瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

日常的な思考と無意識をめぐる対話の開始

2012年11月27日 | 思考と瞑想の心理学
友人4人とともに『忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす』というブログをやっている。その中の一人の友人が、無意識と人間の主体性や自由とのかかわりについて対話をしたいとのことだったので、彼の問題提起を受けて対話を始めた。私は、これまでこのブログのカテゴリー「思考と瞑想の心理学」に何回か書いたことをベースにして対話を始め、その後は対話の展開の中で刺激を受けながら、自分のテーマも深めていければと思っている。「忘れえぬ体験」のブログで対話が進むごとに、こちらでも報告していきたい。

最近、ゆる体操、気功は少しさぼり気味、歩行時のサティはある程度継続している。ランニングも週に2回ほど行っている。ゆる体操、気功、瞑想を意識的に増やしていきたい。

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思考と瞑想の心理学12:忘れ去られていく「散漫な思考」

2011年10月04日 | 思考と瞑想の心理学
瞑想というわけではないが、日常的な思考がどのように展開していくのかを、日常の中でできるだけ意識するようにしている。ほとんどは無意識に来ては去る意識の流れを、少しでも自覚にもたらそうと試みている。

すると一つの事実に気づく。すこしでも意識の流れに気をとめたことのある人なら、誰でも知っていることだろう。しかし、あらためてその事実を確認すると、やはりと思わざるを得ない。つまり直前の思考をほとんど忘れているということだ。

自分があることを漠然と考えていたことに気づく。その思考はどこから来たのだろう。その前に何かを考えていたという記憶はある。その思考から連想して、この思考が浮かんだのだ。しかし、その元の思考を忘れている。

直前の思考でさえこうなのだから、日常の中で次々に浮かんでは消えるとりとめもない思考は、消え去った直後にほとんど忘れられていくのだ。そしてとりとめのない思考の連鎖だけが続いていく。

何らかの目的をもって自覚的に仕事の段取りなどを考える場合は別として、私たちの日常の大半の思考は、いわゆる「散漫な思考」であり、浮かんでは忘れ去られていく流れのなかにある。

つまり、私たちは、ほとんど無意識の思考の流れのなかで多くの時間を過ごしているのだ。そして、その無自覚的な思考が「私」を形づくっている。そこに自覚をもたらすことが、「私」を解体することにつながっていくのだろう。
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思考と瞑想の心理学11:物語としての日常的思考

2010年07月09日 | 思考と瞑想の心理学
先にガンガジの言葉を紹介したが、ガンガジはラマナ・マハルシの孫弟子にあたる。ラマナ・マハルシは次のようにいう。

「あらゆる特定の想念の背後には、『私』という普遍的な想念がある。それがあなた自身である。この『私』を第一の想念と呼ぶことにしよう。」「この『私』という想念が立ち現れたあとに、その他のすべての想念が現れる。それゆれ『私』という想念が根源なのである。」(『あるがままに―ラマナ・マハルシの教え』)

「私」という想念は、つまり「自己概念」と言い換えてもよいだろう。ここで『私』という想念が根源であるということは、発生論的に時間的に最初にあるということではない。構造の上で、すべての思考は「私」を基礎にしているということである。

それで「思考と瞑想の心理学」の課題は、上でいう「私」という想念と、それを構造論的に基盤とする一切の想念(思考)との関係を、構造論的に明らかにしていくことである。

すべての日常的思考は、多少とも「私」という想念を前提とし、「私」を中心にしてめぐっていく。ガンガジは、そのような日常的な思考を「物語」という言葉で特徴付けている。「あなたがあなた自身に語る、あるいはあなたを囲む文化があなたに語ってきた、あなたは何者か、ということについての物語」。 すべての日常的な思考=物語ではないが、日常的な思考には物語の要素が多分にある。

どんな文化、家族、そして個人も、過去・現在・未来、希望、恐れ、神、悲劇、成功、失敗、混沌、調和、尊厳、そして絶望についての物語を持っており、そのクオリティもピンからキリまでである。(『ポケットの中のダイヤモンド―あなたはすべてをもっている

そして個人が、個人の人生を、その一瞬一瞬の出来事を解釈する日常的思考が、個人の物語なのである。「私」の一生の、睡眠中以外のすべての瞬間に何らかの解釈が与え続けられる。日常的な思考は、「私」を中心とした無数の小さな「物語」であり、それらが寄せ集まって、「私」の人生という大きな「物語」を形づくる。

その時代の人々によって解釈され、記憶され、記録され、あるいは忘れられてていく人類の歴史は、人類にとっての「物語」である。それと同じように、病、回復、勇気、弱さ、性、生殖、地位、征服、降伏、所有、失敗など、個人の歴史のななかの様々な出来事が、個人によって解釈され、個人の「物語」に組み込まれていく。

私たちは、日常的な思考のなかで、延々と自分なりの「物語」を語り続けているのだ。
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思考と瞑想の心理学10:思考と「自己」

2010年07月07日 | 思考と瞑想の心理学
ほとんどの「日常の思考」は、無意識的な執着や衝動に突き動かされつつ繰り返されていく。自覚的なコントロールなしに繰り返される。そして、とくに強い執着や抑圧されたコンプレックスに関しては、まるでむさぼるかのように同じパターンの思考を繰り返すのだ。しかも自分自身では、そのことに無自覚である。これが「むさぼる思考」である。

自覚されない思考は、自己増殖して強力な力をもつようになることもあるだろう。完全に自覚的なコントロールができなくなってしまう。自分で不合理だと分かっていても、抑圧されたエネルギーに文字通り衝き動かされるかのように同じ思考を繰り返す。これが「強迫観念」と呼ばれるような病的な状態だろう。

さて、今まで「日常的な思考」をいくついかの観点から分類してみた。こうした作業は、今後もっと構造的に精確に続けていく必要があるだろう。ここでとりあえず分類の作業を止めて、次に「自己」という観念と思考との関係を考えよう。

誰もが漠然ともっている「自分はこういう人間だと抱いている自己イメージ」は、心理学用語で「自己概念」とか「自己構造」という言葉で呼ばれる。ロジャースなどが心理療法の立場からこの概念を明確にした。しかしやはりここでも、「日常的な思考」と「自己」との関係が明らかにされたわけではない。

そこで、この「自己概念」と日常的思考との関係を問うことも、私たちの非常に大切なテーマである。「自己概念」は、「私はこういう人間だ」という無数の思考の集合体として成り立っている。ということは、一定のイメージを伴った「私は私だ」「私はこういう人間として私だ」という自己同一性が成り立つためには、絶えず言葉による確認が必要とされるということか。

ここでガンガジの言葉を参考にしてみよう。

「あなたがあなたの真実の姿に気づくのを阻む唯一のものこそが、この『私とはこの肉体である』という自我にのっとた思い込みなのです。この思い込みを持ち続けるためには、あなたが自分はこういう人間だと抱いているイメージに沿った、絶え間のない思考活動が必要です。この思考活動を止め、代わりに『自分』という中心の思考の内側に意識を向けたとき、あなたは、本質的にどんな思考も防衛の必要性も存在しない、無限の、純粋な意識を発見します。それがわかったとき、自我とは、夢やトランス状態が幻想に過ぎないのと同じように、ただの幻想にすぎないことを理解するでしょう。」(『ポケットの中のダイヤモンド―あなたはすべてをもっている

「日常的な思考」を観察していると、そのほとんどが何らかの形で「自己」に関係し、自己を防衛したり、強固にしたり、拡大したりすることを巡ってなされていることに気づくだろう。思考によって「自己」が紡ぎ出され、逆に「自己」がその幻影を維持するために、思考を生み出す、そんな相補的な関係が成り立っているのか。そして耐えざる日常的な思考がもはや必要でなくなったとき、「自己」という幻影も消えていくのだろうか。

思考と「自己」との関係は、このように根源的な問題に触れている。今後、もっと考察を深めていきたい。
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思考と瞑想の心理学09:「むさぼる思考」

2010年07月06日 | 思考と瞑想の心理学
私たちの日常の生活の中で、ほとんど絶えることなく続いていく、心の中のおしゃべり、「日常的な思考」とは、私たちの心のあり方やパーソナリティにとってどのような意味ををもち、またどのような特徴や構造をもっているのか、それを探求することが、この「思考と瞑想の心理学」の課題だった。

とりあえず、日常の思考を便宜的に分類しているわけだが、仮に次のような分け方もできるかもしれない。「むさぼる思考」と「些細な思考」である。「むさぼる」という言葉は、日常の用語としてはすでに何かしら価値判断を含んでいるので、述語として使うのは適当ではないかも知れない。しかし、感じは出ているので、ここでは仮の用語として使っておこう。

「むさぼる思考」は、何かしら潜在意識に根ざす執着や傾向性によって何度も同じパターンで繰り返えされる思考をいう。これが日常の想念・思考の中ではいちばん曲者だろう。

「些細な思考」は、「むさぼる思考」と違い、ちょっとした外的刺激からの連想などで生じる他愛もない想念だ。その背後に根づよいコンプレックスや執着が隠されているわけではないから、別の刺激が入ってくれば、すぐに次の連想に移っていくだろう。その連想には、とくに強い無意識のコンプレックスや執着が反映されているわけではない。

おそらくどんな人にも特定のテーマでの「むさぼる思考」があるだろう。また特定のテーマではなく、様々なテーマにまたがりながら同じパターンで繰り返す「むさぼる思考」もあるだろう。

ここで参考になるのが精神分析でいう「防衛機制」という考え方だろうう。防衛機制は、無意識の働きに関係す心理的な再適応の仕組みを明らかにしたもので、必ずしも日常的な思考のプロセスそのものに焦点を当てているわけではない。しかし、大いに参考にはできるだろう。

たとえば、満たされなかった欲求に対して、適当な理由を付けて正当化しようとする「合理化」は、私たちが日常的な思考の中で、たえず行なっていることだ。失恋などで相当に心理的なショックが大きければ、相手がいかにダメな女で自分にふさわしくないかを延々とむさぶるように思考するかも知れない。

逆に、現実には高嶺の花で、声すらかけることもできない女性との間のラブロマンスを、空想の世界で延々とむさぼるように思い描いて、「逃避」するとうのも防衛機制のひとつだ。

自分自身に認めたくない自分の感情や考えは、得てして他者に「投影」されて、激しい憎悪を駆り立てられることがある。これもまた「むさぼる思考」になりやすく、特定の人物のいやらしさや欠点、許しがたさなどを、延々と脳内で非難し続けるかも知れない。

防衛のメカニズムのすべてが「むさぼる思考」に結びつくわけではないが、逆に「むさぼる思考」は、防衛のメカニズムから説明できるものが多いし、少なくとも無意識から突き上げるエネルギーによって駆り立てられていることがほとんどだろう。

私たちは、繰りかえし同じようなパターンで続けられる「むさぼる思考」に、自分自身で気づいていない場合が多い。瞑想などで自分の日常的な思考を観察してはじめて、そういう傾向に気づくわけだ。
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