思考」とラベリングする場合が多い。数日前からサティの感覚がこれまでと少し違うなと感じていたが、今日もそれを感じた。

これまでは思考が湧いてくると努力してそれを止め、少しでも思考のない状態を持続しようとしていたようだ。そこにはどこかで思考を打ち消そうとする否定的な態度があった。今は、思考への気づき(サティ)を楽しんでいるような感じだ。思考する自分を受け入れているとでも言おうか。思考する自分を静かに余裕をもって見ているような感じか。それだけ、思考する自分と同一化しなくなったのかも知れない。

◆一昨日あたりからEckhart TolleのA New Earth: Awakening to Your Life's Purposeを再び読み始めている。以前90頁ほど読んでそのままになっていた。その中に

Complete identification with thought and emotion, that is to say, ego.(思考や感情との完全な同一化、それがいわゆるエゴだ)

というのがあった。この短い言葉が私には強烈だった。結局、私が自分と思っているものの実体は、言葉と思考によって織り上げられた仮構物にすぎない。それをあたかも実体があるかのように錯覚して、「私」として固執する。そこにエゴが生まれるのだ。

そのことがまだ私には実感としては分かっていない。だからこそ、日常的な思考の流れに気づき(サティし)、思考する自我としての私を徹底的に相対化していく必要があるのだ。

思考の流れに気づかずそこに埋没している間は、思考との同一化は続く。思考の流れから一歩離れて、それを「外から」眺められるようになると、自我の相対化が始まるのだと思う。
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