旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は紀野一義氏の覚醒体験である。
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紀野一義氏を宗教家に入れてようかどうかわからない。在家で数々の一般向けの仏教書を著し、多くの人々の心をつかんで来た人である。私も、本が出るたびに買って夢中で読んで来たし、彼の主催する会に参加し、講演も何度も聴いた。最近ある方に紀野氏の本を紹介したのがきっかけで、ふと以下の文をこの事例集に入れようという気になった。
私にとって、とてもなつかしく素晴らしい人の体験をここに入れられるのを、とてもうれしく思う。
文章は、『禅―現代に生きるもの (NHKブックス 35) 』からの掲載である。
わたしは、広島に育ち、旧制の広島高校を出て東大の印度哲学科に学び、二年生のとき学徒動員で召集されて戦場に赴いた。終戦と同時に中国軍の捕虜になり、翌年の春ようやく帰国した。父母姉妹はすでに原爆で死に、故里の町 はあとかたもなくなっていることは未だなにも知らず、ちょうど三月一日、新円切替の日に大竹港に上陸したのである。大竹から広島まで列車で運ばれ、夕方広島駅に降り立った。帰還軍人なのでもの凄い格好をして改札口に出て来たら、柱のかげから若い警官がじっとわたしを見ている。挙動不審と思ったのであろう、「あなた、どこへ行きますか」と訊ねる。「家のあとがどうなっているかたずねて行ってみたい」と答えると、「夜になると強盗が出るから、あなた、行くのよしなさい」という。
わたしは別に盗られるものもなし、「別に恐くないから行きますよ」というと、この警官は人の頭の先から足の先までじろじろ見廻して、「そうですね、あなた、見たところ強盗みたいな風態(ふうてい)だから、まあ大丈夫でしょう」という。こうして、夕方おそくわたしの家のあとをやっと見つけたのであるが、あるのは瓦礫ばかり、雨に打たれて塔婆が一本斜めに立っているぱかりであった。悄然としてまた駅に戻って来ると、駅の柱のかげにさっきの警官が立ってじっとこちらを見守っている。わたしが無事に帰って来るかどうか見ていたのであろう。「どうでした」という。「どうもこうもない。なんにもありゃしません」と、つっけんどんに答えた。すると、「あなた、今晩どこへ泊りますか」という。「どこにも泊るあてはない」というと、「それじゃ、わたしについていらっしゃい」といって、わたしを交通公社の職員の寝泊りしている部屋に連れて行ってくれたのである。
そこで一夜を明したのであるが、そこの若い二人の職員がご飯を炊いて食べさせてくれた。当時は、泊めてやった復員軍人がよく強盗に早変りした時代である。それを二人の青年は泊めてくれた上にご飯まで炊いて食べさせてくれた。その親切がひどくこたえた。見ず知らずの若い二人の青年の無償の親切、これが今日までずっとわたしの心を支配している。大勢の他人がわたしを支えてくれるのだとう感じが、そのときから今日まで変わりなく続いているのである。
それから岡山県の津山という山間の域下町に嫁いでいた姉を頼って行った。姉はわたしが沖縄の戦場で死んだと思っていたから、玄関に棒立ちになって、幽霊でも見るように上から下まで見上げ見下して、台所へ飛んで行って泣き出す。仕方がないのでわたしはひとり仏間へ入って過去帳を一枚ずつめくって六日のところを披(ひら)いた。その過去帳の一枚一枚の重さをわたしはまだ指の先に覚えている。眼をつぶって、思いきって六日のところを披いたら、見たこともない戒名が四つ、ずらっと並んでいた。しばらく身動きもできず、黙っていた。それからのろのろと立ち上り、持って来た甘いものなどを供えて法華経をよんだ。
その晩は早く寝みなさいというので、少し離れた客殿というところに寝た。今でもよく覚えているが、時計が遠くでポーン、ポーンと二つ鳴ったとき眼を覚ましたのである。なにかに胸をぐっと押えつけられたような気がして、びっくりして布団を刎ね返して飛び起きたら、背中のあたりから全身の力が抜け落ちて腑抜けのようになって、恐ろしいほどさびしくなって、恥ずかしい話だが二時間ばかり獣のように泣いた。人間は一生の中一度は獣のように泣く時があるそうであるが、その時がそうだったのかも知れぬ。布団を引っ被って坤きながら泣いて、泣いて、泣き通した。
それが、不思議なことに、四時になって時計がボーンボーンポーンポーンと四つ鳴ると同時に、それこそ憑き物ものが落ちるように、ストッと一時になにかが抜け落ちた。それを境にして、さびしくもかなしくもなくなったのである。父も母も姉も株も、死んだという感じがまるでしなくなったのである。体の中からなにかが脱け落ちた。死んだんじゃない、仏のいのちに帰ったのだという確信がぐんぐん胸の中にひろがって来た。そのとき思い出したのが、死んだ父親の教えてくれたことばである。子供のときから教えられたことばである。
「人間というものはな、死んだら仏のいのちに帰るんだ。死ぬんじゃない 。仏のいのちに帰るんだ」
それまでどういうことなのかよく分らないでいたそのことばが、はじめて、ずしいんと体の底までこたえた。
人間のいのちは死ねば仏のいのちに帰る。この考えはそのとき以来ずっと変っていない。いよいよ深くなるばかりである。知人朋友を亡くしてもこの思いに変りはない。もちろん、人間のことであるから、さびしさ、かなしさ、せつなさには堪えぬ。しかし、それだけではない別のもの、仏のいのちに帰したという安らかさがいつもわたしの感慨の底に横たわっているのである。
わたしは、今でも自分のまわりに父母や姉妹が居るような感じを持っている。それは証明しろといわれても証明のしようがない。証明しようがないだけそれだけわたしにとってはどうすることもできない真実である。
この二時間の慟哭の中で感じとったのは、なんともいえぬむなしさであった。死ぬべきはず の者が生きのび、生きであるはずの者たちが死ぬ。せっかく生きのびて故国に還って来たのに、愛する者たちはみな死んでいたというこのむなしさは忘れられぬ。同時に、このむなしさの向うからひらけて来たあの大らかな世界も忘れられぬ。わたしの心の中にはいつもこの二つのものがある。空しさの方は「虚空」、大らかさの方は「空」。わたしの心の奥には、虚空と空とが重なり合
っているようである。
こういう意味の「空」ならば、わたしにはよく分る。いろんな人と話していると、眼の色や態度で大体どんなことを考えているか分る。わたしが今まで出会った人々の中で、なつかしいと思った方々はほとんど全部、この空しさを通り抜けて「空」に至った方ばかりである。円覚寺の朝比奈宗源老師しかり。南禅寺の柴山全慶老師しかり。藤沢市鵠沼に、ご退隠の中川日史貌下しかりである。
現代に生きているわれわれは、空しいということをほんとうに体験し、それを突き抜けたところにほんとうの空がひらけて来るのだということをよく味ってみるべきである。
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紀野一義氏を宗教家に入れてようかどうかわからない。在家で数々の一般向けの仏教書を著し、多くの人々の心をつかんで来た人である。私も、本が出るたびに買って夢中で読んで来たし、彼の主催する会に参加し、講演も何度も聴いた。最近ある方に紀野氏の本を紹介したのがきっかけで、ふと以下の文をこの事例集に入れようという気になった。
私にとって、とてもなつかしく素晴らしい人の体験をここに入れられるのを、とてもうれしく思う。
文章は、『禅―現代に生きるもの (NHKブックス 35) 』からの掲載である。
わたしは、広島に育ち、旧制の広島高校を出て東大の印度哲学科に学び、二年生のとき学徒動員で召集されて戦場に赴いた。終戦と同時に中国軍の捕虜になり、翌年の春ようやく帰国した。父母姉妹はすでに原爆で死に、故里の町 はあとかたもなくなっていることは未だなにも知らず、ちょうど三月一日、新円切替の日に大竹港に上陸したのである。大竹から広島まで列車で運ばれ、夕方広島駅に降り立った。帰還軍人なのでもの凄い格好をして改札口に出て来たら、柱のかげから若い警官がじっとわたしを見ている。挙動不審と思ったのであろう、「あなた、どこへ行きますか」と訊ねる。「家のあとがどうなっているかたずねて行ってみたい」と答えると、「夜になると強盗が出るから、あなた、行くのよしなさい」という。
わたしは別に盗られるものもなし、「別に恐くないから行きますよ」というと、この警官は人の頭の先から足の先までじろじろ見廻して、「そうですね、あなた、見たところ強盗みたいな風態(ふうてい)だから、まあ大丈夫でしょう」という。こうして、夕方おそくわたしの家のあとをやっと見つけたのであるが、あるのは瓦礫ばかり、雨に打たれて塔婆が一本斜めに立っているぱかりであった。悄然としてまた駅に戻って来ると、駅の柱のかげにさっきの警官が立ってじっとこちらを見守っている。わたしが無事に帰って来るかどうか見ていたのであろう。「どうでした」という。「どうもこうもない。なんにもありゃしません」と、つっけんどんに答えた。すると、「あなた、今晩どこへ泊りますか」という。「どこにも泊るあてはない」というと、「それじゃ、わたしについていらっしゃい」といって、わたしを交通公社の職員の寝泊りしている部屋に連れて行ってくれたのである。
そこで一夜を明したのであるが、そこの若い二人の職員がご飯を炊いて食べさせてくれた。当時は、泊めてやった復員軍人がよく強盗に早変りした時代である。それを二人の青年は泊めてくれた上にご飯まで炊いて食べさせてくれた。その親切がひどくこたえた。見ず知らずの若い二人の青年の無償の親切、これが今日までずっとわたしの心を支配している。大勢の他人がわたしを支えてくれるのだとう感じが、そのときから今日まで変わりなく続いているのである。
それから岡山県の津山という山間の域下町に嫁いでいた姉を頼って行った。姉はわたしが沖縄の戦場で死んだと思っていたから、玄関に棒立ちになって、幽霊でも見るように上から下まで見上げ見下して、台所へ飛んで行って泣き出す。仕方がないのでわたしはひとり仏間へ入って過去帳を一枚ずつめくって六日のところを披(ひら)いた。その過去帳の一枚一枚の重さをわたしはまだ指の先に覚えている。眼をつぶって、思いきって六日のところを披いたら、見たこともない戒名が四つ、ずらっと並んでいた。しばらく身動きもできず、黙っていた。それからのろのろと立ち上り、持って来た甘いものなどを供えて法華経をよんだ。
その晩は早く寝みなさいというので、少し離れた客殿というところに寝た。今でもよく覚えているが、時計が遠くでポーン、ポーンと二つ鳴ったとき眼を覚ましたのである。なにかに胸をぐっと押えつけられたような気がして、びっくりして布団を刎ね返して飛び起きたら、背中のあたりから全身の力が抜け落ちて腑抜けのようになって、恐ろしいほどさびしくなって、恥ずかしい話だが二時間ばかり獣のように泣いた。人間は一生の中一度は獣のように泣く時があるそうであるが、その時がそうだったのかも知れぬ。布団を引っ被って坤きながら泣いて、泣いて、泣き通した。
それが、不思議なことに、四時になって時計がボーンボーンポーンポーンと四つ鳴ると同時に、それこそ憑き物ものが落ちるように、ストッと一時になにかが抜け落ちた。それを境にして、さびしくもかなしくもなくなったのである。父も母も姉も株も、死んだという感じがまるでしなくなったのである。体の中からなにかが脱け落ちた。死んだんじゃない、仏のいのちに帰ったのだという確信がぐんぐん胸の中にひろがって来た。そのとき思い出したのが、死んだ父親の教えてくれたことばである。子供のときから教えられたことばである。
「人間というものはな、死んだら仏のいのちに帰るんだ。死ぬんじゃない 。仏のいのちに帰るんだ」
それまでどういうことなのかよく分らないでいたそのことばが、はじめて、ずしいんと体の底までこたえた。
人間のいのちは死ねば仏のいのちに帰る。この考えはそのとき以来ずっと変っていない。いよいよ深くなるばかりである。知人朋友を亡くしてもこの思いに変りはない。もちろん、人間のことであるから、さびしさ、かなしさ、せつなさには堪えぬ。しかし、それだけではない別のもの、仏のいのちに帰したという安らかさがいつもわたしの感慨の底に横たわっているのである。
わたしは、今でも自分のまわりに父母や姉妹が居るような感じを持っている。それは証明しろといわれても証明のしようがない。証明しようがないだけそれだけわたしにとってはどうすることもできない真実である。
この二時間の慟哭の中で感じとったのは、なんともいえぬむなしさであった。死ぬべきはず の者が生きのび、生きであるはずの者たちが死ぬ。せっかく生きのびて故国に還って来たのに、愛する者たちはみな死んでいたというこのむなしさは忘れられぬ。同時に、このむなしさの向うからひらけて来たあの大らかな世界も忘れられぬ。わたしの心の中にはいつもこの二つのものがある。空しさの方は「虚空」、大らかさの方は「空」。わたしの心の奥には、虚空と空とが重なり合
っているようである。
こういう意味の「空」ならば、わたしにはよく分る。いろんな人と話していると、眼の色や態度で大体どんなことを考えているか分る。わたしが今まで出会った人々の中で、なつかしいと思った方々はほとんど全部、この空しさを通り抜けて「空」に至った方ばかりである。円覚寺の朝比奈宗源老師しかり。南禅寺の柴山全慶老師しかり。藤沢市鵠沼に、ご退隠の中川日史貌下しかりである。
現代に生きているわれわれは、空しいということをほんとうに体験し、それを突き抜けたところにほんとうの空がひらけて来るのだということをよく味ってみるべきである。