◆SRKWブッダさんのコメントに関連して
SRKWブッダさんにどのようにかかわっていくか、は私にとってはひとつの選択であった。談話室(掲示板)では、2003年12月からのSRKWブッダさんの書きこみ以来、かなりのやりとりがあった。SRKWブッダさんと私の間のいちばん大きな見解の違いは、SRKWブッダさんが「覚りの境地は世間で言ういわゆる修行によって至ることはできない」と主張し、修行はむしろマイナスになるとしている点だった。もちろん私は、ヴィパッサナー瞑想を実践しており、それが覚醒と関係がないとは思っていない。またSRKWブッダさんは、心理的成長と「覚りの境地」とも一切関係ないと主張した。それに対し私は、心理的な成長と覚醒との間に何かしらつながりがあると考えている。
もし私が、メールや電話でのやりとりの中でSRKWブッダさんこそが、ご自分でそう呼ぶように真の「ブッダ」であると確信したなら、ヴィパッサナー瞑想を捨ててSRKWブッダさんについていったかもしれない。実際には、自分でこれと思った実践の道を捨ててまでSRKWブッダさんについていく気持ちにはならなかった。また彼を真の「ブッダ」と信じるまでには至らなかった。ただし今でも何かしらをつかんだ人であろうとは思っている。
だから今回のブログへのコメントも、これまでの多くのやりとりを抜きにいきなり読めば、かなり礼を逸した、腹立たしい発言内容に見えるだろう。私も読んだ一瞬はそう感じてしまう。しかし少し冷静になれば、これが彼特有の「働きかけ」であることはよく分かるのである。ただし私は、この「働きかけ」に乗っていく気にはならない。また、私が瞑想という方法で進んでいこうとする気持ちに何かしらマイナスの影響を受けてしまうのも確かなのである。
私は、いま自分自身が選んだ修行の道を進んでいきたいのである。SRKWブッダさんからの「働きかけ」に応じていく気にはなれないし、彼の「働きかけ」は、私の歩みにとってはマイナスに働くのである。そんなわけで、以後SRKWブッダさんには、談話室(掲示板)やブログへの書き込みをご遠慮してもらいたい旨を伝えた。SRKWブッダさんも「ご縁があればまた」という言葉を残して、了承してくれた。
SRKWブッダさんにどのようにかかわっていくか、は私にとってはひとつの選択であった。談話室(掲示板)では、2003年12月からのSRKWブッダさんの書きこみ以来、かなりのやりとりがあった。SRKWブッダさんと私の間のいちばん大きな見解の違いは、SRKWブッダさんが「覚りの境地は世間で言ういわゆる修行によって至ることはできない」と主張し、修行はむしろマイナスになるとしている点だった。もちろん私は、ヴィパッサナー瞑想を実践しており、それが覚醒と関係がないとは思っていない。またSRKWブッダさんは、心理的成長と「覚りの境地」とも一切関係ないと主張した。それに対し私は、心理的な成長と覚醒との間に何かしらつながりがあると考えている。
もし私が、メールや電話でのやりとりの中でSRKWブッダさんこそが、ご自分でそう呼ぶように真の「ブッダ」であると確信したなら、ヴィパッサナー瞑想を捨ててSRKWブッダさんについていったかもしれない。実際には、自分でこれと思った実践の道を捨ててまでSRKWブッダさんについていく気持ちにはならなかった。また彼を真の「ブッダ」と信じるまでには至らなかった。ただし今でも何かしらをつかんだ人であろうとは思っている。
だから今回のブログへのコメントも、これまでの多くのやりとりを抜きにいきなり読めば、かなり礼を逸した、腹立たしい発言内容に見えるだろう。私も読んだ一瞬はそう感じてしまう。しかし少し冷静になれば、これが彼特有の「働きかけ」であることはよく分かるのである。ただし私は、この「働きかけ」に乗っていく気にはならない。また、私が瞑想という方法で進んでいこうとする気持ちに何かしらマイナスの影響を受けてしまうのも確かなのである。
私は、いま自分自身が選んだ修行の道を進んでいきたいのである。SRKWブッダさんからの「働きかけ」に応じていく気にはなれないし、彼の「働きかけ」は、私の歩みにとってはマイナスに働くのである。そんなわけで、以後SRKWブッダさんには、談話室(掲示板)やブログへの書き込みをご遠慮してもらいたい旨を伝えた。SRKWブッダさんも「ご縁があればまた」という言葉を残して、了承してくれた。
覚りの境地に至ることと心理的成長との間に関係があるのかどうかは私には明確には解りませんが、少なくとも、こころからの静かな徳の養成は必要であり、それは、誰かに働きかけられたり誰かを信じてついて行くことによって為されるのではなく、自らにのみ依拠して為されるものであると思っています。
自分のなかでは熟慮したという感じはありませんが、私にとって自然な流れという感じがしています。
「覚りの境地」に至ることと心理的成長との間に関係」は、私にとっても一筋の単純な投げれでだという感じはしていません。少なくとも、自分の中に抑圧さてたものを解放していく過程は、私にとってとても大切です。瞑想は、その過程をおおいに手助けしてくれたと思うし、これからもそうだと思っています。
しかし、それこそが大きな誤りだと!
瞑想が瞑想法に変質していたのだ!
あらゆる修行がルーティンワークになるとき
そこに気づきも変容も生じないだろう!
sブッダが言うのは、まさに座禅
イコール禅修行ではないということに
等しい!
がすべては慈悲深くあること、あらゆる道はこれに尽きる!ゆえに慈悲の瞑想こそが最初で最後と成る仏道だ!
慈悲の瞑想がある時、ビパサナは瞑想法ではなく
瞑想となる!
慈悲の瞑想が形式となるとき
真念が不在の時、仏道は仏教
となる!
ダッチワイフと性行する愚かな信者に道は観えない。合掌