瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

久しぶりの一日断食

2006年07月31日 | 断食・少食
昨日、久しぶりに一日断食(正確には一日半断食)をした。最近、めっきり回数がすくなくなっている。毎週やろうと思って朝はもちろん昼も抜かすのだが、夕方には食べたくなって挫折するパターンが多くなっていた。以前は、いともかんたんに出来た一日断食が、こんなに大変になるとは。やはり意気込みの問題なのだろうか。

今回できたのは、飲み物でかなりエネルギーを補っていたからでもある。野菜ジュースをコップ2杯、豆乳を同じく2杯、黒糖飴を5個ほど。全部で400キロカロリーぐらいとっていたかも知れない。

しかし、最近は断食を開始してこれぐらいはとることが普通だった。それでも挫折していた。今回あまり空腹を感じかなった別の理由は呼吸法かも知れない。パソコンにむかっていて疲れると動作を伴う深い呼吸を何度もやった。これが心身にかなり影響を与え、実際以上に空腹「感」を増大させずにすんだこも知れない。

ただし、今回は寝つきが遅く、眼が覚めるのが早かった。空腹感を感じてはいなかたったが、体が反応していたような感じだ。

起きてしまうとやはり全く空腹感なし。これはいつもパターンだ。復食は職場で。ただし昨晩、豆乳などを飲んでいるので、おかゆにはしない。500グラム弱の野菜サラダとおむすび一つ。
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覚醒・至高体験事例集に追加

2006年07月30日 | サイト更新管理
本当に久しぶりにサイト「臨死体験・気功・瞑想」の更新をした。覚醒・至高体験事例集の普通の人びとの場合-1への追加である。→クレア・マイヤーズ・オーウェンズ

この人は、74歳から禅の修業を始め、その6年後に、このような体験をしているのである。年齢など関係なく、訪れるべきときには訪れるのだな、とつくづく思う。
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車椅子を押しながら

2006年07月30日 | 瞑想日記
朝、父を教会に連れて行く。いつもは行きは教会の人が迎えに来てくれ、帰りは私が連れて帰るのだが、今日は行き帰りともとなった。朝から陽射しが強い。一駅15分ほど車椅子を押して歩いた。

歩きながら、最初は子どもたちに「慈悲の瞑想「」の言葉を頭の中で繰り返していたが、そのうち父に対し慈悲の瞑想を始めた。「父の願いがかないますように」‥‥父の願いとは何だろうか。その一つは、子どもたちや孫たちの幸せであろう。そう思ったとき父の「願い」と共鳴しているような感じがした。途中から「父が‥‥」ではなく「私が幸せでありますように‥‥」となった。それはそれで成り行きにまかせた。「私」への慈悲の瞑想が新鮮であった。

帰りも暑い中を車椅子を押した。子どもたちへの慈悲の瞑想がこれまでと少し違うような気がした。少し純粋になったというか。これまで、同じ言葉を繰り返しながら、雑念や我執にまみれていたような気がした。今日も似たりよったりかも知れないが、純粋な「慈悲の瞑想」がどんなものか垣間見たような気がした。そのせいではないだろうが、歩きながらずっと体が軽かった。

父を迎えに行くまでの間は、居間と玄関の掃除、帰宅してからはシャワーを浴びてさっぱりした後、30分ほど瞑想。それが1時前後だったか。
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夏の瞑想合宿、今回は?

2006年07月29日 | 瞑想日記
今年の夏もまた、グリーンヒル瞑想研究所の10日間瞑想合宿にでかける。8月11日~20日までである。今回は、どうなることやら。またまた秘められた過剰な期待が執着となって最初はサティがメチャクチャになるのだろうか。様々なことを犠牲にして夏の10日間を過ごすのだから期待しないほうが難しい。私自身、これまでさんざんその期待(欲)で大変な思いをした。にもかかわらず、今年もまた自分で自覚する以上に期待するものがあるのかも知れない。

しかし、それはそれでいいではないか。結局は、10日間をトータルで考えると、何かしら深く学ぶものがあった。しかも、当初の自分の期待とはまったく別の視点から深く学ばされるのであった。「今回はどんなことが起るのか」とひそかにワクワクしている。これも「期待」か。

地橋先生の「この一瞬をとらえるヴィパッサナー瞑想の世界」の最近の一つ(07月19日)にこんなのがある。

「 ・良い瞑想や合宿の成果に対する過剰な期待が渇愛や欲望にエスカレートし、善心所に属するサティの仕事を妨げている。
 うまくいかない苛立ちや焦り、自己嫌悪、落ち込みなどの不善心所が芋づる式につながって、最後は昏沈睡眠に落着しているのに当人が一番気づきづらいものだ。
 万策尽き果てて、どうにもならない眠気の現状をありのままに認めた瞬間、本物のサティの対象化作用が働いた……。」

この前後の日の書き込みと連続しているので興味ある方はどうぞ。私自身も毎回似たりよったりのことをしている。そのあがきから多くを学ぶ結果になる。今回は、こころに一つひっかかりを持っての参加になるが。
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呼吸法入門

2006年07月27日 | 読書日誌
1月初旬に齋藤孝の『呼吸法入門』を読んだ。もう一度これを参照したいと思って探していたのだが、今日見つかった。この本も参照しながら、呼吸法について指導するためのレジュメを作った。今日は、結局使わなかったが、いずれ使うことになるだろう。この本に関係するところを抜粋する。

◆『呼吸法入門』齋藤孝(角川書店、2005年)
1)なぜ呼吸法なのか
★息は身体と精神を結びつけるもの。息を完全にコントロールすることで、自分の心身の状態を常に一定にさせることができる。心が平静で気持ちのよい状態を維持するには、呼吸を全うさせる(息のゆったりした流れを止めないことがポイント)
★ポイントは、息を深く長く続ける、息と動きを連動させる
テンポのよい動きは呼吸と連動している、呼吸がリズムよく流れると疲れない。
2)呼吸法の基本:呼吸を感じ取る 
★呼吸をじゃませずに呼吸を感じ取る、自分の呼吸の波に自分を浸す 
★お腹の動きを感じ取る、雑念が浮かんだら「雑念」と言葉で確認して、お腹の動きに戻る。(この辺は、私がヴィパッサナー瞑想の考え方を取りれて説明)
★リラックスして脳の疲れが回復する。
《発展》
★呼吸を意識することで、自分のからだを外側からとらえ直す。自分のからだが今どういう状態かを一つ上の意識から把握するのに、息という道具をつかう。
★試験や面接の前には緊張して自分を冷静に見れなくなる。呼吸と瞑想によって自分を客観的に見つめる視線を訓練する。大切な場面で自分の心をコントロールできる。(ヴィパッサナー瞑想の考え方に通じる。)

3)丹田呼吸法
丹田は、どんなに力を入れても他の部分が力まない場所、エネルギー(気)をいくら留めても害のでない場所。丹田で力を吸収してしまえば、自然体になる。
《方法》
★①臍下丹田をからだの中心と感じて、そこに息を吸い込むようなイメージで鼻から吸い込む。そして軽く力を入れる感じでふうっとゆっくり吐いていく。内臓がゆったり動く。
(完全に吐ききってしまうと、次に吸う瞬間に勢いよくハァーと肩が上がってしまい、安定した意識が飛んでしまう。その跳ね上がりをコントロールするために、少しだけ息に余裕をもたせる。)
《回数》30回を目安とする。

4)「3・2・15」の齋藤式呼吸法
数千年の呼吸の知をシンプルな「型」に凝縮している。
《方法》
★鼻から3秒吸って、2秒お腹の中にぐっと留めて、15秒間かけて細くゆっくりと口から吐く。
★意識を丹田に持っていき、ゆったりとお腹で息をする。力は丹田に置き、他の部分の力みはどんどん取ってリラックスしていく。
★「3・2・15」のワンセットを6回、2分。

実際には、これ以外にも前に紹介した原久子の「瞑想呼吸法」なども取りいれてまとめた。
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