◆輪廻する主体17
今仮に「純粋主観性」というものを想定する。蛭川氏が、「純粋意識」といっていたものに対応する。私たちは多かれ少なかれエゴでゆがめた現実を経験しているが、そのエゴ性が一切剥ぎ取られた純粋な状態を「純粋主観性」とするのだ。見るものと見られるものとの関係を、つぎつぎに深めて行けば、ついに、けっして見られることのない究極の見るもの、けっして知覚されることのない究極の知覚者に達するだろう。それが「純粋主観性」である。ラマナ・マハリシのいう純粋意識であり、本性であるといってよい。「いわゆる自分とは、心である。その心は限定されている。純粋な意識は限定の彼方にある」(ラマナ・マハリシ)
ところで今、思考実験として完全な記憶喪失ということを考えてみる。仮に昨日までの一切の記憶を失ったとする。その時、昨日までの「私」をAとする。そして今日からの「私」とBとする。AとBとは、記憶の上で一切のつながりがないが、同一の主観と言えるだろうか。もちろんこの場合は、肉体は同一のままだから、第三者から見れば、Bは記憶を失ったとはいえ、あくまでも「Aさん」であろう。しかし、記憶を失ったBにとっては、主観的にはAは一切存在しなかったも同然である。
根源的には、記憶を失ったとしても、つまり自我(エゴ)のレベルではAではなくなったとしても、経験の主体(「純粋主観性」)としては、AとBは同一であると言わざるを得ない。記憶があるなしにかかわらず同じ経験主体なのである。
ところで、仮に私(A)が、明日にまったく記憶が失われ、Aとして自分が生きたこれまでの人生の記憶は一切失われる知ったとする。その場合もBとして生き方やその喜びと悲しみに無関心でいることができるだろうか。たとえ今の自分の記憶を失ったとしても、Bとしての自分の幸せに無関心でいることはできないだろう。
たとえば明日から、Aとしてのこれまでの記憶を一切失うとしても、Aとしての私が今感じている猛烈な歯痛は続くとしよう。その場合には、無関心どころか何とかしてこの歯痛を止めたいと思うだろう。なぜなら、記憶は失っても、痛みに苦しむのはまさにこの「私」であることが分かっているからである。もし今日の内に歯科医院に行って土曜、日曜の歯痛は何とか抑えられる可能性があるなら、すぐさま歯科医院のところへ飛んでいくに違いない。Aとしての記憶はなくなっても続く歯痛は「他人ごと」ではないからである。
今仮に「純粋主観性」というものを想定する。蛭川氏が、「純粋意識」といっていたものに対応する。私たちは多かれ少なかれエゴでゆがめた現実を経験しているが、そのエゴ性が一切剥ぎ取られた純粋な状態を「純粋主観性」とするのだ。見るものと見られるものとの関係を、つぎつぎに深めて行けば、ついに、けっして見られることのない究極の見るもの、けっして知覚されることのない究極の知覚者に達するだろう。それが「純粋主観性」である。ラマナ・マハリシのいう純粋意識であり、本性であるといってよい。「いわゆる自分とは、心である。その心は限定されている。純粋な意識は限定の彼方にある」(ラマナ・マハリシ)
ところで今、思考実験として完全な記憶喪失ということを考えてみる。仮に昨日までの一切の記憶を失ったとする。その時、昨日までの「私」をAとする。そして今日からの「私」とBとする。AとBとは、記憶の上で一切のつながりがないが、同一の主観と言えるだろうか。もちろんこの場合は、肉体は同一のままだから、第三者から見れば、Bは記憶を失ったとはいえ、あくまでも「Aさん」であろう。しかし、記憶を失ったBにとっては、主観的にはAは一切存在しなかったも同然である。
根源的には、記憶を失ったとしても、つまり自我(エゴ)のレベルではAではなくなったとしても、経験の主体(「純粋主観性」)としては、AとBは同一であると言わざるを得ない。記憶があるなしにかかわらず同じ経験主体なのである。
ところで、仮に私(A)が、明日にまったく記憶が失われ、Aとして自分が生きたこれまでの人生の記憶は一切失われる知ったとする。その場合もBとして生き方やその喜びと悲しみに無関心でいることができるだろうか。たとえ今の自分の記憶を失ったとしても、Bとしての自分の幸せに無関心でいることはできないだろう。
たとえば明日から、Aとしてのこれまでの記憶を一切失うとしても、Aとしての私が今感じている猛烈な歯痛は続くとしよう。その場合には、無関心どころか何とかしてこの歯痛を止めたいと思うだろう。なぜなら、記憶は失っても、痛みに苦しむのはまさにこの「私」であることが分かっているからである。もし今日の内に歯科医院に行って土曜、日曜の歯痛は何とか抑えられる可能性があるなら、すぐさま歯科医院のところへ飛んでいくに違いない。Aとしての記憶はなくなっても続く歯痛は「他人ごと」ではないからである。