瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

ゴーピ・クリシュナの覚醒・至高体験

2019年09月26日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回はゴーピ・クリシュナの覚醒体験である。

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 ごく一部の研究家やヨーガ行者のあいだでしか知られていなかったクンダリニーの教説が、世に広く知られるようになったのは、ヨーガ行者ゴーピ・クリシュナの『クンダリニー 』という著作が1967年に英語で出版されて以来である。この著作でゴーピ・クリシュナは、自分自身のクンダリニーが覚醒していく過程をつぶさに、かつ具体的に語り、その身体的・精神的な変容の有り様を克明に記録した。

 この著作は、東洋の行法に関心をもつヨーロッパやアメリカの若者たちに広く読まれ、クンダリニーの覚醒をめざしてヨーガ行法を行うものが続出したという。

 彼は、もちろん気功家ではないが、気功家を含む広い意味での行者の一人として、彼の体験をここに収録したい。

 ゴーピ・クリシュナは、1903年にインド・カシミールに生まれた。父が世捨て人同然の修行者となってヒマラヤに入ってから、母の期待と愛情を一身に受けて大学に進学。しかし読書に夢中になりすぎて、専門課程への進級試験に落第してしまう。その挫折を契機にして熱心なヨーガの行者となり、昼はカシミール州政府の中級官吏として黙々と堅実な生活を続けながら、毎朝早く休むことなく瞑想の行を続けるのである。
それから17年目、34歳の時、突如として予期せぬクンダリニーの上昇を体験する。 それは最初、筆舌につくし難い至上の幸福感をともなったが、しかし直後に死と隣り合わせの危険と辛苦に満ちた体験に変わる。クンダリニーがシュスムナ管以外のナディ(管)、特に脊髄の右側にあるピンガラから誤って上がると、心身にきわめて重大な混乱がおこり、制御できない体内熱のために時には死を招くことさえあるという。彼は、その最悪の場合を体験しのだ。「体内の器官や筋肉が花火で焼き切られるような、無数の灼熱の針が身体中を走りまわっているような」苦痛が数週間も続いた。精神錯乱の一歩手前までいったとき、ふと正気にもどった彼は最後の賭けをする。もしクンダリニーがシュスムナ管の右側のピンガラを上ったのであれば、その左側の気道イダを開くことでピンガラの焦熱を中和できるのではないか。彼は、最後の気力をふりしぼって一心にイダの気道が開くように念じる。すると、それを待っていたかのように奇跡が起こったのである。

 「パチンと気道に音がしたかと思うと、銀色の流れが白蛇の這うがごとく脊髄をジグザグ状に動いて昇り、最後に生命エネルギーの光り輝く滝となって脳髄に降りそそいだのである。それまで3時間あまりも私を苦しめていた火焔にかわり、至福の白光 で私の頭はみたされた。少し前まで私の神経組織をはせめぐっていた火の流れが、このように突然変わったことに驚き怪しみながらも、私は苦痛がやんだことに深い喜びを感じていた。」
 
 こうして危機を脱したのちも、クンダリニーの光は、彼の中で不断に発光し続けた。それはもはや、焼きつくすような熱気ではなく、すべてをいやす快い温かさをともなっていた。その光によって彼の脳や神経組織は再調整され、意識は、確実に覚醒に向かって拡大していった。彼は、自らの意識の変化をつぎのように語る。
 
 「私は、子供の時から慣れ親しんできた自我に統御された一つの意識単位から一挙に拡大し、光り輝く意識の輪となり、最大限のところまでずんずん大きくなっていった。『私という感じ』は以前と変わらないものの、それはもはや一つの小さく固まった存在ではなくなった。私は四方八方の広大な次元に通達する光り輝く意識の球体の中に包みこまれていた。
 適切な比喩もないが、しいていえば、小さな明かりから出発した私の意識はしだいに大きな光の海に成長し、気がついてみると、自分のまわりを近くからあるいは遠くからとりまく歓喜を放射する大きな意識の中にひたされていた。」

 それは、「認識主体がより広大な視野を獲得」し、「以前より大きくなった表層意識に世界が映しだされる」ような体験だった。その後、瞑想中の喜悦のなかで自己の限界を超えたエネルギーの噴出を許してしまい、再び灼熱のクンダリニーに苦しめられるようなこともあったが、そうした経験を経て彼の意識の座が限りなく広がっていくのも事実だった。彼はつぎのようにもいう。

 「肉体と環境に束縛されていたはずの自分の存在が、名状しがたい形で、とてつもなく大きな人格として拡大し、自分のまわりにある宇宙が不思議にも内在する感じがして、意識そのものといえる大きな宇宙と自分が、自分の内部ですぐさま直接に接触できるのであった。」
 
 こうしてゴーピ・クリシュナの意識の場は拡大するが、同時に彼は、「自分の内と外に知覚するものがゆっくりと輝きをまし始めていたこと」に気がつくのである。たとえば彼は、その知覚の変化をつぎのように語る。  
 
「眼前にある景色は私がよく見慣れていたものであったし、またある意味で、その出来事以前から私がなじんでいたものであった。しかし、私が現に見ていたものは、私を驚きのあまり棒立ちにささるほど異常なものであたった。この世のものとも思われない、何かおとぎの国のような風景が私の前にあった。  
 古めかしい風雨にさらされた建物の正面には別にこれという飾りもなく、その上に青空が拡がっていた。さんさんとした陽の光の中で、建物も空も美しい、しかも荘厳味あふれた銀色の光沢に輝いていて、それがまた、筆舌につくしがたい驚くほど微妙な陰影効果をかもしだしていた。驚き怪しみながら別の方向に目を転ずると、そこでもまたあらゆるものが美しい銀色に輝いていた。あきらかに私のクンダリニー開発は新段階に到達していたのである。私がどちらを向いても何を見ても知覚したあの銀色の光沢は、物体から発していたのではなく、あきらかに自分自身の内部にある光が投射されたものにほかならなかった。」

 こうした意識と知覚の変化ののち、46歳になった彼に突如として詩人としの才能があらわれた。素晴らしい詩句が、インスピレーションのようにひらめくようになり、その詩集の発行などによって彼の名は全インドに知られていった。
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気功家・北沢 勇人氏の覚醒・至高体験

2019年09月15日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 2002年3月上旬に検索エンジンで天啓気療院のサイトを見つけ、姉妹サイト『日本の気功家たち』のためのアンケートの回答をお願いしたところ、さっそく詳細に記入された回答をいただいた。その内容は『日本の気功家たち』のアンケート・天啓気療院の項に掲載したが、残念ながら今はもうこのサイトは存在しない。
 ところでその回答の中には、天啓気療院・北沢 勇知氏のチャクラの覚醒、クンダリニーの上昇についての非常に具体的な記述が見られ、しかもそれは至高体験というべきものにつがなっていた。
 さっそく北沢氏に連絡をとり、その部分をこちらのサイトの事例集に掲載させてほしいとお願いしたところ、ご快諾くださった。
 なお、ここに掲載するのは、アンケートの回答に一部、天啓気療院のサイトに載せられた体験談を追加して編集したものである。以下のサイトでは、それぞれのチャクラごとの覚醒の具体的な記述が見られる。

◆発端
 私がなぜ、能力を発揮できる様になったかと申しますと、一級建築士や一級建築施工管理技師などの国家資格を取り建築工事や建築の設計や管理などの仕事をして いたのです。しかし、仕事の状態が思わしくなく悩んでいたのです。そこで約21年前から少しでも会社の経営状態を改善させようと、身体の力が抜け、そして、リラックス状態になったときに出る脳波、アルファー波を、いつ何時でも、出したいときに出せるように、呼吸法や瞑想などを実行し、能力開発をしようと続けていたのです。訓練と修行を続けた結果、平成五年春頃に不思議な体験が始まったことにあります。
 私の体の中からも外からも、不思議な音や声が聞こえ、更に、色々な光や映像が観るようになった。その 後、身体は勿論、精神までも癒せる素晴らしい能力《ハンドパワー治療》が発揮できる。チャクラが覚醒 しクンダリニーが上昇しているので、気功などにて用いるエネルギーとは比較にならない素晴らしいエネルギーで、自我[心や感情、意識や思い]などを変化させ、病気を改善し心も落ち着かせることができるようになった。

◆食事が取れなくなる。瞑想や呼吸法を禁止されて 
  平成9年5月初め頃に、約一週間にわたり、食事がまともに取れなくなり、風邪をひいたような倦怠感と言うか、疲労感をおぼえ、さらに、顔がはれあがり、頭が重く、毎晩のように、例のごとく、身体からは意識が外れ、まばゆいばかりの光や、観たことのない色々な建築物や山、川、過去、宇宙や自分自身などが光り輝いているのを観たり、金の粉が降ってきたりするのを観たり、あいも変わらず、身体がこのままでは壊れてしまうのではと思うほど激しく動いたり、喉の奥よりの変な声もますます激しく出てきていたのです。これは本当に、誰に話をしても「お前の頭はおかしくなった」としか言われないようなことが続いたのです。
 そこで、東京三鷹市の井の頭にある、瞑想や呼吸法を指導している方を尋ね、指導をお願いしたところ、瞑想や呼吸法を指導している方から、貴方の現在のエネルギー状態は、貴方の肉体が絶えることのできる限界を超えているので、如何なる修行も控えること。特に、呼吸法や瞑想などは絶対に控えるほうが懸命であると指導されていたのです。  

◆クンダリニーの上昇やチャクラの覚醒をしてみたくて
  以前より、呼吸法や瞑想などは、絶対に控えることと指導されていたのですが、しかし、平成9年9月初め頃に、神棚の前に座り、三十分ぐらい呼吸法と瞑想をした結果、何時間もしないうちに、身体全体が苦しくなり一週間ぐらい、ほとんど食事も取れず、目を閉じれば恐ろしいほど強い光、山、河、建築物、過去、海の中など光と共に観え、さらに、身体からは意識が外れ、遠くは地球のかなたというか、宇宙の果てまで観る始末で、夜になっても全く眠る事ができず、本当にこのまま、おかしくなるのではないかと大変不安でした。
  そして、苦しい状態が、最高潮に達したときの最後の頃になると、目の中全体が真っ赤になり、瞼が膨れて完全に塞がり、身体全体がむくみ、食事は勿論取れず、身体全体が、ますますつらくなり、ほとんど動くこともままならず、さらに、悪い事には頭全体、特に額の辺りが非常に痛くなり、額が割れるのではと思っていました。その夜、身体全体が焼ける様に熱くなり、大量の汗をかき苦しんでいたのです。そこで再度、瞑想を指導している方に相談したところ、『貴方はなぜ、指導した通りにしなかったのだ、エネルギーは目には見えないが、とても強力で恐ろしく、そして厳しいもので、誤まった修行方法をとると、死ぬ事だってある』と、きびしくしかられた事が思い出されます。  
 また同じ頃、身体から幽体離脱なのか良く解りませんが、意識が抜け出て、見たこともない山の中や、光り輝く海の中や光り輝く建築物等を自分自身が飛びながら観ているように感じたり、本当に強力な光を観たり感じたり、自分の身体の中で、電気でも生産されて流れているようにビリビリとしびれたり、常識では到底理解できないことが数限りなく頻繁に起こりました。その色々な体験があるたびに、何度も書きますが本当にこれからどうなるかと不安でたまらなかったことが思い出されます。   

◆真剣に神様を信じる。そしてクンダリニーが上昇 
  身体全体が焼ける様に熱くなり、大量の汗をかき、そして苦しくなったのですが、そのとき、瞑想を指導している方から、もう取り返しのつかない状態になってしまったのだから、どうすることもできないので、エネルギーを下げるか、神様を真剣に信じて頼む以外はないと指導され、私は、神様の力により守られているので大丈夫と、自分に言え聞かせ、本当に強く信じていたのです。すると、今度は、最初、腹部の中心あたりの内部が熱くなり始め、その後、真っ赤な炎が観え、さらに、本当に大きく燃え盛ってきて、その場所の外部までも真っ赤な炎の海のようになって観え、そして、感じたのです。その後、体全体が青い光を放ちながら燃えたように観え、そして、感じたのです。そのときと、ほぼ同時に、その、真っ赤な炎が観えたあたりの下腹部から、体の中心を通った炎の柱というか、光の柱というかが、最初上方に向い伸びていったのです。
  私としては、この現象は、クンダリニーの上昇に間違いがないと確信したので、いっそのこと、下方にも伸びていってくれないかなと願っていると、今度は下の方向にも伸びていき、さらに、その柱が、こんな事があるはずがないというように非常に太くなり、何万キロメートルもあるかのように途方もなく上下に長く伸びていったのです。そのとき私の意識は、地球のはるか遠く、そして、地球よりはるかに大きく、数十倍もあるように感じ、また、宇宙の空間に横になり浮いていた状態に観え、また、感じたのです。
  クンダリニーの上昇が起こった直後、また、身体全体が青い炎を上げて燃えた様になり、更に、数分もすると、今度は、身体の周辺、特に頭の上面背部周辺が大変に気持ちが良い暖かさを感じ、良く観察すると、仏像、キリストなどの背後などに描がかれているような円形状のものが観え、しかも金色に光り輝き、その直後、頭の天辺部分には、イソギンチャクの頭部が開いた状態に似た形状に、突然大きな口が開き、その中から手筒花火に、火を付けたように、大変きれいな、色々の色の炎が噴き出した状態になり、観え、そして、感じたのです。そして、その炎のような部分が更に下腹部まで下っていき、身体の中心部が燃えたように感じ、そして、観えたのです。そのような出来事があった以後は、体もすこぶる快調になり、また、一段と病気や心の悩みを癒す能力が増してきたのです。    

◆神様にあった感覚になって?
  この体験は、詳しい方に尋ねたところ、無意識の世界と言うそうですが、頻繁に起こるようになりました。


続きは以下でご覧ください ⇒ 気功家・北沢 勇人氏の覚醒・至高体験
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紀野一義氏の覚醒体験

2019年07月21日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は紀野一義氏の覚醒体験である。

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 紀野一義氏を宗教家に入れてようかどうかわからない。在家で数々の一般向けの仏教書を著し、多くの人々の心をつかんで来た人である。私も、本が出るたびに買って夢中で読んで来たし、彼の主催する会に参加し、講演も何度も聴いた。最近ある方に紀野氏の本を紹介したのがきっかけで、ふと以下の文をこの事例集に入れようという気になった。
 私にとって、とてもなつかしく素晴らしい人の体験をここに入れられるのを、とてもうれしく思う。
 文章は、『禅―現代に生きるもの (NHKブックス 35) 』からの掲載である。
 
 わたしは、広島に育ち、旧制の広島高校を出て東大の印度哲学科に学び、二年生のとき学徒動員で召集されて戦場に赴いた。終戦と同時に中国軍の捕虜になり、翌年の春ようやく帰国した。父母姉妹はすでに原爆で死に、故里の町 はあとかたもなくなっていることは未だなにも知らず、ちょうど三月一日、新円切替の日に大竹港に上陸したのである。大竹から広島まで列車で運ばれ、夕方広島駅に降り立った。帰還軍人なのでもの凄い格好をして改札口に出て来たら、柱のかげから若い警官がじっとわたしを見ている。挙動不審と思ったのであろう、「あなた、どこへ行きますか」と訊ねる。「家のあとがどうなっているかたずねて行ってみたい」と答えると、「夜になると強盗が出るから、あなた、行くのよしなさい」という。
 
 わたしは別に盗られるものもなし、「別に恐くないから行きますよ」というと、この警官は人の頭の先から足の先までじろじろ見廻して、「そうですね、あなた、見たところ強盗みたいな風態(ふうてい)だから、まあ大丈夫でしょう」という。こうして、夕方おそくわたしの家のあとをやっと見つけたのであるが、あるのは瓦礫ばかり、雨に打たれて塔婆が一本斜めに立っているぱかりであった。悄然としてまた駅に戻って来ると、駅の柱のかげにさっきの警官が立ってじっとこちらを見守っている。わたしが無事に帰って来るかどうか見ていたのであろう。「どうでした」という。「どうもこうもない。なんにもありゃしません」と、つっけんどんに答えた。すると、「あなた、今晩どこへ泊りますか」という。「どこにも泊るあてはない」というと、「それじゃ、わたしについていらっしゃい」といって、わたしを交通公社の職員の寝泊りしている部屋に連れて行ってくれたのである。
 
 そこで一夜を明したのであるが、そこの若い二人の職員がご飯を炊いて食べさせてくれた。当時は、泊めてやった復員軍人がよく強盗に早変りした時代である。それを二人の青年は泊めてくれた上にご飯まで炊いて食べさせてくれた。その親切がひどくこたえた。見ず知らずの若い二人の青年の無償の親切、これが今日までずっとわたしの心を支配している。大勢の他人がわたしを支えてくれるのだとう感じが、そのときから今日まで変わりなく続いているのである。
 
 それから岡山県の津山という山間の域下町に嫁いでいた姉を頼って行った。姉はわたしが沖縄の戦場で死んだと思っていたから、玄関に棒立ちになって、幽霊でも見るように上から下まで見上げ見下して、台所へ飛んで行って泣き出す。仕方がないのでわたしはひとり仏間へ入って過去帳を一枚ずつめくって六日のところを披(ひら)いた。その過去帳の一枚一枚の重さをわたしはまだ指の先に覚えている。眼をつぶって、思いきって六日のところを披いたら、見たこともない戒名が四つ、ずらっと並んでいた。しばらく身動きもできず、黙っていた。それからのろのろと立ち上り、持って来た甘いものなどを供えて法華経をよんだ。
 
 その晩は早く寝みなさいというので、少し離れた客殿というところに寝た。今でもよく覚えているが、時計が遠くでポーン、ポーンと二つ鳴ったとき眼を覚ましたのである。なにかに胸をぐっと押えつけられたような気がして、びっくりして布団を刎ね返して飛び起きたら、背中のあたりから全身の力が抜け落ちて腑抜けのようになって、恐ろしいほどさびしくなって、恥ずかしい話だが二時間ばかり獣のように泣いた。人間は一生の中一度は獣のように泣く時があるそうであるが、その時がそうだったのかも知れぬ。布団を引っ被って坤きながら泣いて、泣いて、泣き通した。
 
 それが、不思議なことに、四時になって時計がボーンボーンポーンポーンと四つ鳴ると同時に、それこそ憑き物ものが落ちるように、ストッと一時になにかが抜け落ちた。それを境にして、さびしくもかなしくもなくなったのである。父も母も姉も株も、死んだという感じがまるでしなくなったのである。体の中からなにかが脱け落ちた。死んだんじゃない、仏のいのちに帰ったのだという確信がぐんぐん胸の中にひろがって来た。そのとき思い出したのが、死んだ父親の教えてくれたことばである。子供のときから教えられたことばである。
「人間というものはな、死んだら仏のいのちに帰るんだ。死ぬんじゃない 。仏のいのちに帰るんだ」
 
 それまでどういうことなのかよく分らないでいたそのことばが、はじめて、ずしいんと体の底までこたえた。
 
 人間のいのちは死ねば仏のいのちに帰る。この考えはそのとき以来ずっと変っていない。いよいよ深くなるばかりである。知人朋友を亡くしてもこの思いに変りはない。もちろん、人間のことであるから、さびしさ、かなしさ、せつなさには堪えぬ。しかし、それだけではない別のもの、仏のいのちに帰したという安らかさがいつもわたしの感慨の底に横たわっているのである。
 
 わたしは、今でも自分のまわりに父母や姉妹が居るような感じを持っている。それは証明しろといわれても証明のしようがない。証明しようがないだけそれだけわたしにとってはどうすることもできない真実である。
 
 この二時間の慟哭の中で感じとったのは、なんともいえぬむなしさであった。死ぬべきはず の者が生きのび、生きであるはずの者たちが死ぬ。せっかく生きのびて故国に還って来たのに、愛する者たちはみな死んでいたというこのむなしさは忘れられぬ。同時に、このむなしさの向うからひらけて来たあの大らかな世界も忘れられぬ。わたしの心の中にはいつもこの二つのものがある。空しさの方は「虚空」、大らかさの方は「空」。わたしの心の奥には、虚空と空とが重なり合
っているようである。
 
 こういう意味の「空」ならば、わたしにはよく分る。いろんな人と話していると、眼の色や態度で大体どんなことを考えているか分る。わたしが今まで出会った人々の中で、なつかしいと思った方々はほとんど全部、この空しさを通り抜けて「空」に至った方ばかりである。円覚寺の朝比奈宗源老師しかり。南禅寺の柴山全慶老師しかり。藤沢市鵠沼に、ご退隠の中川日史貌下しかりである。
  
 現代に生きているわれわれは、空しいということをほんとうに体験し、それを突き抜けたところにほんとうの空がひらけて来るのだということをよく味ってみるべきである。
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鈴木一生氏の覚醒体験

2019年07月19日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は鈴木一生氏の覚醒体験である。

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以下に『さとりへの道―上座仏教の瞑想体験 』(春秋社)の中に記された、著者:鈴木一生氏の体験を取り上げる。
 鈴木氏は、天台宗で得度し僧籍をもつ人だが、上座仏教と出会い、激しい葛藤の中で、これまで学んだ大乗仏教、とくに法華経信仰を捨てて上座仏教に帰依していく。著書には、その過程、またヴィパッサナー瞑想で目覚めていく過程が、具体的にわかりやすく記述されていて、興味つきない。
  瞑想には、止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)があり、心をひとつのものに集中させ統一させるのがサマタ瞑想だ。たとえば呼吸や数を数えることや曼陀羅に集中したり、念仏に集中したりするのはサマタ瞑想だ。
 これに体してヴィパッサナー瞑想は、今現在の自分の心に気づくというサティの訓練が中心になる。  この違いが、彼の修行体験を通して具体的に生き生きと語れており、すこぶる興味深い。ヴィパッサナー瞑想の段階的に非常に体系化された修行法がわかって面白い。その一段一段で、彼がどんな風に悩み、それを克服して行ったかが克明に記され、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いが自ずと浮き上がる。
 ここでは、ミャンマーでの修行中に起こった「解脱」体験の部分と取り上げる。 

◆「これは、もう、 言葉には表せない……」
  その日、私はさらにまた不思議な体験を味わいました。そのころ、私の瞑想修行は正午に道場で座りはじめると、そのあと六時間ほどはまったく動かずに座禅瞑想に入るのです。ほんと うは、これもヴィバッサナー瞑想法としてはあまり感心できる方法ではないのです。ところが、 その日は座禅瞑想に入って二時間ほど経ったあとこれまで一度も体験したことのないほどの強烈なサーマディの感覚を味わったのです。それは最初、からだじゅうの毛穴という毛穴が逆立 つと言ったような感覚からはじまりました。それとともにこれまでクリアに観察できていた自分の呼吸が、どういうわけかそのときに消えてしまったとでも言えばいいのか、呼吸が消える とはちょっと考えられない状態なのですが、しかしたしかに、私のからだは呼吸をすることを やめてしまっていたのです。それと同時に、生まれてこのかた一度も経験したことのない、安寧な心持ちとでも言うのか、まるで法悦境に混るが如くの世界に自分がいるような気持――。 この世のできごととはとても思えませんでした。もしこれが天界というところなら、もうこのまま死んでもかまわない――そこまで思わせるような喜悦の世界だったのです。ほんとうは、そこでサティをしなくてはいけないのですが、あまりの法悦にその世界が消えてしまうことを恐れて、私はじっとその世界に遊ぶ心を楽しんでいたのです。
 何ものにも代えがたい、強烈な喜悦の世界でした。心もからだも何も存在しない。一切の感覚がなくなって、これほどまでの喜びの世界があったのか、こんな境地にまで心は行くことができるのか。心とはなんとも不思議なものだ、と私は喜悦感にただ浸っていました。あのときの状態を、今もう一度ここで表現しようとしても、それは不可能だろうと思います。「心身脱落」と道元禅師は言われましたが、私の体験もまさにそれではないかと思ったものです。身体も心(呼吸)もまったく消滅してしまったあとの感覚と言っていい、まさに強烈なサーマディ の体験でした。
 桃源郷に遊ぶとでもいうのか、あえて言えば、私は経験がありませんから観念的にしかわか りませんが、麻薬を一気に吸引したようなものであったと一言えるかもしれません。脳内モルヒ ネが大量に放出されていたのかもしれません。巨万の富、たとえば一〇〇億円と引き換えよう と提案されても拒否し、手放せないようなとてつもない安楽感でした。このまま死ぬことになってもまったく悔いの残らない、いや事実私はこのまま死にたいとさえ思ったのです。自分の呼吸さえ消滅してしまうとは、いやはやこれだけはだれにも、どう説明しても信じてもらえな いような現象を体験していたのです。

◆これを 「解脱」というのか
  どのくらいの時が流れたのでしょうか。何分、否数十秒のことだったのかもしれません。時 の概念すら失念していましたからよくわかりませんが、呼吸が停止していたのですからたぶん数十秒だったのでしょう、私はふと、「いけない、サティしなければ」と気がつきました。今、自分はヴィバッサナー瞑想中だったのだと、それすらにも思いが行っていないことを知ったのです。
  「ノーイング、ノーイング」と私はサティをはじめました。「ノーイング=知っている」とサティしたのは、おなかにも呼吸にもどこにも意識がいっていないために、サティする対象がなかったからです。肉体のどこにも存在感を示す部分がない、つまり一切の感覚がないために、サティを切らさず、言葉によって意識を集中するための手段として「ノーイング」という言葉 があるのです。
 「ノーイング、ノーイング」とサティを再開するとたんに、この世のものとは思われないほど のあの喜悦感は嘘のように霧散し、すぐさまおなかの膨らみ・縮みの現象がくっきりと浮かんできました。えも言われぬ貴重な体験をした際であり、この機を逃してはならじとばかりに私はどこまで細かくサティができるものなのか目を凝らすような感じでおなかの動きに集中しました。おなかの膨らみが、それはまるで海の大きな波のうねりのような感覚を持って意識されます。"ずー、ずー、ずー”たゆとう海原を緩やかに押し寄せるがごとく膨らんでいき、最後はさざ波が細かく砕け散っていく様で頂点を迎えます。その刹那の鋼鉄のような鋭い膨らみのあとに、また波が海原に帰っていくように消えいるような、引いていくがごとくおなかの縮みが観察されるのです。その一瞬一瞬がまるでストップモーションの映画を見るようにひとコマひとコマずつ停止され、一刹那の動きも漏らすことなく心を凝らして観ていられるのです。


続きは次でご覧ください。⇒ 鈴木一生氏の覚醒体験
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玉城康四郎氏の覚醒体験(3)

2019年07月18日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は玉城康四郎氏の覚醒体験(3)である。

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 玉城康四郎氏については、すでにその若き日の至高体験をその(1)で、また、最晩年、「七十八歳の十二月の暮れ、求め心がぽとりと抜け落ちて以来、入定ごとに堰を切ったように、形なき「いのち」が全人格体に充濫し、大瀑流となって吹き抜けていく」という体験を、その(2)に紹介した。
 しかし、氏の「仏道を学ぶ」という求道記のなかには、78歳以前の晩年にも、以下のような記述がしきりに見られる。氏にとっては、それらはまだ徹底しない体験だったのだろうが、ここにその一部を収録して少しでも多くの方に読んでいただく価値は充分にあると思う。以下も『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版)よりの収録である。

七十歳 ( 昭 和 六十一年 )
 何とも表現できぬバック・グラウンドの強烈な力、全人格体を背後から射抜き、全人格体、内部から震え出す。ビッグバン以来、今初めて、ダンマ、この人格体に開き初めぬ。

 意識の裏に体があり、体は宇宙に直結する。意識がだんだん問題でなくなり、確かなものが、宇宙から外へと伝わってくる。禅定の姿はいろいろ変わるが、変わらぬものは、ますます確かなものへ と方向づけられていく。
 入定……煩悩なく、悟りなく、解脱なく、生死なく、涅槃なし。然れども、在るなり、動くなり、 働くなり。
 入定……太陽、我を撲滅して、虚空果てなきが如し。我なく、全人格体なく、解脱なく、煩悩なく、 生死なく、涅槃なし。しかも、「在る」のでもなく、「動く」のでもなく、「働く」のでもなけれども、一切の想念を打ち亡ぼして、在らしむるなり、動かしむるなり、働かしむるなり。

  業熟体の根っこが開(あ)いてきた。ブラック・ボックスでなくなってきた。どこまでも開いていく、毘盧遮那仏が果てしなく根づいている。何と不思議な全人格体であろう、全人格体が不可思議を満喫している。

七十五歳(平成二年)
 入定……全人格体が、物理的仕組みまで、如来によって改造されつつあり、魂そのものが、無条件に如来に導かれていく。
 
入定……業熟体に穴あく。懸命に集中すればするほど、穴が確かなものになっていく。それこそ、 ダンマ・如来の噴き出る穴。  
  
 入定……阿弥陀如来、仏国土に誘い給う、薄明の清澄な宮殿に入りたるが如し、荘厳警えようもなし。
 
入定……如来、通徹し給う。ただひたすら如来を憶念す。憶念すればするほど、全人格体、法熟す。 二十五年前、禅宗の坐禅に訣別れて、ブッダの禅定を学び始めてより、今ようやく自己自身の根本問 題、融けつつあり。
 
一大眼光、透徹。ブラフマン徹透。眼光ただ未来界を見透す。これまでの禅行者のなかに、なお大悟に固執している誤りのあることが分かる。
 
禅定のなかで、業熟体の底なき底から、未知の混沌が、生々と「いのち」となって噴出する、どこまで も、どこまでも。いったいどうなるのだろう、興趣まさに津々。
  大宇宙の、底知れぬ、ただひとつの穴より、噴きあがる「いのち」そのものよ、全人格体、五体投地せり。
 
宇宙の「いのちそ」のもののなかに入定しているうちに、すんなり、率直に、「われは宇宙の子なり」という思い、顕わになり、やがて「いのち」そのものが、深々と、循々と伝わり、ついに通徹しつづけていく。
 
入定するや、突如、宇宙そのものが顕わになり、一切が開放され、開放という思いも消え、動態そ のままという外はない。全境地が活動そのもので、あらゆる細胞が赫々と開け切っていく。どこに も暗がないばかりか、光のイメージも消える。Dynamic Development Itself.
 
大黙の、底よりいづる、金剛戒、わが格体を突きやぶりたり。
 この己を、ずーっと戻してみると、おのずからにして、おのずからなる「いのち」そのもの、果てしな き無量寿にいたる。 この世に存命中に、己とブラフマンを軸とする科学的宇宙の解明が目論まれていたが、今やその基本線が明らかになろうとしている。 己の欲する所に従って、ダンマ離れざるのみならず、欲する所を尽くせば、尽くすほど、ダンマ全徹し、体通す。大いなる冥定、杜絶なき動態。

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