瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

紀野一義氏の覚醒体験

2019年07月21日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は紀野一義氏の覚醒体験である。

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 紀野一義氏を宗教家に入れてようかどうかわからない。在家で数々の一般向けの仏教書を著し、多くの人々の心をつかんで来た人である。私も、本が出るたびに買って夢中で読んで来たし、彼の主催する会に参加し、講演も何度も聴いた。最近ある方に紀野氏の本を紹介したのがきっかけで、ふと以下の文をこの事例集に入れようという気になった。
 私にとって、とてもなつかしく素晴らしい人の体験をここに入れられるのを、とてもうれしく思う。
 文章は、『禅―現代に生きるもの (NHKブックス 35) 』からの掲載である。
 
 わたしは、広島に育ち、旧制の広島高校を出て東大の印度哲学科に学び、二年生のとき学徒動員で召集されて戦場に赴いた。終戦と同時に中国軍の捕虜になり、翌年の春ようやく帰国した。父母姉妹はすでに原爆で死に、故里の町 はあとかたもなくなっていることは未だなにも知らず、ちょうど三月一日、新円切替の日に大竹港に上陸したのである。大竹から広島まで列車で運ばれ、夕方広島駅に降り立った。帰還軍人なのでもの凄い格好をして改札口に出て来たら、柱のかげから若い警官がじっとわたしを見ている。挙動不審と思ったのであろう、「あなた、どこへ行きますか」と訊ねる。「家のあとがどうなっているかたずねて行ってみたい」と答えると、「夜になると強盗が出るから、あなた、行くのよしなさい」という。
 
 わたしは別に盗られるものもなし、「別に恐くないから行きますよ」というと、この警官は人の頭の先から足の先までじろじろ見廻して、「そうですね、あなた、見たところ強盗みたいな風態(ふうてい)だから、まあ大丈夫でしょう」という。こうして、夕方おそくわたしの家のあとをやっと見つけたのであるが、あるのは瓦礫ばかり、雨に打たれて塔婆が一本斜めに立っているぱかりであった。悄然としてまた駅に戻って来ると、駅の柱のかげにさっきの警官が立ってじっとこちらを見守っている。わたしが無事に帰って来るかどうか見ていたのであろう。「どうでした」という。「どうもこうもない。なんにもありゃしません」と、つっけんどんに答えた。すると、「あなた、今晩どこへ泊りますか」という。「どこにも泊るあてはない」というと、「それじゃ、わたしについていらっしゃい」といって、わたしを交通公社の職員の寝泊りしている部屋に連れて行ってくれたのである。
 
 そこで一夜を明したのであるが、そこの若い二人の職員がご飯を炊いて食べさせてくれた。当時は、泊めてやった復員軍人がよく強盗に早変りした時代である。それを二人の青年は泊めてくれた上にご飯まで炊いて食べさせてくれた。その親切がひどくこたえた。見ず知らずの若い二人の青年の無償の親切、これが今日までずっとわたしの心を支配している。大勢の他人がわたしを支えてくれるのだとう感じが、そのときから今日まで変わりなく続いているのである。
 
 それから岡山県の津山という山間の域下町に嫁いでいた姉を頼って行った。姉はわたしが沖縄の戦場で死んだと思っていたから、玄関に棒立ちになって、幽霊でも見るように上から下まで見上げ見下して、台所へ飛んで行って泣き出す。仕方がないのでわたしはひとり仏間へ入って過去帳を一枚ずつめくって六日のところを披(ひら)いた。その過去帳の一枚一枚の重さをわたしはまだ指の先に覚えている。眼をつぶって、思いきって六日のところを披いたら、見たこともない戒名が四つ、ずらっと並んでいた。しばらく身動きもできず、黙っていた。それからのろのろと立ち上り、持って来た甘いものなどを供えて法華経をよんだ。
 
 その晩は早く寝みなさいというので、少し離れた客殿というところに寝た。今でもよく覚えているが、時計が遠くでポーン、ポーンと二つ鳴ったとき眼を覚ましたのである。なにかに胸をぐっと押えつけられたような気がして、びっくりして布団を刎ね返して飛び起きたら、背中のあたりから全身の力が抜け落ちて腑抜けのようになって、恐ろしいほどさびしくなって、恥ずかしい話だが二時間ばかり獣のように泣いた。人間は一生の中一度は獣のように泣く時があるそうであるが、その時がそうだったのかも知れぬ。布団を引っ被って坤きながら泣いて、泣いて、泣き通した。
 
 それが、不思議なことに、四時になって時計がボーンボーンポーンポーンと四つ鳴ると同時に、それこそ憑き物ものが落ちるように、ストッと一時になにかが抜け落ちた。それを境にして、さびしくもかなしくもなくなったのである。父も母も姉も株も、死んだという感じがまるでしなくなったのである。体の中からなにかが脱け落ちた。死んだんじゃない、仏のいのちに帰ったのだという確信がぐんぐん胸の中にひろがって来た。そのとき思い出したのが、死んだ父親の教えてくれたことばである。子供のときから教えられたことばである。
「人間というものはな、死んだら仏のいのちに帰るんだ。死ぬんじゃない 。仏のいのちに帰るんだ」
 
 それまでどういうことなのかよく分らないでいたそのことばが、はじめて、ずしいんと体の底までこたえた。
 
 人間のいのちは死ねば仏のいのちに帰る。この考えはそのとき以来ずっと変っていない。いよいよ深くなるばかりである。知人朋友を亡くしてもこの思いに変りはない。もちろん、人間のことであるから、さびしさ、かなしさ、せつなさには堪えぬ。しかし、それだけではない別のもの、仏のいのちに帰したという安らかさがいつもわたしの感慨の底に横たわっているのである。
 
 わたしは、今でも自分のまわりに父母や姉妹が居るような感じを持っている。それは証明しろといわれても証明のしようがない。証明しようがないだけそれだけわたしにとってはどうすることもできない真実である。
 
 この二時間の慟哭の中で感じとったのは、なんともいえぬむなしさであった。死ぬべきはず の者が生きのび、生きであるはずの者たちが死ぬ。せっかく生きのびて故国に還って来たのに、愛する者たちはみな死んでいたというこのむなしさは忘れられぬ。同時に、このむなしさの向うからひらけて来たあの大らかな世界も忘れられぬ。わたしの心の中にはいつもこの二つのものがある。空しさの方は「虚空」、大らかさの方は「空」。わたしの心の奥には、虚空と空とが重なり合
っているようである。
 
 こういう意味の「空」ならば、わたしにはよく分る。いろんな人と話していると、眼の色や態度で大体どんなことを考えているか分る。わたしが今まで出会った人々の中で、なつかしいと思った方々はほとんど全部、この空しさを通り抜けて「空」に至った方ばかりである。円覚寺の朝比奈宗源老師しかり。南禅寺の柴山全慶老師しかり。藤沢市鵠沼に、ご退隠の中川日史貌下しかりである。
  
 現代に生きているわれわれは、空しいということをほんとうに体験し、それを突き抜けたところにほんとうの空がひらけて来るのだということをよく味ってみるべきである。
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鈴木一生氏の覚醒体験

2019年07月19日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は鈴木一生氏の覚醒体験である。

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以下に『さとりへの道―上座仏教の瞑想体験 』(春秋社)の中に記された、著者:鈴木一生氏の体験を取り上げる。
 鈴木氏は、天台宗で得度し僧籍をもつ人だが、上座仏教と出会い、激しい葛藤の中で、これまで学んだ大乗仏教、とくに法華経信仰を捨てて上座仏教に帰依していく。著書には、その過程、またヴィパッサナー瞑想で目覚めていく過程が、具体的にわかりやすく記述されていて、興味つきない。
  瞑想には、止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)があり、心をひとつのものに集中させ統一させるのがサマタ瞑想だ。たとえば呼吸や数を数えることや曼陀羅に集中したり、念仏に集中したりするのはサマタ瞑想だ。
 これに体してヴィパッサナー瞑想は、今現在の自分の心に気づくというサティの訓練が中心になる。  この違いが、彼の修行体験を通して具体的に生き生きと語れており、すこぶる興味深い。ヴィパッサナー瞑想の段階的に非常に体系化された修行法がわかって面白い。その一段一段で、彼がどんな風に悩み、それを克服して行ったかが克明に記され、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いが自ずと浮き上がる。
 ここでは、ミャンマーでの修行中に起こった「解脱」体験の部分と取り上げる。 

◆「これは、もう、 言葉には表せない……」
  その日、私はさらにまた不思議な体験を味わいました。そのころ、私の瞑想修行は正午に道場で座りはじめると、そのあと六時間ほどはまったく動かずに座禅瞑想に入るのです。ほんと うは、これもヴィバッサナー瞑想法としてはあまり感心できる方法ではないのです。ところが、 その日は座禅瞑想に入って二時間ほど経ったあとこれまで一度も体験したことのないほどの強烈なサーマディの感覚を味わったのです。それは最初、からだじゅうの毛穴という毛穴が逆立 つと言ったような感覚からはじまりました。それとともにこれまでクリアに観察できていた自分の呼吸が、どういうわけかそのときに消えてしまったとでも言えばいいのか、呼吸が消える とはちょっと考えられない状態なのですが、しかしたしかに、私のからだは呼吸をすることを やめてしまっていたのです。それと同時に、生まれてこのかた一度も経験したことのない、安寧な心持ちとでも言うのか、まるで法悦境に混るが如くの世界に自分がいるような気持――。 この世のできごととはとても思えませんでした。もしこれが天界というところなら、もうこのまま死んでもかまわない――そこまで思わせるような喜悦の世界だったのです。ほんとうは、そこでサティをしなくてはいけないのですが、あまりの法悦にその世界が消えてしまうことを恐れて、私はじっとその世界に遊ぶ心を楽しんでいたのです。
 何ものにも代えがたい、強烈な喜悦の世界でした。心もからだも何も存在しない。一切の感覚がなくなって、これほどまでの喜びの世界があったのか、こんな境地にまで心は行くことができるのか。心とはなんとも不思議なものだ、と私は喜悦感にただ浸っていました。あのときの状態を、今もう一度ここで表現しようとしても、それは不可能だろうと思います。「心身脱落」と道元禅師は言われましたが、私の体験もまさにそれではないかと思ったものです。身体も心(呼吸)もまったく消滅してしまったあとの感覚と言っていい、まさに強烈なサーマディ の体験でした。
 桃源郷に遊ぶとでもいうのか、あえて言えば、私は経験がありませんから観念的にしかわか りませんが、麻薬を一気に吸引したようなものであったと一言えるかもしれません。脳内モルヒ ネが大量に放出されていたのかもしれません。巨万の富、たとえば一〇〇億円と引き換えよう と提案されても拒否し、手放せないようなとてつもない安楽感でした。このまま死ぬことになってもまったく悔いの残らない、いや事実私はこのまま死にたいとさえ思ったのです。自分の呼吸さえ消滅してしまうとは、いやはやこれだけはだれにも、どう説明しても信じてもらえな いような現象を体験していたのです。

◆これを 「解脱」というのか
  どのくらいの時が流れたのでしょうか。何分、否数十秒のことだったのかもしれません。時 の概念すら失念していましたからよくわかりませんが、呼吸が停止していたのですからたぶん数十秒だったのでしょう、私はふと、「いけない、サティしなければ」と気がつきました。今、自分はヴィバッサナー瞑想中だったのだと、それすらにも思いが行っていないことを知ったのです。
  「ノーイング、ノーイング」と私はサティをはじめました。「ノーイング=知っている」とサティしたのは、おなかにも呼吸にもどこにも意識がいっていないために、サティする対象がなかったからです。肉体のどこにも存在感を示す部分がない、つまり一切の感覚がないために、サティを切らさず、言葉によって意識を集中するための手段として「ノーイング」という言葉 があるのです。
 「ノーイング、ノーイング」とサティを再開するとたんに、この世のものとは思われないほど のあの喜悦感は嘘のように霧散し、すぐさまおなかの膨らみ・縮みの現象がくっきりと浮かんできました。えも言われぬ貴重な体験をした際であり、この機を逃してはならじとばかりに私はどこまで細かくサティができるものなのか目を凝らすような感じでおなかの動きに集中しました。おなかの膨らみが、それはまるで海の大きな波のうねりのような感覚を持って意識されます。"ずー、ずー、ずー”たゆとう海原を緩やかに押し寄せるがごとく膨らんでいき、最後はさざ波が細かく砕け散っていく様で頂点を迎えます。その刹那の鋼鉄のような鋭い膨らみのあとに、また波が海原に帰っていくように消えいるような、引いていくがごとくおなかの縮みが観察されるのです。その一瞬一瞬がまるでストップモーションの映画を見るようにひとコマひとコマずつ停止され、一刹那の動きも漏らすことなく心を凝らして観ていられるのです。


続きは次でご覧ください。⇒ 鈴木一生氏の覚醒体験
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玉城康四郎氏の覚醒体験(3)

2019年07月18日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は玉城康四郎氏の覚醒体験(3)である。

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 玉城康四郎氏については、すでにその若き日の至高体験をその(1)で、また、最晩年、「七十八歳の十二月の暮れ、求め心がぽとりと抜け落ちて以来、入定ごとに堰を切ったように、形なき「いのち」が全人格体に充濫し、大瀑流となって吹き抜けていく」という体験を、その(2)に紹介した。
 しかし、氏の「仏道を学ぶ」という求道記のなかには、78歳以前の晩年にも、以下のような記述がしきりに見られる。氏にとっては、それらはまだ徹底しない体験だったのだろうが、ここにその一部を収録して少しでも多くの方に読んでいただく価値は充分にあると思う。以下も『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版)よりの収録である。

七十歳 ( 昭 和 六十一年 )
 何とも表現できぬバック・グラウンドの強烈な力、全人格体を背後から射抜き、全人格体、内部から震え出す。ビッグバン以来、今初めて、ダンマ、この人格体に開き初めぬ。

 意識の裏に体があり、体は宇宙に直結する。意識がだんだん問題でなくなり、確かなものが、宇宙から外へと伝わってくる。禅定の姿はいろいろ変わるが、変わらぬものは、ますます確かなものへ と方向づけられていく。
 入定……煩悩なく、悟りなく、解脱なく、生死なく、涅槃なし。然れども、在るなり、動くなり、 働くなり。
 入定……太陽、我を撲滅して、虚空果てなきが如し。我なく、全人格体なく、解脱なく、煩悩なく、 生死なく、涅槃なし。しかも、「在る」のでもなく、「動く」のでもなく、「働く」のでもなけれども、一切の想念を打ち亡ぼして、在らしむるなり、動かしむるなり、働かしむるなり。

  業熟体の根っこが開(あ)いてきた。ブラック・ボックスでなくなってきた。どこまでも開いていく、毘盧遮那仏が果てしなく根づいている。何と不思議な全人格体であろう、全人格体が不可思議を満喫している。

七十五歳(平成二年)
 入定……全人格体が、物理的仕組みまで、如来によって改造されつつあり、魂そのものが、無条件に如来に導かれていく。
 
入定……業熟体に穴あく。懸命に集中すればするほど、穴が確かなものになっていく。それこそ、 ダンマ・如来の噴き出る穴。  
  
 入定……阿弥陀如来、仏国土に誘い給う、薄明の清澄な宮殿に入りたるが如し、荘厳警えようもなし。
 
入定……如来、通徹し給う。ただひたすら如来を憶念す。憶念すればするほど、全人格体、法熟す。 二十五年前、禅宗の坐禅に訣別れて、ブッダの禅定を学び始めてより、今ようやく自己自身の根本問 題、融けつつあり。
 
一大眼光、透徹。ブラフマン徹透。眼光ただ未来界を見透す。これまでの禅行者のなかに、なお大悟に固執している誤りのあることが分かる。
 
禅定のなかで、業熟体の底なき底から、未知の混沌が、生々と「いのち」となって噴出する、どこまで も、どこまでも。いったいどうなるのだろう、興趣まさに津々。
  大宇宙の、底知れぬ、ただひとつの穴より、噴きあがる「いのち」そのものよ、全人格体、五体投地せり。
 
宇宙の「いのちそ」のもののなかに入定しているうちに、すんなり、率直に、「われは宇宙の子なり」という思い、顕わになり、やがて「いのち」そのものが、深々と、循々と伝わり、ついに通徹しつづけていく。
 
入定するや、突如、宇宙そのものが顕わになり、一切が開放され、開放という思いも消え、動態そ のままという外はない。全境地が活動そのもので、あらゆる細胞が赫々と開け切っていく。どこに も暗がないばかりか、光のイメージも消える。Dynamic Development Itself.
 
大黙の、底よりいづる、金剛戒、わが格体を突きやぶりたり。
 この己を、ずーっと戻してみると、おのずからにして、おのずからなる「いのち」そのもの、果てしな き無量寿にいたる。 この世に存命中に、己とブラフマンを軸とする科学的宇宙の解明が目論まれていたが、今やその基本線が明らかになろうとしている。 己の欲する所に従って、ダンマ離れざるのみならず、欲する所を尽くせば、尽くすほど、ダンマ全徹し、体通す。大いなる冥定、杜絶なき動態。

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玉城康四郎氏の覚醒体験(2)

2019年07月15日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は玉城康四郎氏の覚醒体験(2)である。

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 玉城康四郎氏の若き日の至高体験については、すでに取り上げた。玉城氏は、若き日の苦悩のなかで一時的に大爆発を起こし、覚醒するものの、しばらくするとまたもとのもくあみに戻ってしまう、ということを何度か繰り返した。一時は、今生で仏道を成就し覚醒を得ることに絶望することもあったが、それでもひたすらに仏道を求め座禅を続けた。
 そして最晩年に、ついに下に見るような真の覚醒に至るのである。求道への、その真摯でかわることのない熱情は頭が下がる思いである。
 以下も『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版)よりの収録である。

◆ダンマ顕わとなる
 禅宗の坐禅に替わって、ブッダの禅定を学び始めてからもう三十年になる。そのあいだにブッダに学んだ基本は、
「ダンマ・如来が、業熟体に顕わになり、滲透し、通徹しつづけて、息むことがない」
ということである。
 
 ダンマ・如来とは、形なき「いのち」そのものであり、言葉をこえた純粋生命である。業熟体とは、限りない以前から、生まれ替わり死に替わり、死に替わり生まれ替わり、輪廻転生しつつ、そのあいだに、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものと交わりながら、いま、ここに実現している私自信の本質であり、同時に、宇宙共同体の結び目である。もっとも私的なるものであると同時に、もっとも公的なものである。それは私自身でありながら、その根底は、底知れぬ深淵であり、無明であり、無智であり、黒闇であり、あくた、もくたであり、黒々とつらなっていく盲目の生命体である。それは私自身であると同時に、宇宙共同体である。このような業熟体にこそ、ダンマ・如来、形なき「いのち」そのものが、顕わになり、通徹しつづける。それは、あらゆる形を超えながら、あらゆる形を包みこ む永遠の働きである。その働きの真っ只中で、その働きに全人格体を打ち任せながら禅定を行ずる。 ブッダは、そう教えてくれるのである。
 
 この禅定を連日習いつづけているうちに、きわめて徐々にではあるが、ダンマ・如来が、禅定のたびごとに私自身に顕わになり、そして、年を重ねれば重ねるほど、急速、かつ強烈に私の全人格体を通徹する。もとより、ダンマ・如来の人格体における熟し方において、ブッダと私とは天地の相違があるであろう。ブッダは、億劫の修行の後に地上に生まれ、かつ命懸けの苦行の末、入定して悟りを開いたのである。盤珪は、尻も破れ、血を吐き吐き、坐禅に打ち込んだ。私は、ただ安閑として、老師の指導を受け、ブッダの禅定を習っただけである。法熟において雲泥の差のあることはいうまでもない。しかしながら、ブッダに顕わになり、盤珪を貫き、そして私の心魂にひびきわたってくるいのちそのものにおいては、寸毫の違いもない。なぜなら、それは、言葉を超え、観念を超え、時空を通貫して、じかに私の全人格体に透徹してくるからである。しかもそれは、まったく我ならぬ、しかも徹底して我にまで成りおおせる、宇宙自体の、自然のなかの、もっとも自然なるいのちそのものだからである。(「盤珪と私」より)

◆「仏道に学ぶ」:78歳
 12月14日、ふと気がついたら、求め心が、ぽとりと抜け落ちていた。爾来、入定ごとにダンマ・如来、さまざまな形で、通徹し、充溢し、未来へと吹き抜け給う。ありがたきかな、最後の一息まで、如来の真実義に随順してゆく。わが物顔よ、物知り顔よ、自性よ、ただひたすら、頂戴してゆこう。


続きはこちらでご覧ください。⇒ 玉城康四郎氏の覚醒体験(2)
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玉城康四郎氏の覚醒体験(1)

2019年07月14日 | 覚醒・至高体験をめぐって
 旧サイト『臨死体験・気功・瞑想』が閲覧終了になったのに応じ、その内容を新サイト『霊性への旅』へと移行させるいる。「覚醒・至高体験事例集」の事例をひとつひとつ新しいサイトにアップしていくが、その都度、ここにその一部を紹介していきたい。今回は玉城康四郎氏の覚醒体験(1)である。

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 ここに仏教学者・玉城康四郎氏の若き日の至高体験を収録する。氏は学者であると同時に求道の人であり、深い宗教体験も持つ人であるが、その求道は苦難の連続であったようである。以下の至高体験は氏の『冥想と経験 』その他、いくつかの著書の中に記述が見られるが、ここでは『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版、1995)から収録する。
 氏は、こうした苦難の連続のあと、晩年に覚醒を得るが、それは項を別けて収録する。
東大のインド哲学仏教学科に入学した玉城氏は、奥野源太郎氏に師事し座禅を続ける。文中先生とは奥野氏である。

私は、先生に就くだけではなく、専門の道場でも行じてみたいと思い、先生の許しを得て、円覚寺の接心にしばしば参じた。接心とは、一週間境内に宿泊してひたすら坐禅を行ずることである。われわれ在家も坊さんとともに坐り、坊さんとともに提唱(ていしょう:老師の講義)を聴く。その他、起居動作すべて同じ共同体である。午前二時に起床、午後十一時まで坐りとおす。その間に、提唱、食事、独参(ひとりひとり老師に参じて問答)、午後の小休止があるだけ。今にして思えば、専門道場の修行を垣間 見(かいまみ)ることができて、何よりの功徳であったが、当時は、坐れば坐るほど身も心もへとへとになり、悩 みは深くなるばかり、坐禅の外は何事も手に就かず、ただ悶々の日々を過ごすぼかりであった。。
  そうした或る目、忘れもしない、正確には昭和十六年二月七目の午後である。私は本郷座(本郷三丁目の映画館)に、フランス映画「ノートルダムのせむし」を見た。何とも奇妙な内容である。その印象が、 私の得体の知れぬ心態にぐさりと刺さり、どうにもならなくなって館を出て、東大図書館の特別閲覧室にかけこんだ。すでに夕暮れで、室の中にはわずかの学生がいるだけで静まっている。鞄(かばん)は手放していなかったとみえる。その中から『十地経(じゅうじきょう)』を取り出して、初めの歓喜地(かんぎじ)の所を見るともなしに見ていた時である。
何の前触れもなく突然、大爆発した。木っ端微塵(こっぱみじん)、雲散霧消してしまったのである。どれだけ時間が経ったか分からない、我に帰った途端、むくむくむくと腹の底から歓喜が涌きおこってきた。それが最初の意識であった。ながいあいだ悶えに悶え、求めに求めていた目覚めが初めて実現したのである。それは無条件であり、透明であり、何の曇りもなく、目覚めであることに毛ほどの疑念もない。 私は喜びの中に、ただ茫然とするばかりであった。どのようにして、本郷のキャンパスから巣鴨の寮 まで帰ってきたか、まったく覚えがない。
  いったいこの事実は、どういう意味を持つものなのか、その後ながい間の仏教の学習と禅定を重ねるうちに次第に明らかになってくるのであるが、その当座はただ歓喜の興奮に浸るのみであった。その状態は一週間ほど続いたであろうか、それからだんだん醒めてきて、十日も経つとまったく元の木阿弥(もとのもくあみ) になってしまった。以前となんら変わることはない、煩悩も我執もそのままである。そもそもあの体験は何であったのか。単なる幻覚が、いやいやけっしてそうではない。爆発の事実を否定するこ とはできない。しかしそのことをいかに詮索しても、現に煩悩、我執のままであることはどうしよう もない。
悩みは出発に戻って、さらに倍加し、ともかく坐禅を続け、手当たり次第に学んだ。それから一月ほど過ぎた頃であろうか、図書館の窓際の椅子にくつろいで、デカルトの『方法叙説』を読みつづけ、 コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)に到ったとき、突然爆発した。同時に、古桶の底が抜け落 ちるように、身心のあくたもくたが脱落してしまった。なんだ、デカルトもそうだったのか、そうい う思いに満たされた。
  かれは二十三歳のとき見習士官で出征し、ダニーブ河畔で越年した。そのある夜、焚火(たきび)の燃えるのを見ていたとき、驚くべき学間の根底を発見したという。それから九年のあいだそのことを暖めて、ついに『方法叙説』の執筆となったのである。これは単なる思索の書ではなく、全力を傾けて書かれている。コギト・エルゴ・スムは、「我思う」そのことが同時に「我あり」ということである。意識 と存在とが合致している。そのことに思い至ったとき、私もまた、あくたもくたが脱落してしまった のである。
  このときは、その体験は明らかにデカルトとつながっている。しかし最初の大爆発は、『十地経』 の歓喜地に関わっていたかどうか、まったく分からない。無意識のうちに依りかかる所があったのかもしれない。また、この体験は、最初に比べると、ごく小さな爆発であるが、体験そのものは同質で ある。そしてこの時もまた、数日のうちに元の木阿弥に戻ってしまった。



続きは以下でご覧ください。⇒ 玉城康四郎氏の覚醒体験(1)
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