瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

「私」とは何かを問い続ける意味

2013年01月15日 | 瞑想日記
◆ブログの更新状況‥‥ブログ「クールジャパン★Cool Japan」に以下の記事をアップした。

「カワイイ」文化の魅力:世界に広がるマンガ・アニメ04

◆『意識のスペクトル 1 意識の進化

「時間的・空間的事項からなる宇宙は、われわれが原初の二元論と呼んだ原初の分断行為によって創造される。といってもこの分断は歴史的出来事ではない。ここには第一原因は存在せず、在るのは「永遠の始まり」、原因も動機も目的(‥省略‥)もなく永遠の現在において生起する出来事である。時間と空間を生み出し、そのために、それ自体、時間と空間を超えているこの分断はさまざまな形で呼ばれる。内省、分解‥‥」(p186)

「この原初の二元論の「両半分」はさまざまな名前で呼ばれる。主体と客体、男と女、内部と外部、天と地、有と無‥‥もっとも便利な言葉は、主体と客体、自己と他者、あるいは単に有機体と環境である。というのは、原初の二元論によって、いまや人間は環境と対立するものとしての自らの有機体にもっぱら同一化しており、この幻想上の限界を課したのが自分自身であったことを完全に忘れているからである。したがって‥‥、人間が解放されたいと願っているのは、この限界からなのである。」(p187)

「本当は、あなたがみじめで不幸になる原因など何もない。あなた自身が無限なる存在である自分の本姓に限界を設け、自らが有限の生き物であること嘆いているのだ。だから、わたしはいう。実はあなた無限なるもの、純粋な存在、絶対的な自己であることを知れ、と。あなたはつねにその自己であり、自己以外の何者でもない。したがって、実際にはあなたが自己を知らないということなどありえない。あなたの無知は単に形のうえでのものにすぎない。」(ラマナ・マハリシ)(p187)

最後の言葉はラマナ・マハリシのものだが、彼とその根本体験については、ラマナ・マハルシに、その一端を掲載しているので参照されたい。

確かに、この分断された「私」は、幻想上の限界であるにすぎず、自分の本姓に自分自身で限界を儲けているにすぎない。だから、「私」をとことん追求すると、「私」を成立させるいかなる根拠もないことがわかる。「私」が「私」として存在していることの根拠を示せと問われても、いかなる根拠を示すこともできない。それは、まさに幻想にすぎないのだから。ラマナ・マハリシが「私」とは何かを問い続けよというのもそのためだろう。
コメント (9)
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世界が分裂する以前

2013年01月13日 | 瞑想日記
◆ブログの更新状況‥‥ブログ「クールジャパン★Cool Japan」に以下の記事をアップした。

テクノ-アニミズム:世界に広がるマンガ・アニメ03

◆『意識のスペクトル 1 意識の進化

「現在、われわれが関心を寄せているのは、まさに現象世界を創出するこの原初の分断行為である。われわれが「空間を分断する」最初の動きが、一つの世界から二つの世界を創り出し、われわれ自身を現象世界に着地させる。この最初の分断行為を、われわれは原初の二元論と呼ぶことにする。認識論的にはそれは知るものと知られるものとの分断であり、存在論的には、無限と有限との分断、神学的には原罪である。一般的には、主体と客体との幻想的分裂といってもよかろう。」

この章のむずかしさは、まさに唯心、非二元の側から現象世界の創出を見ていることから来るのだろう。

以下に挙げるのは、原青民という浄土宗の僧侶の体験である(覚醒・至高体験の事例集:浄土宗僧・原青民 )。彼は、肺病にかかり、かかりつけの医者にあと五年しか生きられないといわれ、非常に悩んだという。そのうち弁栄聖者に出会い、その感化で毎日のように念仏を唱えるようになったという。

「ある晩、一心に念仏を申しながら自分と自分を取り巻いている万物との関係を考えていました。ところが念仏を唱えているうちに突然なにもなくなってしまいました。 自分のたたいている木魚の音も聞こえません。周囲の壁もなければ、天井も、畳もありません。

すきとおった明るみもありません。色も見えなければ、重くも、軽くもありません。自分のからだすらありません。まったく無一物になってしまって、ただあるのはハッキリ、ハッキリだけになりました。はっきりした意識だけがあった、意識内容はまったくなくなってしまったわけです。

しかししばらくして平常の自分にもどり、その晩はそれで寝てしまいました。ところが翌朝目がさめて、庭から外を見ていると、変で変でしかたがありません。きのうまではいっさいのものが自分の外に見えていたものが、けさは自分の中に見えています。それはつぎの日もかわりませんでした。」(佐藤幸治『禅のすすめ (講談社現代新書 27) 』 )

「 きのうまではいっさいのものが自分の外に見えていたものが、けさは自分の中に見えています」というのは、まさに主客が分裂する以前、非二元の唯心が現前している状態を示していると言えよう。
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別々にやっていたことの意味が重なる

2013年01月12日 | 瞑想日記
◆ブログの更新状況

ブログ「クールジャパン★Cool Japan」に次の二つの記事をアップした。

発信力の理由:世界に広がるマンガ・アニメ01
アニメとアニミズム:世界に広がるマンガ・アニメ02

いずれもこれまで書いた、日本のポップカルチャーについての記事を集約、整理したものだ。今後も、5つの視点から記事をまとめていいく予定である。

友人3人とともに続けているブログ「忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす」での対話も進行中である。「無意識を巡る対話」というタイトルのもとに行っているが、かなり哲学的な議論になっている。お相手のTakao氏はシュタイナーに依拠して語っておられるので、興味のある方には面白いかもしれない。最新の私の発言は次のものである。

無意識はあるのかという根本問題

この議論の中で私は、自己と悟りとの関係をさらに問い直していくことになるだろう。このテーマはおそらく私のライフワークになるものだが。

◆『意識のスペクトル 1 意識の進化

読書会での必要があって、第5章「意識のスペクトル」を少しずつ読んでまとめていく予定である。第5章は、それ以前の章に比べると若干読みにくい。そのひとつの理由は、私がまだ「悟りからの視点」をもっていないからだろう。そのためか読んでいてかなりもどかしい思いがする。

「現実的には、存在するものは唯心のみである。それは「全包括的」、非二元的、あらゆる時間的事象の無時間的な基礎、「混乱なき融合」、「関係はあるが二元性なき」リアリテティである。これは、われわれが第一の意識レベル、心のレベルと名づけてきたものである。ところが、マーヤー、つまり二元論的思考のプロセスを通じて、われわれは二元性ないし区分という幻想を導入し、「一つの世界から二つの世界を創り出す。」(p168)

ここでいう唯心、第一の意識レベル、心のレベルとは、悟りのレベルといってよく、すべてその視点から語られているから、その視点から見ていないものには分かりにくいである。

ただ少し余談になるが、『意識のスペクトル』を読み直していることと、上に触れた「無意識を巡る対話」を始めたこととが、どうやら私の中では深い意味をもって重なっているのだ。私は対話を、思考を越えた立場にたって進めている。しかし、それはとりもなおさず、どこかで私に「二元論的思考」の幻想を現実に超えることを要求しているということではないのか。
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ブログと瞑想の再稼働

2013年01月04日 | 瞑想日記
◆このブログの更新はあまりしていないが、他のブログやツイッターではある程度は発信を続けている。ここ数年でのインターネット上での中心的な活動は、

クールジャパン★Cool Japan

でのものである。このブログを開始したころは、現代日本のマンガ・アニメなどのポップカルチャーが世界でどう受け止められているかに関心があった。その関心は失ってはいないが、最近はもっぱら「日本文化のユニークさ」という問題に関心が移り、縄文文化と現代の日本文化の関係などを中心に論じている。今日も、これから更新の予定である。このブログで書きためた内容は、今年中には何とか本として出版するめどをつけたいと思っている。

もう一つは、すでに年末に紹介したが、友人4人とともにやっている『忘れえぬ体験-原体験を教育に生かす』というブログである。その中の一人の友人が、無意識と人間の主体性や自由とのかかわりについて対話をしたいとのことだったので、彼の問題提起を受けて対話を始めた。対話はすでに何回かのやりとりを行っている。これは、今日の午前中に更新したばかりだ。

この半年ほど、いちばん熱心に行っていたのはツイッターだ。これはTPPや消費税問題への批判、デフレ問題などに主に発言してきた。リツイートやコメントという形ですぐに反応があるのが面白い。

今年の抱負としては二つ。ひとつ目は、この「瞑想と精神世界」ブログももっと頻繁に更新したい。そして二つ目は、現在、事情で更新ができなくなっている二つのサイトも更新できるようにしたいということ。

◆気功、ゆる体操、歩行瞑想、ランニング瞑想、小食、一日半断食など、これまで行ってきたことを統合的な視点から継続していく。最近、ゆる体操や歩行瞑想以外はあまり熱心ではなかったが、今年は積極的に取り組んでいきたいと思う。

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