瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

自己客観視の方法

2006年10月31日 | 瞑想日記
◆『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え(Stillness Speaks)』エックハルト・トール(徳間書店、2006年)

「もしあなたが、常にとまではいかなくても、ときとして、心に浮かぶ思考をたんなる思考としてやり過ごすことができているなら、さらには、心理的、あるいは感情的なリアクションのパターンが起ったときに、それとして客観視することができているなら、思考や感情が誕生する意識次元、いいかえるなら、あなたの人生のすべてを包含する、時間のない内なる空間に、すでに足を踏み入れているのです。」p36

これは確かにその通りなのだろうが、しかし実際に「思考を思考としてやり過ごし」たり、心理的、感情的リアクションを「客観視」しようとするとき、どうすればよいのか戸惑うのではないだろうか。

しかし、もしヴィパッサナー瞑想のサティ、とくにラベリングという方法を知っていれば、何をどうすればよいのかの手がかりを得ることができる。たとえば思考に囚われたときに、「思考」とラベリングしてやり過ごし、いまここでの知覚対象へのサティに戻るという方法をとれば、「思考を思考としてやり過ごす」ことは比較的に容易だ。

心理的、感情的なリアクションが起ったときにも、それに適切なラベリングをすれば、その作業によって一瞬、自分の中で起っていることを客観視する視座が生まれる。たとえば、怒りにかられたときに「怒り」とラベリングすれば、何もしない時と比べ、怒っている自分を少しでも客観視する余裕が生まれる。

ただし、ラベリングが機械的になってしまうと、いくら「怒り」「怒り」とラベリングしたところであまり意味はないだろう。その状態にある自分をじっくりと観察しつつ、その状態を表すのにのに一番適切な言葉を選んでラベリングする。そういう姿勢が自分を客観視する視点を生むのだろう。

さらに、怒りのリアクションと「自己」との関係を表すような適切な言葉を探してラベリングするようにすれば、そこに小さな自己洞察が生まれるだろう。今度の機会にぜひ自分自身の例で、怒りにとらわれたときのラベリングを示してみたい。
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すべてを「自己」との関係で

2006年10月30日 | 瞑想日記
◆『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え(Stillness Speaks)』エックハルト・トール(徳間書店、2006年)

「思考がつくる小さな『わたし』が、自分の知るすべてであり、その小さな自己が人生を動かすエンジンであるかぎり、人間は、自分自身を含め、すべての人に苦しみをもたらします。‥‥」p35

「スピリチュアルが覚醒とは、『思考の夢』から目覚めることです。」p43

思考がつくる小さな「自己」が人生を動かすエンジンであるかぎり、「自己」は、みづからを保持し強化するための戦いに一生を費やしてしまうのだろう。そして、「思考の夢」「自己という夢」が自他を苦しめる。

誰かのささいな一言に腹を立てたり、傷つたりする。「自己という思考の織物」が傷ついたり、怒ったりしているのは頭では分かる。しかし、それほど簡単には「自己という夢」への執着はとれない。「怒り」「怒り」とラベリングしたって、何が変わるわけでもない。

現実に腹立ちがおさまらず、物を蹴飛ばしたい衝動にかられるとき、どうしたらよいのか。昨日、実はそういう衝動にかられた。昨日はできなかったが、今度は「怒り」と「自己」との関係を徹底的に見据えて適切なラベリングをしてみよう。「自己」の何が傷ついて怒っているのかと。

ともあれ、「自己」に起因し、「自己」がエンジンとなって生じる様々な反応や、行動への意欲を、その原因である「自己」との関係で観察し、ラベリングしていこう。
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偽の自己(Stillness Speaks)

2006年10月29日 | 読書日誌
◆『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え(Stillness Speaks)』エックハルト・トール(徳間書店、2006年)

エックハルト・トールの『さとりをひらくと人生は‥‥(The Power of Now)』を読んだものにとっては、そのエッセンスを簡潔な言葉の数々によってもう一度確認でき、さらにきっと新しい発見ももたらしてくれるだろう。

エックハルト・トールの本を始めて手に取る人にとっては、読みやすく分かりやすい言葉の数々が、思考のない静寂の中にこそ真理があるというメッセージを力強く伝えてくれるだろう。そして、『さとりをひらくと(Power of Now)』もぜひ読んでみたいと思うに違いない。

ヴィパッサナー瞑想を実践するものにとっても読む価値のある本だと思う。

私にとっては、ちょうど「思考する自我」を意識する日々が続いているので、ますます心に響いてくる言葉が多かった。

「世界の静寂を意識しているとき、思考活動が停止していることに気づくでしょう。あなたは静寂があることに気づいています。でも、決して静寂について考えているわけではありません。」

「ほとんどの人たちは、自らのつくる思考という檻の中で、人生の大半を過ごします。過去によって条件づけられた、自らがこしらえる狭量な『偽の自己』の枠を超えることができないまま、一生を終えてしまうのです。」

日常のいかに多くの時間を思考に埋没して生きているかに気づく。泡のように浮かんでは消える無数の思考。ほとんどが気づかれぬまま消えていく。その積み重ねが「偽の自己」を作り上げていく。

しかし、思考にそのつど気づき、サティすることが多くなると、「思考する自我」を見続ける意識が生じる。「思考する自我」にサティしづつける視点を出来るかぎり保ち続けていきたい。
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小さな発見の新鮮な感覚

2006年10月27日 | 瞑想日記
先日、夢を見つつサティをし、あるいはサティしようと思い続けていたと書いた。そして起床してしばらくほとんど完璧なサティが続いた。急にそん風になったのは、もしかしたら、こうして日々つづっている日記に対していただくメッセージからエネルギーをもらったのかも知れないと思っている。あるいは、直接メッセージをいただかなくとも、私が知らないうちにエネルギーをいただいているのかも知れない。

昨日は、これまでと変わらぬ散漫なサティしかできなかった。今日は、クリアなサティの状態を少し思い出した。これまでと違うなと思うのは、日常の雑務の中でも意識して「気づき」を持続させる状態になると、かなり些細な想念・思考でもはっきりとサティできるようになることだ。

これまでならほとんど自覚されずに生じては消えてしまっていた微細が思考が、自我との関係で自覚され、「ああ、私はこんな風に自己を防衛し、あるいは自己満足を感じようとしていたのか」とそのつど確認されることだ。思考が発生するその現場を気づくことが多い。調子がよければ「思考する自我」がほとんど客観視されていくような実感がある。

小さな発見をしたような新鮮な感覚がある。「これまで、こういう微細な思考はほとんど気づかれもせず、その意味の自覚化もなされぬまま、たちまちのうちに忘れ去られていたのか」と。

そして、毎日、何万回と繰り返されるだろう、こういう無数の微細な思考の集積が「私」を(あるいは「私」という観念を)作っているのだ、という新鮮な気づき。
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クリアなサティが持続する

2006年10月25日 | 瞑想日記
今日は、職場でもサティをしようとする意志と実際のサティとが、ある程度は持続した。そして何より実感するのは、サティ中にときおり想念が浮かんでもかなり的確にサティが入るということである。そのときはもちろん、その想念と自我との関係も確認する。「ああ、今のは、あの人との関係で優越感を確認するための思考だったな」等々。

今までは職場では、たとえば廊下を歩いているときなど、ごく限られた行動でのサティしかしていなかったような気がする。職場以外でも日常生活の中では本当に部分的にしかもかなり散漫なサティしかできていなかった。

しかし、今日は違った。たとえば、椅子に座ったり、立ったり、ロッカーを開け閉めしたり、上着を着たりという動作にまできめ細かにサティが入るようになった。お茶を入れたり、飲んだりするときのひとつひとつの手の動きにもサティが入った。さらにキーボードを個々の打つ指の動きにもサティは入るのだということが分かった。

全体にサティの間に浮かぶ思考に対しても的確にサティが入ることが多くなった。小さな思考にサティが入り、それが「自我」との関係で何らかの小さな洞察につながっったことが、今日も何回もあった。

職場から駅まで歩いた20分間は、おそらくこれまでこの道を歩いた中でいちばんクリアにサティが持続した時間だった。何が今、知覚の中心対象なのかが自動的に判断され、めぐるましく変化し続ける対象にすばやくサティが入った。かすかな一瞬の思考にもサティが入った。その状態は、駅についても途切れることがなかった。

かなりの疲れがあった。電車にのって座席に座ると眼を閉じた。それでもサティはしっかりと入れることが出来た。そのうちウトウトして夢のようなイメージを見ていたときはサティが入らなかったが、入らなかったのはその時だけだったような気がする。

電車を乗り換えて立っていた時に思い出した。これは先日、寝床の中で半分寝ぼけながら「なんだ、完璧にサティが入っているじゃないか」と感じたのと同じ状態だと。あの時と同じことが出来ているらしいと。逆に、あの時、寝ぼけながら感じていたことはやはり本当のことだったようだ。
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