「私」(という観念)には、いつか終わりが来る。それはやがて滅び、あとかたもなく消えていく。そのことに気づくとき、「私」(という観念)が成り立つのに確たる根拠は何もないことにも気づく。
問題は、この事実をどれだけ深く気づくかだろう。たんに観念的に分かっているだけの場合と、ごまかしようもなくその現実の前に立たされる場合との間には、大きな開きがある。「私」(という観念)がやがては消滅することを如実に実感してしまえば、それにしがみつくことはもはや無意味となるのだろう。
私自身、観念的に分かっているだけの場合とほとんど違いがないから、いまだに「私」にしがみついている。しかし、サティは確かに、「私」という観念の根拠のなさ、虚構、幻想、はかなさ‥‥という性質に気づかせる働きをもっている。思考に埋没せず、そのつど思考にサティをしていると、「思考する私」、「思考としての自我」が相対化され、その無明の姿が見えてくる。
心の痛みや苦しみに気づくだけではなく、傷ついたり、苦しんだりしている「私」にそのつど気づきが入るなら、痛みや苦しみは「私」を解き放っていくための学びの機会となっていくのだろう。
問題は、この事実をどれだけ深く気づくかだろう。たんに観念的に分かっているだけの場合と、ごまかしようもなくその現実の前に立たされる場合との間には、大きな開きがある。「私」(という観念)がやがては消滅することを如実に実感してしまえば、それにしがみつくことはもはや無意味となるのだろう。
私自身、観念的に分かっているだけの場合とほとんど違いがないから、いまだに「私」にしがみついている。しかし、サティは確かに、「私」という観念の根拠のなさ、虚構、幻想、はかなさ‥‥という性質に気づかせる働きをもっている。思考に埋没せず、そのつど思考にサティをしていると、「思考する私」、「思考としての自我」が相対化され、その無明の姿が見えてくる。
心の痛みや苦しみに気づくだけではなく、傷ついたり、苦しんだりしている「私」にそのつど気づきが入るなら、痛みや苦しみは「私」を解き放っていくための学びの機会となっていくのだろう。