瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

気づきとその深さ

2008年11月30日 | 瞑想日記
朝、目覚めてから30分ほど、床のなかで思考が浮かべばサティをし、また浮かべばサティをしと繰り返した。起きて着替えてから30分ほど瞑想。思考する自我との同一化から脱すること。思考する自我の相対化。思考に気づくたびにそれを確認していきたい。しかし、日常の活動がはじまるとかなり難しくなる。

瞑想中、ある思考にとらわれて優越感に浸かっている自分に気づいた。「優越感」とラベリングした。それでもその思考への誘惑を断ち切れなかった。続けて「自我の満足」とラベリングした。その時点で優越感に浸かる思考への欲望が消えた。

怒っているとき、「怒り」「怒り」とラベリングしても怒りはおさまらないことが多い。やはり気づきの深さが問題になるのだろう。怒っている自分に気づいているだけでは怒りそのものはどうにもならないことが多い。もう一歩自分を突き放して、自我がより相対化された視点からラベリングすると、変化がやってくるのかもしれない。たとえば「屈辱」とか「バカにされた感じ」とか「無視された感じ」等々。ともあれ、怒りに囚われた自分をさらに深いレベルで客観的に捉える。ヴィパッサナー瞑想の心随観、およびラベリングは、洞察を深めるためのきわめて優れた方法だろう。

話は変るが、エックハルト・トールの言葉より。
「現在という瞬間を友人としようとする決断は、エゴの終わりを意味する。エゴは決して現在という瞬間と仲良くできない。ということは、人生(生命)と調和できないということだ。エゴの本質は「いま」を無視し、抵抗し、貶めるようにできている。エゴは時間のなかで生きている。エゴが強ければ強いほど、人生はいっそう時間に支配される。そうなるといつも過去か未来のことばかり考え、自分がどんな人間かが過去によって決定され、自己実現を未来に頼ることになる。恐怖、不安、期待、後悔、罪悪感、怒りなどは、意識が時間に縛られて機能不全状態になっていることを示している。」(エックハルト・トール『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』P221)

このあたりを読んでいて、これまでの人生のほとんどの「今」をあるべき未来のための手段としていたのだと気づいた。たとえば覚醒するための手段として、より充実した人生のためのステップとして。エゴに汚されずに、日々の営みに最善を尽くすということ(私のなかの「白鶴」のイメージ)は、「いま」を無視したり、抵抗したり、貶めたりしない、ということだ。エゴの思考(ほとんどが過去と未来に占領されている)の迷妄に左右されず、それを超えたところで行為するということだ。
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結局はサティだが

2008年11月29日 | 瞑想日記
私のなかで「白鳥」や「白鶴」のイメージに結びついている行為のあり方は、かんたんに言ってしまえば、エゴに汚されない行為、さらには「無私の行為」ということになるだろう。しかし、「無私の行為」という表現は、あまりにもきれいすぎて言葉だけの空疎な響きをもつ。何も、自己犠牲的なヒロイックな行為を指しているのではない。普段の生活のなかの永続的な営みをどれだけエゴの影響なしに行えるかという問題なのだ。ただそれだけなのだ。そのようなあり方に強く惹かれている。しかし現実にはそのようなあり方から程遠いと感じる。

なぜ強く惹かれるのか。自分の魂の奥にある何かが呼び覚まされるのかもしれない。もうひとつ、行為がそのようなものであれば、俗の世界にいながら、日常の営みそのものが「行」になるということにも引かれているようだ。「行」は悟りのための手段ではなく、ひとつひとつの行為がエゴの世界を超えるているという意味での「行」だ。

具体的に日々の行為で何をどうチェクしていけばよいのか。自分は「いま」を目的のための手段にしていないか、障害とみなしていないか、と問い続けるのもひとつの方法だろう。他にもいろいろな問いかけ方があるかもしれない。この行為を何か他の目的のための手段としていないか、別のやりたいことをするために速く済ませたい「いやな仕事」とみなしていないか。これをすれば誰かの評価を得られるという意識で動いていないか等々。

先ほど洗濯物を干していたときも、ついつい早くすませてパソコンに向かいたいと思ったりした。しかし、ベランダで暖かい午後の陽射しと少し冷たい風のなかで気持もよかった。他のやりたいことをするための障害と感じていたら、それを自覚化する。あとはやはり、思考を追わずひとつひとつの動作に集中することだろう。要するに一つ一つの行為をどれだけサティしながら行えるかという問題にいきつく。しかし、「白鶴」の夢からのメッセージが、結局は日々の行為でのサティに結びついているということをしっかりと確認するだけでも意味がある。
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むかっ腹を立てずに

2008年11月27日 | 瞑想日記
今日は書くのを止めておこうかと思ったが、やはり書くことにする。ちょっと気持がだらけていても、書くことで心が引き締まるような気がする。そして、書くことが日々の「あり方」にわずかでも影響を与えていくだろう。

私のなかで「白鳥」「白鶴」のイメージとして象徴される「生き方」は、まだ充分に言葉で表現しきれていない気がする。行為の結果や評価や利害損得にかかわりなく、それらに影響されず、惑わされずただひたすらに心をこめてなすべきことを行うこと。ここまでは何回か書いてきた。日常生活のなかでそのような「生き方」に徹することができたとき、それはもう、修行者が俗世間から出家して修行に徹するのと本質的に変りはないと感じる。俗世間の只中で行為しながら、俗世間での利欲に汚されずに行為しているからだ。修行とは、そういうことなのだろう。何も狙わず、求めず、恐れず、落胆せず、ただただ一瞬一瞬なすべきことを、全幅の気づきをもって行うこと。

ただ、言葉で言うのはかんたんだが、日常生活のなかでそれに徹するのは、そうかんたんではない。今日も、自分が世話した相手に意図的に無視されたような気がして、むかっ腹を立てた。相手に感謝されようがされまいが、そのどちらにも惑わされず、相手が求めること、必要としていることを一心に行っていけばそれでよい。相手の姿勢や対応がどうでれ、なすべきことを惑いなくひたすらに行う、そう徹していれば、腹を立てることもなかっただろうに。

今日の、あの出来事は、「白鶴」のごとく行為することがどんなことなのか、私に思い知らせるために起ったのかもしれないと思えるほどだ。こうしてブログを書いて始めて、あの出来事と「白鶴」のあり方とを、まさしく正反対の態度として理解することができた。
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再び「白鳥」のイメージ

2008年11月26日 | 瞑想日記
何度か、私の中の「白鳥」のイメージに触れてきた。それは、かつてある夢の中に出てきたイメージだったが、その後の私にとってこうありたいという生き方を象徴するものとなった。現実には、「白鳥」のイメージが指し示す生き方とは程遠い日常に埋没しているのだが、「白鳥」の生き方が私にとってある種のあこがれであり、限りなく懐かしく、引かれ続けるイメージであることに変わりない。

これを成功させればどれだけ評価されるとか、報酬が得れるとか、あるいは失敗すればどれだけ評判を落とすとか、損失をこうむるとか、そういうエゴに基づく一切の動機とはかかわりなく、ただなすべきことをひたすらに行う。世間の毀誉褒貶に超えたところで、只管に行う。そういう生き方がなぜか私のなかでは「白鳥」のイメージと重なっている。素晴らしいことに、もしそういう生き方が出来るとすれば、毎日の生活や仕事そのものが「行」となるのだ。日常の「業務」にどっぷりとつかりながら、それがそのまま僧侶の「修行」であるような生き方。

実際の仕事に対する態度で言えば、どんな些細なことでもつまらないとか、下らないとかという心を持たず、聖なる「行」として集中して行おうと決意すること。仕事の中でエゴに基づく思考に振り回されないこと。

この「白鳥」のイメージやそれが指し示す「あり方」は、日常のなかで忘れていることが多いのだが、毎日一度くらい、いや何かひとつの仕事を始めるときにはいつも、イメージして確認した方がいい。
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苦しみと気づき

2008年11月25日 | 瞑想日記
最近、思考(日常的思考・想念)への気づきが少なく、思考に埋没する傾向が強いと書いた。今日は少しは思考への気づきがあったように思う。思考する自分を相対化して見る視点を少しは持てたということだ。

先きに、心に突き刺さるような苦しみがあると書いた。一時、少し希望が持てそうな気配があり、苦しみが軽減していたが、それほどは甘くはなかった。少しも変らない現実に引きもどされ、苦しみが復活している。しかし、それに伴い、思考への気づきもよみがえってきたように思う。私に苦しみを強いる人は、もしかしたら私に気づきを促すために自らを犠牲にしているのかも知れないと、思えるほどだ。

「苦しみは深みのある人間をつくる。苦しみの原因は形への自分の同一化だが、逆にその苦しみが形との同一化を突き崩す。苦しみの多くはエゴに起因するが、結局は苦しみがエゴを破壊する――ただし苦しみに意識的でなければならない。」(エックハルト・トール『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』P115)

肉体という形も、金や家、財産という形も、思考やそれによって織り成される「自我」という形も、結局はやがて滅び行くがゆえに、一時の夢であり、「幻想」にすぎない。苦しみは、幻想の幻想たるゆえんを、まどろんでいる私に教えてくれているような気がする。
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