朝、目覚めてから30分ほど、床のなかで思考が浮かべばサティをし、また浮かべばサティをしと繰り返した。起きて着替えてから30分ほど瞑想。思考する自我との同一化から脱すること。思考する自我の相対化。思考に気づくたびにそれを確認していきたい。しかし、日常の活動がはじまるとかなり難しくなる。
瞑想中、ある思考にとらわれて優越感に浸かっている自分に気づいた。「優越感」とラベリングした。それでもその思考への誘惑を断ち切れなかった。続けて「自我の満足」とラベリングした。その時点で優越感に浸かる思考への欲望が消えた。
怒っているとき、「怒り」「怒り」とラベリングしても怒りはおさまらないことが多い。やはり気づきの深さが問題になるのだろう。怒っている自分に気づいているだけでは怒りそのものはどうにもならないことが多い。もう一歩自分を突き放して、自我がより相対化された視点からラベリングすると、変化がやってくるのかもしれない。たとえば「屈辱」とか「バカにされた感じ」とか「無視された感じ」等々。ともあれ、怒りに囚われた自分をさらに深いレベルで客観的に捉える。ヴィパッサナー瞑想の心随観、およびラベリングは、洞察を深めるためのきわめて優れた方法だろう。
話は変るが、エックハルト・トールの言葉より。
「現在という瞬間を友人としようとする決断は、エゴの終わりを意味する。エゴは決して現在という瞬間と仲良くできない。ということは、人生(生命)と調和できないということだ。エゴの本質は「いま」を無視し、抵抗し、貶めるようにできている。エゴは時間のなかで生きている。エゴが強ければ強いほど、人生はいっそう時間に支配される。そうなるといつも過去か未来のことばかり考え、自分がどんな人間かが過去によって決定され、自己実現を未来に頼ることになる。恐怖、不安、期待、後悔、罪悪感、怒りなどは、意識が時間に縛られて機能不全状態になっていることを示している。」(エックハルト・トール『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』P221)
このあたりを読んでいて、これまでの人生のほとんどの「今」をあるべき未来のための手段としていたのだと気づいた。たとえば覚醒するための手段として、より充実した人生のためのステップとして。エゴに汚されずに、日々の営みに最善を尽くすということ(私のなかの「白鶴」のイメージ)は、「いま」を無視したり、抵抗したり、貶めたりしない、ということだ。エゴの思考(ほとんどが過去と未来に占領されている)の迷妄に左右されず、それを超えたところで行為するということだ。
瞑想中、ある思考にとらわれて優越感に浸かっている自分に気づいた。「優越感」とラベリングした。それでもその思考への誘惑を断ち切れなかった。続けて「自我の満足」とラベリングした。その時点で優越感に浸かる思考への欲望が消えた。
怒っているとき、「怒り」「怒り」とラベリングしても怒りはおさまらないことが多い。やはり気づきの深さが問題になるのだろう。怒っている自分に気づいているだけでは怒りそのものはどうにもならないことが多い。もう一歩自分を突き放して、自我がより相対化された視点からラベリングすると、変化がやってくるのかもしれない。たとえば「屈辱」とか「バカにされた感じ」とか「無視された感じ」等々。ともあれ、怒りに囚われた自分をさらに深いレベルで客観的に捉える。ヴィパッサナー瞑想の心随観、およびラベリングは、洞察を深めるためのきわめて優れた方法だろう。
話は変るが、エックハルト・トールの言葉より。
「現在という瞬間を友人としようとする決断は、エゴの終わりを意味する。エゴは決して現在という瞬間と仲良くできない。ということは、人生(生命)と調和できないということだ。エゴの本質は「いま」を無視し、抵抗し、貶めるようにできている。エゴは時間のなかで生きている。エゴが強ければ強いほど、人生はいっそう時間に支配される。そうなるといつも過去か未来のことばかり考え、自分がどんな人間かが過去によって決定され、自己実現を未来に頼ることになる。恐怖、不安、期待、後悔、罪悪感、怒りなどは、意識が時間に縛られて機能不全状態になっていることを示している。」(エックハルト・トール『ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる-』P221)
このあたりを読んでいて、これまでの人生のほとんどの「今」をあるべき未来のための手段としていたのだと気づいた。たとえば覚醒するための手段として、より充実した人生のためのステップとして。エゴに汚されずに、日々の営みに最善を尽くすということ(私のなかの「白鶴」のイメージ)は、「いま」を無視したり、抵抗したり、貶めたりしない、ということだ。エゴの思考(ほとんどが過去と未来に占領されている)の迷妄に左右されず、それを超えたところで行為するということだ。